自信をつけた鎌倉への道のり

-なだれをうって頼朝軍に参加する豪族達-

-吾妻鏡より-

1180年(治承四年)

9月11日

頼朝公は,丸の五郎信俊を案内者として安房の国「丸の御厨」(まるのみくりや=荘園の1種)を巡見した.

[玉葉]  

伊豆の国の流人源の頼朝が反乱をおこし,伊豆やその隣国を奪ったという.平維盛,平忠度,平知度らに頼朝追討の準備をするように命令があった.

9月12日

頼朝公は約束通り洲崎神社に水田を寄進した.

9月13日 

頼朝公が安房の国を出で,上総の国にむかった.従う武士は約三百余騎であった.であるのに上総の介広常はまだこない.千葉の介常胤は一族を連れて頼朝公の元へ馳せ参じようとしたが,息子の胤頼がその前に下総の国の目代は平家方なので,これを討ち取ってから頼朝軍に加わりたいと言った.千葉の介常胤は早速命令を下し目代の館に火を放ち逃げるところをつかまえその首をとってしまった.

[玉葉]

筑前の守貞俊来は頼朝追討の軍隊を22日に出すと言う.

9月14日

下総にある平家方の荘園「千田の庄の領家判官代親政」が目代が殺されたことを知り,千葉の介常胤を襲うとしたので,常胤の孫,千葉成胤がこれを生け捕りにした.

9月15日 

源信義達が長野で反抗する平家方の武士を平らげ山梨に戻った.このことを北条時政に伝えた.

9月17日 

上総の介広常など待たずに下総に軍を動かすことになった.千葉の介常胤の子太郎胤正,次郎師常(後の相馬)らが下総の国府に集まった.従う軍は約三百であった.頼朝公は千葉介常胤に「父とも思うぞ」と声をかけ,自らの横に座らせた.千葉の介常胤はまず生け捕りにした千田の庄の領家判官代親政を頼朝公に見せ,次に一人の若者を紹介した.かつて戦いで死んだ源氏の血を引く毛利頼隆という.その気品ある姿を見て頼朝公は常胤の上座に座らせたという.

9月19日 

ついに上総の介広常が一族二万騎を連れて隅田川の川辺にやってきた.それを見た頼朝公は上総の介広常が遅れてきたことに大変怒った.上総の介広常は頼朝公の人物が大したことがなければその首を取って平家方の恩賞を貰おうと考えていたから,頼朝に大声で怒鳴られビックリして,その人物の大きさ,そして武士の棟梁である頼朝に対して畏敬(いけい=おそれ敬う)の念をもって,思わず平伏したという.これによって頼朝軍は2万をこえる大軍にふくれあがった.

9月20日 

甲斐(山梨)の武田信義(源氏)に使いをだし,安房,上総、下総の3カ国の軍勢と.上野,下野,武蔵等の国々の精兵を駿河の国に向かわせ,平家の軍隊を迎え撃つと伝えた.甲斐の軍勢は北条時政を先頭に黄瀬川で合流するよう命じた.

9月22日 

平家の軍勢が関東の反乱軍(頼朝軍)を討つために出発しようとしたが,左近少将平維盛朝臣が「今日は日取りが悪い」といって忠清と口論になった.今この時期にそんなとを言ってい場合ではないのに.

[玉葉]

  聞き伝えに寄ると頼朝の軍は数万にふくれ上がり7〜8カ国を占領したという.

9月24日 

北条時政と甲斐の源氏が平家の軍勢をどう討つか話し合い,駿河(静岡)での軍の展開を話し合った.

9月28日 

頼朝公は江戸重長に使者を出して,大庭景親の要請によって石橋山では敵として戦ったが「以仁王の令旨」を守って頼朝軍に参加せよと伝えた.(つまり許すと)

9月29日 

頼朝軍に加わるものはすでに1万7千騎になり,さらに甲斐/常陸(茨城)/下野(栃木)/上野(群馬)の豪族も加わり5万騎になろうとしている.

今日,平維盛がようやく関東に軍勢を進発した.薩摩の守(平)忠度,三河の守(平)知度らがこれに従った.

[玉葉]

  今日の朝,頼朝追討軍が出発した.

9月30日

関東の有力な源氏である新田も足利も頼朝公の手紙に返答もせず,まだ平家方としてふるまっている. 

 

ここまでのいきさつと解説

三浦氏や北条氏の一部と合流することができた頼朝は,安房の国(現在の千葉県,館山/勝浦/洲崎のあたり)を回り,地元の有力者だった安西氏を味方につけました.この間,頼朝の使者がかつて父義朝に従っていた千葉氏/上総氏のもとに行き「はやく軍勢を率いて頼朝軍に加われ」とさいそくしました.千葉の介常胤(ちばのすけつねたね)は早速これに応じ,地元の目代(もくだい=領主の代理人)を襲います.ところが上総の介広常(かずさのすけひろつね)は「平家につくか頼朝につくか」迷っていました.

頼朝としては最大の豪族である上総の介広常の応援がなければ「心細い限り」ですが,回りの武士からは「弱いところを見せてはいけない」「強気でいけ」と助言されます.この時の頼朝は,内心,上総の介の行動をおそれていたと思います.しかし最も頼りとする千葉の介常胤の「とにかく味方をふやしながら鎌倉に行くべきです」という助言を聞き入れて,下総の国に入ります.頼朝一行が広常の領地である上総の国を通っていくわけですから,広常も頼朝一行を襲うか黙って目をつぶるか「迷っていた」はずです・・・

※現在頼朝の北上コースは2つ考えられます.一つは東京湾岸を通って下総国府(市川)に至るコースと,成東あたりから下総国府を目指す内陸コースです.湾岸コース上には上総国府(市原)があり,危険です.また内陸コース上には態度をきめかねている「上総介広常」の居館があったと言われている「夷隅」(いすみ)付近を通過しなくてはなりません.どちらのコースにも頼朝の伝説が残っていて難しいところです.しかしキーポイントはやはり,「そのとき上総介広常がどこにいたか?」という点にあります.頼朝にとって危険なのは国府の勢力よりも強大だった広常だからです.

その間に近くの豪族達が次々と頼朝軍に参加しました.

そうしているうちに19日,ついに上総の介広常が一族と家来の総勢約17000名をひきいて頼朝のところへやってきました.吾妻鏡には「広常は頼朝が大したことのない人物だったら討ってしまうつもりだった」と書かれています.多分本当のことでしょう.頼朝もかなり緊張したと思いますが,多分千葉の介常胤あたりから「怒鳴りつけてやりなさい」と言われて,そのとおりにしました.常胤と広常は親戚どうしですから,広常の性格を見抜いていました.とにかく千葉県での頼朝は常胤にずいぶん助けられています.ですから頼朝は常胤のことを「父と思う」とまで言ったのです.

頼朝に怒鳴られた広常はビックリして「家来」になりました.これで頼朝軍は急に2万をこえる大軍になったのです.このことを知った他の豪族は「我も我も」と加わり,頼朝軍はたちまち4万名近くにふくれ上がりました.

どうです,面白いでしょう.真鶴から逃げてきて不安で一杯だった頼朝さんが,味方が増えるにしたがって「自信」をつけていく様子が良くわかりますか?また「どうしようか」と迷っていた豪族たちの気持ちもよく伝わってきますね・・


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