玉川学園小学部 6年生 社会科の学習 2005年版 目次 動画資料はこちら (見学当日に見た携帯電話の画像に説明をつけました) 武士は戦のとき以外にも、刀を抜く事はあったのですか? 武士の子供たちはどんな毎日をすごしていたのですか? 敵や味方をどうやって見分けたのですか? 竹崎季長は事実、1人でも元の兵士を倒したのでしょうか? 天皇や将軍と何も関係を結んでいないただの豪族はいたのですか? 武士の武器にも階級の差はあったんですか? 鎌倉武士(農民)は、畑の仕事や役所の仕事以外他に、どんなことをしていたんですか? 清盛と頼朝の仲をそれほどまでに悪くしたものは、なんだったのですか?砂鉄からどうやって製品を作るのですか? 元軍の集団戦法を教えて下さい 国司と守護はどのような関係になっていたんですか? 鎌倉時代は、法律とかあったんですか? 武士の食事の中で「ひしお」というのは何ですか。 武士は勉強していたのですか? かさがけや犬追物ってなんですか? 付属家屋とは、なんですか? 武士はどのような家に住んでいたのですか? 鎌倉時代の政治はいくつあったのですか? 武士はどんな生活を送っていたのですか? 化粧坂の道は昔も凸凹だったのですか? 「てっはう」の大きさを教えて下さい 武士はどんな家にすんでいたのですか? 政治の仕組みは二つあったのですか 化粧坂にはどんなお店があったのですか? 鎌倉の地名の由来について なんのために相撲をするのですか?頼朝は伊豆のどこに流されていたのですか? 御恩と奉公について教えて下さい 鎌倉時代の人々は、何を食べていたのですか? 鎌倉幕府内には約何人、人がいたんですか 北条政子はなんであんな堂々としていたのですか? なぜ、頼朝の墓に、島津家の家紋があるんですか? 鎌倉の町は攻められたことはないのですか? 「一所懸命」「いざ鎌倉」の、由来 武士にも上級武士、下級武士なんかあったんですか? 段葛はなぜ出入り口の幅が違うのですか? 鎌倉の町は一回も敵に攻められたことはなかったのですか? 滑川はなぜくねくねなのですか?
誰が書いているかを鉛筆アイコンの色で分けました.みんなの質問 みんなのアドバイス 父母のアドバイス 渡瀬先生 ゲンボー先生 他校
武士は戦のとき以外にも、刀を抜く事はあったのですか?あったらそれはどういう時ですか? 藤 裕彌 2005.7.2刀はめったに抜いてふりまわすものではありません。手入れのためや訓練の時以外に抜くことは少なかったと思います。当時のもっとも有効な武器はなんといっても弓矢です。当時の武士は弓矢の訓練と乗馬はさかんに練習していました。実戦用の刀としては太刀とよろい通しがありましたが、剣道のように刀を使ったのではなく、馬に乗りながら片手で振り回していたというほうが正しいと思います。よろい通しは組み伏せた相手の頸動脈を切ったり心臓を突き刺すものです・・・・ですから鎌倉時代に剣道はありません。馬に乗るのがうまい人、弓がうまい人、力の強い人、そして運の強い人が生き残っていくわけですね・・・
剣道が生まれたのは江戸時代になってからで、それも戦で役に立つためというより、心身を鍛えるとか、試合に勝つということのために広まったものです・・・ゲンボー先生
武士の子供たちはどんな毎日をすごしていたのですか? たとえば勉強はどうしていたのですか?どんなことを学んでいたのでしょうか? 私たちと同じ11歳はどんな生活をおくっていたのですか? 萩組 紗也香 2005.7.3武士の子供も小さい頃はコマ回しや、はごいた、竹馬、すごろく、など今も残っているような遊びをしました。男の子だったら川で魚をとったりとか、虫をつかまえたり・・野原をかけずり回っていたことでしょう・・・女の子はおままごとやお人形さんで遊んだり・・・これは絵や実物としてちゃんと残っています。
勉強ですが、人によってちがいはありましたが、武士の子供の場合は文字の読み書きもありました。学校はありませんが文字の得意な人に習ったのです。またお寺でもそうしたことを教えてくれました。
11歳〜12歳というのはそろそろ大人の仲間入りの年齢です。そのころには「弓馬の道」といって弓矢の訓練や乗馬の訓練が行われはじめました。その総決算が狩りです。大人の仲間入りをする武士の子供は大人とともに狩りに出かけて獲物をしとめるのです。
頼朝の息子の頼家は富士山麓で大々的な狩りを行い、鹿を射止めたそうです。喜んだ父親の頼朝は当時としては貴重品だったおまんじゅうを御家人に配ったと書かれています。子供が大人になったというめでたい出来事だったわけですね。
