もともと開拓農場主,あるいは貴族や寺社領/の管理人だった武士の立場は非常に弱いものでした.国には中央から任命された国司あるいはその代理人である目代が権力をふるい,土地を奪ったり,必要以上に税をとったりするなど,地域の住民を苦しめていました.豪族というのはその地域の古くからの実力者ですが,それでも中央からの役人には逆らえなかったのです.その上,荘園の持ち主である貴族の屋敷の警護のために京都にいったり,戦争のたびに集められて苦しい思いをしました.
そうした豪族達は自分の立場を有利にするために,血統の良い平家や源氏あるいは藤原氏の血筋を引く実力者と親戚関係になりました.関東の武士達の多くが平氏の血統であるのはそのためです.平氏も源氏もともに天皇の皇子の子孫ですが,地方の国司になってそのまま帰らずにその土地に住みついた人達です.
(源氏)と書いてある以外はほとんどが平氏の流れを組む豪族達です.頼朝を討とうとしたのは大庭景親,江戸重長,河越重頼たちですが,大庭景親をのぞいて後に頼朝軍に参加します.結果的にここに書かれている豪族達のなかで,滅びたのは大庭景親と頼朝に従わなかった佐竹氏,後に源平の争乱の最中に頼朝軍と戦った木曽義仲だけです.あとは全て頼朝の御家人になりました.注(後に北条氏との権力争いで滅びた豪族もいます)
上の図を見てください.ここに名前があがっている豪族はその地域を代表する有力豪族達で,介(すけ)とか掾(じょう),目(さかん)などの官職(朝廷から任命された役人の職種)を持っていました.このようにその土地を実際に支配してきた豪族で,しかも朝廷から任命された官職を持っている人達のことを「在庁官人」(ざいちょうかんじん)といいます.しかし,官職は持っているとはいえ,中央の貴族や京都にいる平家一門には頭のあがらない存在でした.目次
頼朝はこの在庁官人達の心をとらえたと言ってよいのです.
※この時代は国の主である国主やそれをあずかる国司は実際には地方に行かないで京都に住む貴族でした.(この時代は平家)彼等は代理人である目代を派遣して税を取り京都に運ばせていたのです.ですから目代が実際上の支配者というわけですね.在庁官人とはそこが違うのです.
頼朝はいばっていた伊豆の目代(もくだい=国主の代理人=この場合平家)を討ってすぐに「目代の支配は無くなった,これからは頼朝が伊豆を支配する」と宣言(せんげん=おおやけに発表すること)し,豪族達の苦しみを解放しました.石橋山では死ぬ思いをしましたが京都の平家に対するうらみを持つ武士の数は多く,頼朝追討軍(ついとうぐん=うちやぶるために作った軍隊)に参加している武士の中にも,頼朝に味方しようとする武士がいたほどでした.なかでも伊豆の山中で頼朝を見逃した梶原景時(かじわらかげとき)は有名ですね.
千葉にわたった頼朝は,豪族達を次々と味方に引き入れ,房総(ぼうそう=千葉県)や常陸(ひたち=茨城県)の国府(国司や目代のいる役所)を次々とおそい「平家」の支配を打ちくだいていきました.そして働きのあった武士たちにすぐ恩賞(おんしょう=はたらきにおうじたほうび.主に土地)を与えています.この場合の恩賞とは頼朝軍に逆らっていた豪族達や,国司や目代の支配地を分け与えるということです.
後に将軍と御家人の基本的な関係となる「御恩」(ごおん)と「奉公」(ほうこう)のあり方は,このように実際の戦闘を通して作り上げられたものでした.後にできる「政所」(まんどころ=幕府の経済をつかさどる役所)や「侍所」(さむらいどころ=ご家人をまとめ戦争にそなえる役所)あるいは「問注所」(もんちゅうじょ=おもにご家人同士の争いを裁判する役所)などの組織も,頭の中で考えられたものではなく,実際の経験をもとに作られていますから,初期の頃の仕組みは,武士の実態にとてもあった組織だったといわれています.