この時代男の子は12歳〜14,5歳で元服と言って成人しました。この時にはじめて烏帽子(えぼし)という帽子をかぶるのです。以後、寝るときとかお風呂に入っている時以外に烏帽子をとることはありません。これが一人前の男のしるしというわけです。ですから初めて烏帽子をつけてくれる人のことを烏帽子親といい、実の父、あるいはそれ以上の第2の父となります。
蒙古襲来絵図で有名な竹崎季長が元寇の恩賞に不服があり、熊本から鎌倉までの旅費を出してくれたのも彼の烏帽子親でした・・・
子どのころは思い切り子供らしく遊んでいた武士の子供も、大人の仲間入りをしたのと同時に戦があれば出陣しました・・・やられちゃえば死んじゃうんだから大変だね・・頼朝は14歳で戦に出て捕虜になりました・・殺されるところをなんとか流罪ですみましたが、30歳くらいまで辛い生活を送っていたのです・・・木曾の義仲の息子義高は、頼朝の娘である大姫の婚約者という名目で人質として鎌倉に来ていましたが、父義仲が頼朝に討たれたのを知ると鎌倉を逃げ出しました。かわいそうにわずか12歳だった義高は3日後に現在の狭山市でつかまり首をはねられてしまいました。
大姫はそれがショックで病気になり、生涯結婚せずに若くして死んでしまいました。
鎌倉時代は女の人も男の人とほぼ同じ権利を持っていましたから、数は少ないのですが中には地頭になったり、戦争に出て戦う人もいました。家庭にあっても旦那がいつ死んじゃうかも分からない時代です、そうなると子供と一緒に逃げなくてはなりません・・・女の子もそういう心構えを教育されました。よく北条政子は気が強いと言われていますが、確かに政子は特別に気が強かったと思いますが、当時の武士の娘は多かれ少なかれ気が強くなければやっていけなかったのです。 ゲンボー先生 2005.7.4
切り通しの事についてなのですが、味方との合流地点や、相手の待ち伏せに使われたと教えてもらいましたが、敵、味方の区別は、旗や家紋だけだったのですか?それとも何か他にも目につくような物があったのですか?教えて下さい。芙蓉組 廉 2005.6.29戦の時にはそのようになったでしょうね。なにせそこからしか攻めてこないんだから・・
鎌倉時代に武士では家紋はあまり使われていませんでした。源氏が「笹りんどう」なんていうのも江戸時代の歌舞伎で「何をつけようか?」ということで、頼朝とはまったく無関係の源氏(源氏ってたくさんあったのです)が使ったからというのでつけちゃったものですからね・・・今では鎌倉市の市章にまでなっちゃっていますね・・だからこのことをあんまり言うとチトまずい・・・(笑)
敵味方の識別は旗の色ですね・・しかし上級武士になると旗をさしていないから、互いの顔で見分けるしかない、もう一つ一騎打ちの場合は必ず互いに名乗り合います。これで間違いなし・・・ゲンボー先生 005.6.30
竹崎季長は事実、1人でも元の兵士を倒したのでしょうか?欅組 英介 005.6.29英介君,竹崎季長は一人も倒していません。
九州の御家人達は幕府の命令によって、少弐経資(しょうにつねすけ)の指揮下にはいるように言われていました。 その時に季長は命令を無視して元軍がうようよいる別の場所に行きました。なぜなら早く手柄を立てて恩賞をもらいたかったからです・・・(笑)
戦の時に誰よりも早く敵の中につっこむことを「先懸け」(さきがけ)といい、恩賞も多かったからです。季長は領地を持たない御家人でしたからそれはもう張り切りました・・たった5人の家来を連れて敵陣に突っ込んだのです。・・と、そこまではよかったのですが馬が弓に撃たれ、ちかくで炸裂弾(さくれつだん=てっはう、のこと)が爆破し、自らも矢を受けて「あわや」敵に殺されるところを、仲間の御家人によって奇跡的に救われました。このとき季長は29歳です。
季長はこの働きをたいした手柄だと思っていたのですが、 少弐経資は命令違反のうえ迷惑までかけたのだからと、幕府に報告しませんでした。
それで頭に来た季長は旅費を工面して熊本から鎌倉まで来て、幕府に訴えたのです。
このことは先生のページにもくわしく出ているので。そちらを見てください。 http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/
「みんなの広場」→「小学生の質問」→「人物のこと」→「竹崎季長〜」です。
ゲンボー先生 005.6.29
豪族の中で、将軍と関係を結んでいる豪族のことを御家人。天皇、寺院、貴族などと関係を結んでいる豪族を非御家人といいますが、天皇や将軍と何も関係を結んでいないただの豪族はいたのですか。教えて下さい。欅組 智香 005.6.26むずかしい質問だね・・・将軍と関係していない豪族は確かにいました。この人達はおもに近畿・中国・四国・九州に多くいました。これらの地域でも鎌倉時代の中ごろになると将軍と関係を持って御家人になる武士も増えましたが、さいごまで御家人にならなかった人たちも数多くいました。
さて、その人たちも領地を持っていれば国府(こくふ=地方にある朝廷の役所)に税を納めなくてはなりません。こうした領地を「国衙領」(こくがりょう)といいます。この人達には朝廷から位が出ました。
国衙領ではなくて、荘園として貴族や寺社に年貢を納める人もいました・・そうした人たちは朝廷とは無関係ですが、中には半分は荘園に、もう半分は国衙領にと領地をわけて、朝廷から位をもらう人もいました。
どうして位をもらいたいかというと、人より偉くなった気持ちになれるのと、そのくらいに応じて税が安くなったからです。
さてここで大切なことですが、御家人が持っている領地も荘園か国衙領のどちらかだったということです。もちろん、両方をうまく使いわけて領地を治めている人はいました。ですから御家人だって国衙領を持ち国府(地方の役所)の役職を持つ人は朝廷から位がもらえました。
では将軍は何をするかといえば、地頭という位を御家人に与えてその土地を保障してくれたのです。何でこんなことになっているかといえば、朝廷が認めてくれた領地でも、強いものが現れるとうばわれてしまうことも多かったのです。朝廷とすれば誰がその土地を治めようと、税さえ払ってくれればいいわけで、豪族がつぶれようが殺されようが知ったことではないというわけです。
荘園が増えた理由はここにあります。 こまった豪族が強い力を持つ貴族や寺社に領地をさしだしました・・・もちろん名目上ですよ・・・
しかし、関東ではそれだけではすまなかった・・関東地方は新しく農地が作られていった開拓地で、法律なんてあってもないのと同じ・・境界争いや水争いがたえませんでした。そこにうまいこと現れたのが頼朝というわけだったのです
彼らは頼朝を旗頭にして、武士の権利を強めようとしました。そして一致団結して朝廷に対抗したのです。幕府とはそういう組織なのです。将軍の一番大切な仕事は
1.御家人の領地を保障して守ること
2.働きによって新しい領地を与えること
3.争いが起きたら公平に裁判すること
これは、そっくり御家人の望むことです・・だったのです。御家人がいなければ幕府はなりたたないということですね・・・
ゲンボー先生 005.6.28
武士の武器にも、武士階級あったんですか? 萩組 美月2005.6.26美月さん。質問の意味ですが、階級によって持つ武器が違うと言うことですか?
それなら、あります。上級の武士は「太刀」(たち)という長い刀。「よろい通し」という短剣。それに「弓矢」です。この人達は馬に乗って戦います。よろいやかぶとも豪華です。
下級の武士は「胴巻き」という簡単なよろいをきて主に「なぎなた」という棒の先に太めの剣がついているような武器や「弓矢」を持っていました。もちろん中には「刀」を持っている者もいますが、上級の武士と違って1種類しか持たないというのが多いようです。
もちろん、武器の質も違いますよ・・上級の武士が持つ武器はよろいやかぶとと同じように立派なものでした。
もう一つのちがいは「履き物」(はきもの)です。下級武士の多くは「はだし」か「わらじ」です。上級の武士は「くつ」を履いています。これは馬に乗るからですね・・あぶみをしっかり踏まないと馬を上手に動かせないばかりか、相手と戦うときにふんばりが効きません。ゲンボー先生2005.6.28
鎌倉武士(農民)は、畑の仕事や役所の仕事以外他に、どんなことをしていたんですか?何でもいいので教えて下さい。藤組 慎二 2005.6.25修行をしていました。弓の練習 笠懸 流鏑馬 犬追物などを毎日訓練していました。藤組 みく 2005.6.25
こんにちは。先生のホームページに「武士の一日」があるのでそれを参考にしてください。(ゲンボー先生)武士にも小さな領地しか持っていない者から,広い領地をいくつも持っているような大豪族まで幅広くいましたが、今日は平均的な武士の生活をお話しします.