このように,今まで「頭の上の重石」だった目代や国司の支配を次々と武士の手に移していった頼朝に,その様子を見ていた他の豪族達が,我も我もと参加してくるのはある意味では当然のことと言えます.頼朝はそうした「武士の願い」を理解していたのです.目次
頼朝が源氏の嫡男(ちゃくなん=正統なあとつぎ)だからなのか,平家に対する反感からなのか,流人(るにん)時代の頃から頼朝のもとには豪族達の師弟(してい=子供や兄弟)が多く出入りしていました.立場の弱い武士はのちに頼朝が力を持った時の「保険」の意味もあって頼朝と通じ合っていたのです.ですから流人とはいっても,頼朝は集まった豪族の息子達を連れて狩りに行くなど,案外自由な生活ぶりでした.頼朝の身柄(みがら)を引き受け,監視役(かんしやく=見張り)だった北条氏は平氏の流れを組む豪族ですが,頼朝の行動にはだいぶ目をつぶっています.それどころか自分の娘である政子を嫁にしました.北条時政は何かがあれば頼朝をうまく利用しようと考えていたのです.しかし,自らが決断して山木襲撃(しゅうげき)の実動部隊(じつどうぶたい=実際に戦う部隊)になるところまでは予想していなかったと思います.
常識で考えれば山木襲撃は成功しても,「そのあとが大変だ」ということは容易に予測のつくことです.なぜなら,まだ勢力の弱い頼朝を討ち取れば,大きな恩賞がもらえるからです.大庭景親をはじめいくつかの豪族はそうした行動を取りました.(大庭景親には源氏に対する不信感もあったのですが,ここではとりあげません)
時政たち北条氏は一族をあげて甲斐の武田源氏,相模の大豪族三浦義明,房総の有力者千葉の介常胤と連絡を取りあいます.石橋山で破れたあとも,この関係は続き,頼朝が安房(千葉県)に逃げたのちはふたたび千葉氏を中心に豪族達をまとめていきました.その中心だったのが千葉の介常胤(ちばのすけつねたね)でした.彼は頼朝に「鎌倉」に行くことをすすめ,上総の介広常の性格を読み抜いて頼朝軍に参加させることに成功しました.ですから頼朝は常胤を「父とも思う」と言ったのです.それ以外にも豪族の中から優秀な人を頼朝はブレーン(頭脳集団)に加えていきました.
頼朝は本格的な政権を作り上げていくために「大江広元」(おおえのひろもと)「三好康信」(みよしやすのぶ)といった法律や事務能力にたけた人を京都から呼び寄せて,ブレーンに加えていきます.こうして頼朝の回りは優秀な人間で固められていきました.優秀な人間には優秀な人間が集まることの証ですね.目次このように頼朝は人材に恵まれ,関東の武士達の支持も得て鎌倉に武士の利益を守る組織を作ります.これが後世に言われる鎌倉幕府なのです.頼朝は主従関係を持った御家人達に,差別すること無く土地争いの裁定を行ったり恩賞を与えています.また,領地も狭く家来も少ない小さな御家人でも,顔を覚え性格までよく知っていたと言われています.御家人にしてみれば大変に信頼できる人物だったのです.
頼朝が源氏の嫡男というだけでは,とても豪族たちの支持を得ることはできませんでした.上総の介広常のように,首でもとって恩賞をもらおうとする者の餌食になったことはまちがいないでしょう.
頼朝は信頼できる人の言葉を聞き「豪族=武士」が何を望んでいるかを理解して行動しました.武士の望みとは,まず自分の領地を認めて守ってもらうこと.次に中央の役人に必要以上の税を払わされたり,ただ働きさせられないこと.命をかけて戦った戦争の恩賞(新しい土地)をもらうことでした.頼朝はこれらの事を次々と実行していったのです.口先だけでなく「確かに実行することによって信頼を得ていくことが大切だ」ということを頼朝さんは私達に教えてくれていますね.
1.京都からやってきた平氏側の役人の全員逮捕. 2.頼朝軍に敵対した武士の領地の没収(ぼっしゅう). 3.頼朝軍に参加した者の領地をみとめることと,敵から没収した領地を分け与えること. 4.役所に残されていた年貢米の没収. |
また頼朝さんには,政権安定のためには弟である義経や範頼も討ってしまうなど,冷静にものごとを判断して実行していく力もありました.今の人からすれば「なんて冷たくて残酷な人なのか」と思われてもしかたないところですが,もし義経を生かしておいたらどうなったでしょう.せっかく作ろうとした武士の政権も,うまく生まれなかったかもしれません.頼朝が日本の歴史の中でもトップクラスの政治家と呼ばれるのはこうした理由からなのです.
ですから頼朝亡きあと政治家としての能力に乏しかった頼家や実朝は暗殺されてしまいますね.その後は北条氏を中心とした御家人による合議制(合議制=話し合ってきめること)の政権になりますが,後半になると北条氏の専制政治(せんせいせいじ=身内だけの政治)になってしまいます.そうして幕府は豪族の信頼を失っていきました.鎌倉の政権が倒れた最大理由がここにあるのです.目次
玉川大学・玉川学園・協同 多賀歴史研究所 多賀譲治