4:00〜5:00 起床 行水 洗面
5:00 農繁期は農業の準備と着替え ※農繁期=(のうはんき)田植えや植え込み,耕作など農業の忙しい時期.
役所で働くときは自由時間
10:00 田畑で働く(農繁期)
役所で働く
11:00
12:00〜16:00 田畑で働く(農繁期)
乗馬・弓の訓練などの武芸に励む
16:00〜17:00
17:00〜 本を読んだり遊んだり自由に過ごす
20:00 就寝
ざっとこれが一日のすごし方です.
基本的にはお日様が出るころに起きて,暗くなると寝ちゃうという感じですね.ただ夜は大切な自由時間ですから,必要な部屋には明かりがともされていました.とはいっても,今の単位で表すと数ワットですから,ようやく字が読めるという程度でした.
もともと畳はベッドですから寝室にありました.それ以外は板の間です.ただし大豪族の家の絵を見ると部屋の周りにもしいてあります.
食事ですが、今日の人と大きく違うのは一日2回ということです.ただし戦のときはこれが増えます.食べられるときに食べておかないと体が持たないからです.「腹がへっては戦はできぬ」ですね.大体3回から5回くらいは食べていたようです.
食事は貴族に比べて質素でした.ご飯は基本的に「玄米」(げんまい)です.野菜が中心で時々鳥や鹿.イノシシなどの肉が出ました.魚は干物(ひもの)が中心で海から遠いところではめったにでませんでした.もっとも,川魚は食べていました.それでも魚を生で食べるということはなく,塩焼きや「なれ寿司」といってご飯と一緒に醗酵(はっこう)させてすっぱくなったのを食べていました.これが,今のおすしのルーツです.今でも滋賀県の「フナ寿司」は有名ですね.
武士は作法に厳(きび)しく,目下のものが目上の者に無礼をはたらくと重い罰(ばつ)が待っていました.ただし御家人同士は対等の身分でした.例えば道を歩いているときに会ったときは馬から下りて挨拶(あいさつ)を交わしました.
武士の家では,家をつぐ「惣領」(そうりょう=「嫡子」(ちゃくし)とも言う)次に,その他の子供である「「庶子」(しょし)の序列がありました.そして下人(げにん)とよばれる人々が,掃除(そうじ)や食事などの家事を行っていました.ゲンボー先生 2005.6.28
平清盛は、高熱で死ぬ間際に『わしが死んだら頼朝の首をはねて、墓前にたむけてくれ。』といったそうですが、清盛と頼朝の仲をそれほどまでに悪くしたものは、なんだったのですか?ただ源氏と平氏だったからだけですか?教えて下さい。芙蓉組 廉 2005.6.23僕が教えます。このことは大河ドラマの義経を見ている人ならよくわかると思います。平治の乱だったと思うけれど、源氏は戦で負け、総大将の源義朝(頼朝の父)が殺されてしまいます。その戦には頼朝も参加していて生き残ったのですが、平清盛の所へ連れて行かれて清盛が頼朝を殺すか殺さないか決めます。その時にいけのぜんにという人が清盛に頼朝を助けてやってくれと頼みます。そうして頼朝は伊豆の蛭ヶ小島という所に流されます。そこで頼朝は挙兵します。清盛は命を助けてやったのに、頼朝が挙兵をしたので「恩知らずめ!」と怒ったわけです。藤組 完太 2005.6.23
ありがとう。俺その時だけ見のがしちゃったんだ。芙蓉組 廉 2005.6.23
あはは・・毎週見ようね・・・(笑)でもね、あれはドラマだから「ありえない」こともやっていると言うことをちゃんと頭に入れておいてね・・・
たとえば、木曾義仲の軍勢が市場を荒らすときに「とうがらし」が売られていたこと,有田焼の大壷が部屋の中にあったり・・・・これはその時代にはないものです。時代考証(じだいこうしょう)といって、その時代のことをやるのに間違えがないかを調べることがちゃんとできていないなあ、というしょうこです。
義経が木曾義仲の子供「義高」や頼朝の娘「大姫」の世話役だったことも事実ではないし、京都にいる木曾義仲に会うのも事実ではありません。あれはドラマだからそれでもいいのですが、歴史的な事実だと思ってみている人は多く、そうした間違ったことがいつのまにか本当になっちゃうことがよくあります。歴史ドラマにはそういうのが多くてこれには注意しなくてはなりません。勉強して本当のことを知るしかないんだけど・・・ゲンボー先生 2005.6.23
稲村ケ崎に砂鉄があります。その砂鉄を使って農具や武器を作るのですが、どのように鉄を取り出してどのようにして武器や農具を作るのですか?予想でもかまいませんので教えて下さい。藤組 完太 2005.6.22たぶん熱で固めてつっくったと思う 藤組 康介 2005.6.22
私も、一回熱で温めて溶かしドロドロ状にして固めて作ったんだと思いました。芙蓉組 ありす 2005.6.22
みなさん、このページを参考にしてください。(砂鉄のとりかたが良く分かります) (「たたら」のことが良く分かります) ゲンボー先生 2005.6.23
元寇で元のチームは集団方法でせめたとありますが何人くらいでせめたのですか?また、何チームにわかれ、攻めたか。教えてください!!まいこ 2005.6.22元軍の単位は十人隊・百人隊・千人隊とまとめられていました。十進法ですね・・・・本来は全員が馬に乗って戦う騎馬兵ですが、日本にきた元軍には中国や朝鮮の兵士も多く、また輸送のせいげんもあったため「蒙古襲来絵詞」(もうこしゅうらいえことば)には歩兵も描かれています。日本にきた元軍も十人を小隊、百人を中隊、千人を大隊として行動していたと思います。ゲンボー先生 2005.6.23
鎌倉時代にも大化の改新のときにおかれた国司や郡司はいたんですか?いたとしたら国司と守護はどのような関係になっていたんですか?さやか 2005.6.22この質問は素晴らしい質問です。目のつけどころが素晴らしい。確かに、公地公民になり、地方の土地は国司が支配してたはずですよねえ。荘園の領主と国司とはどのような関係になっていたのでしょうねえ。だれか何か意見や考えがありますか。考え方」の評価5にあたいする質問です。渡瀬先生 2005.6.23
さやかさん 国司や郡司は鎌倉時代にもいました。この質問は鎌倉幕府のあり方を知る上でとても大切だと思います。少しむずかしいかも知れませんが分からないところは渡瀬先生に聞いてみてください。
1.鎌倉時代の直前の時期(関東では)
国司は朝廷から各国に「はけん」されていました。これは主に京都の貴族や、天皇の子供の子孫です(源氏や平氏がこれです)彼ら国司には「守」(かみ)という職名がつけられます。現在で言えば「県知事や都知事」ですね・・・国司の中には実際にその国に行った人と、そうでなくて代理を送った人がいます。この代理人を「目代」(もくだい)といい、伊豆で旗揚げした時に頼朝がたおしたのは「伊豆の目代」でした。
国司の下には「郡司」がいます。これはもともとその地域を支配していた実力者、つまり豪族(ごうぞく)です。豪族は広い土地を支配していましたが領地争いの多かった関東ではそのほとんどが「武士」になって自分の土地を守っていました。郡司クラスの職名は「介」(すけ)です。介はいまでいうと助役や副知事といったところです。
さらにその下には「掾」(じょう=いまでいうと部長)があります。この人達も中程度の領主や、介の子供(つまり次の介予備軍)でした。
また、さらにその下に「目」(さかん)という職名がありましたが、これは今で言うと課長クラスです。かれらも豪族、つまりその土地に住む武士達です。
※彼らの多くは自分の土地を守るために色々な工夫をしました。
工夫その1.
豪族たちは親戚(しんせき)や兄弟の結びつきを強めて自分たちの力を強めていきました。また、仲のよい豪族はお互いに子供達を結婚させてさらに強いグループを作っていきました。これが「武士団」です。その武士団の頂点に立つ人には自分たちとは違う「家柄のよい人」を選びました。この人達が国司となって国にはけんされた源氏や平氏だったのです。おなじ程度だと「ドングリのせい比べ」で争いが起きるからです。豪族は源氏や平氏とも親戚関係になっていきました。関東では特に平氏と関係を持つ豪族が多く、鎌倉時代の直前には多くの豪族が平氏と関係を強めています。町田やこの玉川学園あたりを支配していた小山田一族も平氏のなかまです。
※「おまけの話し」:頼朝に味方した関東の武士のほとんどは「平氏の系統の豪族」でした。「源平の戦い」というのは物語からつけられた呼び方で、実際には「関東の武士」対「京都の平氏」といったほうが正しいのですね・・・
工夫その2.
京都の有力な貴族や、力のあるお寺や神社は「税を朝廷に納めなくてよい」という権利と「役人が領地に入り込めない」という権利を持っていました。関東は新しく開拓された土地だったため、領地争いがたえず、国司のなかには部下を使って弱い領主の土地をうばったり、領内に住む農民を勝手に使ったりするものが多かったのです。そこで、豪族の中には形だけ領主の名前を有力な貴族や、お寺や神社にしてもらいました。こうした土地のことを「荘園」(しょうえん)といいます。荘園になれば名目上の領主に「お礼」を払えば、高い税金や我がもの顔で入ってくる役人を防ぐことができます。
工夫その3.
一方で、荘園にしない土地・・つまり朝廷に税を納める土地のことを「国衙領」(こくがりょう)といいます。国衙領をもっていると先に説明した「介」「掾」「目」になることができます。法律があてにならなかったこの時代に、朝廷から認められた職名や位をもらうことは、何かがあったときにとても有利になります。それに、それぞれの役職に応じて減税(げんぜい=税金を安くしてくれる制度)がありました。
※ですから、領主の多くは「どの土地を荘園にして」「どの土地を国衙領」にすれば自分たちが有利になるかを悩んだわけです。それで多くの豪族が一部は荘園に、一部を国衙領にしていたのです。
鎌倉時代になると
頼朝が武士の政権を作ってから様子は少し変わりました。
1.これからは、将軍が土地を守ってくれる。
将軍の家来になった人のことを「御家人」(ごけにん)といいます。御家人と将軍は「ご恩と奉公」(ごおんとほうこう)の深い関係で結びついています。御家人達は将軍のために命をなげうって戦に加わる。平和なときには役人として働く。そのかわり将軍は御家人の領地を認めて何かがあったら守ってあげる。よい働きをしたときには新しい領地を与えました。また「問注所」(もんちゅうじょ)という裁判所をつくり、土地争いなどもここで公平に裁判されました。これは御家人(武士)にとってはとても大切で「安心」してくらせる大切なことでした。
2.国ごとに守護を起きました。
守護ははじめ「義経をつかまえる」ことや「警察の仕事」をする役を持っていましたが、後にその国に住む御家人のまとめ役となって大きな力を持つようになりました。
3.荘園や国衙領に「地頭」(じとう)がおかれました。
関東地方で「地頭」といえば、昔からそこに住む有力な豪族です。一方、近畿地方やそれより西では、別の領主が支配していた荘園や国衙領にはけんされた御家人達です。地頭の主な役目は「領内の警察の仕事」と「領地から年貢を集める」「その年貢を領主に渡す」で、地頭はそのうち5%は自分の取り分となりました。
ですが東国の地頭はもともと自分の土地でしたから、5%以上の大きな収入があったのですよ・・
4.そこで、西国にはけんされた地頭は自分の力で土地を少しずつうばっていきました・・中には農民をおどかして、ひどいことをする地頭もあらわれました。
5.鎌倉時代の中ごろになると、各地の武士の力が強まり、それをとりまとめる守護の力も増していき、武士の治める地域では守護が国司のようになっていきました。
さやかさんの質問にようやく答えることができます。
このように鎌倉時代にも国司が国ごとにいました。ですが、だんだんと守護の力が強くなっていったと言うことなのです。鎌倉時代といえばすべて武士が日本を支配していたように思われがちですが、東北・関東・中部は武士の支配力が強かったとしても、西国では少しずつ武士の支配力が強まっていったものの朝廷の力もしっかり残っていて、完全に武士が支配することはできませんでした。
やがて室町時代になると西国でも国司の力は弱まり、守護は力を増して「守護大名」となりました。さらに進んで「戦国時代」になると国司や郡司といった朝廷の役職は完全になくなり、名目だけになってしまいました。
江戸時代の武士が「吉良上野介」(きらこうずけのすけ)とか「大岡越前の守」(おおおかえぜんのかみ)などというのはそのよい例ですね・・・
いつの時代もそうですが「急に全てがかわる」ということはありません。きっかけはありますが、少しずつ変わっていったのです。
ゲンボー先生 2005.6.23
いまは、法律とかあるけど鎌倉時代は、法律とかあったんですか?教えて下さい。萩組 隆太郎 2005.6.21源氏の将軍が三代で滅ぶと、北条氏が政治の実権をにぎっていました。そして三代目の執権である北条泰時は1232年に御成敗式目という法律を定ました。それは守護や地頭のつとめや、御家人の領地についてのきまりなど、武家社会のしきたりなどをまとめたものでした。もっとくわしい法律の内容を知っている人は教えてください!さやか 2005.6.21
「鎌倉時代の勉強をしよう」のページに、全文の現代語訳がありましたよね。読みましたか。 渡瀬先生 2005.6.22
武士の食事の中で「ひしお」というのは何ですか。教えてください? 藤組 ゆな 2005.6.20今でいう塩、醤油、酢などのことです。芙蓉組 みほ 2005.6.20
当時はお酢もありましたし、味噌もありました。「ひしお」は漢字で書くと「醤」です・・どこかで見たことがあるでしょ?そう、「お醤油」の醤ですね。
現在のお醤油は大豆に塩と「麹」(こうじ)という発酵する菌を加えて作ります。発酵は二ヶ月くらいで終わりますが、その後一年間くらい寝かしてうまみを育てます。それを袋に入れてしぼったものが君たちが口にするお醤油です。この作り方は江戸時代に考え出されました。
君たちが勉強している鎌倉時代の「醤=ひしお」はお味噌のうわずみ液です。つまり「たまり」・・むずかしいかな?君たちの家にお味噌があるでしょ、あれをそのままにしておくと上に茶色の液体がにじみでてきます。それを集めたものが「醤」なのです。これは結構おいしいものです。
皆さんのなかで作ってみたいという人は赤味噌でやってみてください。(八丁味噌のようなかたいものは向きません、柔らかめの赤味噌がいいのですよ・・)昔の人の気分が味わえます・・・(笑)ゲンボー先生 2005.6.21
武士は基本的にどんな事を勉強していたのでしょうか?どんな学問が発達しているのでしょうか?欅組 潤 2005.6.20君はどんな勉強をしていたと思いますか?この時代に学校はあったと思いますか?ゲンボー先生2005.6.21
流鏑馬は的を弓で射る事ですよね。じゃあ、『かさがけ』、『犬追物』、『巻狩』はどんな訓練だったのですか?教えて下さい。藤組 れいか 2005.6.20弓の練習●笠懸(かさがけ) 笹を的に討つ練習
●流鏑馬(やぶさめ)馬で走りながら的を打つ練習
●犬追物(いぬおうもの 犬を放して馬に乗って追いかけて矢を討つ練習 (先のとがってない矢を討ったので、犬は死なない)
という訓練でした。芙蓉組 ありす 2005.6.20
武士の館について調べているんですけど付属家屋とは、なんですか?みさき 2005.6.20それは「隠居屋」(いんきょや=家や仕事を息子に譲った人、いまでいうと定年した人)と言われています。隠居といっても家族の中では地位もある人ですからちゃんとした家に住んでいました。実際にそういう家もあったのです。ところでゲンボー先生は実際にこの絵の元になった遺跡に行ってみましたが。柱の間隔や並び方などから多分「お堂」ではないかと思いました。ゲンボー先生 2005.6.20
昔は、政治はいくつあったのですか。藤組 康介 2005.6.18日本の国は天皇を中心とした朝廷が政治を行っていました。鎌倉時代はそれにプラスして「鎌倉幕府」が作られたのです。つまり朝廷も幕府もあったということです・・・・不思議でしょ?・・・これが分かれば、君たちが勉強していることがかなり「分かる」ことになります。だれか、意見を書いてください。ゲンボー先生 2005.6.18
鎌倉武士は、質素だったと言われていますが、基本的にどのような生活をしていたのですか。萩組 魁土 2005.6.174:00〜5:00に、起床して、5:00〜16:00まで 行水や、座禅、笠懸(かさがけ)、流鏑馬(やぶさめ)、犬追物(いぬおうもの)、相撲などをして、修行などの武芸や農業に励み、17:00から自由に過ごす時間そして、20:00には、就寝する。という生活でした。この1日の間で2回の食事です。私は、この生活をみて少し、ハードな気もしました。芙蓉組 ありす 2005.6.17
武士の生活は、質素で武芸が重視され幼いときから弓を射ること馬に乗ることを教えられていたそうです。藤組 みく 2005.6.20
鎌倉時代の武士はどのような武芸にはげんで、どのような訓練をしていたんですか?教えてください。藤組 まい 2005.6.20
たとえば、流鏑馬(やぶさめ)笠懸(かさがけ)犬追物(いぬおうもの)巻狩(まきがり)などを訓練していたそうです。藤組 けいこ 2005.6.20
化粧坂などの切り通しの地形はもとからガタガタだったんですか?藤組 まこ 2005.6.20人が歩くと道は凸凹になります。鎌倉に続く鎌倉街道などはそのために度々平らにする工事が行われていました。化粧坂も多分凸凹だったり、なおしたりだったと思います。ゲンボー先生 2005.6.20
元寇で、元軍が使ってきたてつはうの大きさは、どのくらいですか?萩組 慧 2005.6.20中国の本に「震天雷」(しんてんらい)と書いてある火薬弾が日本では「てっはう=鉄砲」よ呼ばれました。 震天雷には様々な大きさがありますが、日本で発見されているものは15センチ前後です。「てっはう」の飛ばしかたにはいくつかの方法があります。「投石機」(とうせきき)という石を遠くに投げる機械や、弓矢の先につけて飛ばすもの。それに手で投げるものです。
日本にきた元軍は主に手で投げていたようです。昔の記録を見ると「椀を合わせたるが如く、頂に一孔あり、僅かに指を容る」(おわんを合わせたような形で、指が入る程度の穴があいている」と書いてあります。つまり「丸い鉄の玉に火薬を入れて、そこに導火線を入れて火をつけて投げつけた」わけですね・・
この火薬弾(てっはう)には鉄製と陶器製の2種類がありました。1993年に鷹島で発見された火薬弾は陶器でできていて中には2〜3センチの四角や三角の鉄の破片がつまっていました。これまで「てっはう」は大きな音と光りで相手を驚かす武器だと書かれていましたが、この発見であきらかに人を傷つける用途にも使われていたことが分かりました。おそらく目的によって作り方が違っていたのだと思います。ゲンボー先生 2005.6.20
武士はどのような家に住んでいたのですか?よくわからないので教えてください。 藤組 れいか2005.6.19昔の農民(武士)が住んでいた家は「堀建て小屋」という家に住んでいました。武士の館は邸宅(普通の家)で、館はうしろに山をひかえ、まえに耕地のある小高いところに作られている館が多かったそうです。館のまわりは水堀・空堀・築地塀・垣根などで囲われていました。こんなんでいいですか? 藤組 みく2005.6.19
先生のホームページに出ているから見てください。イメージがつかめると思います。http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/
「鎌倉時代の勉強をしよう」→「武士の館と生活」です。 ゲンボー先生 2005.6.20
昔は、政治はいくつあったのですか。 藤組 康介 2005.6.18日本の国は天皇を中心とした朝廷が政治を行っていました。鎌倉時代はそれにプラスして「鎌倉幕府」が作られたのです。つまり朝廷も幕府もあったということです・・・・不思議でしょ?・・・これが分かれば、君たちが勉強していることがかなり「分かる」ことになります。
だれか、意見を書いてください。 ゲンボー先生 2005.6.20
化粧坂などの切り通しの出入り口付近にはたくさんの店が栄えていたそうです。どのような店が栄えていたんですか. さやか 2005.6.18鎌倉の町にはいるのも、外に出るのも、必ず切り通しを通らなければなりません。つまり、人が一番集まるところです・・・さて、皆さんはどんなお店(商売)があったと思いますか?これはみんなで考えてみてください。ゲンボー先生 2005.6.20
刀などの農具や武器を売っていたのだとおもいます。芙蓉組 ありす 2005.6.20
米などの食料品や衣類などの日用品を売っていたのだと思います。みんなはどう思いますか?さやか 2005.6.20
食料品や武具や衣服などですね・・・もっと他に考えられるものはないかなあ?ゲンボー先生 2005.6.21
しらべていたら、「鎌倉の地名も、鉄に関係がある」と書いてあったのですが、どういう関係があるのですか?藤組 有紗 2005.6.16天野さんの質問の事を渡瀬先生に教わったんですが鎌倉の鎌という字が関係するそうです。そこでこの鎌の他にも何か関係している物があるのでしょうか。知っている人教えてください 優香 2005.6.16
色々説があるみたいですがその中の一つに次の事が書かれています。鎌はもともとは「かまど」のことで、倉は「谷」のことだといわれています。鎌倉の地形は、東・西・北の三方が山で、南が海になっています。形は「かまど」のようで、「倉」のように一方が開いているので、「鎌倉」となったといわれています。ゆい 2005.6.16
もう一つの説です。昔藤原鎌足がこの地を訪れたとき大切にしていた「鎌槍」をこの地に埋めたとも言われています・・(これは伝承ですから本当かどうか分かりません)その場所が現在の浄妙寺の裏にある「鎌足稲荷」と言われています。ゲンボー先生 2005.6.18
武士の武芸で、「相撲」と出てきたんですけど、相撲は、何のために使うんですか?教えてください。藤組 みさき2005.6.16当時は剣道などがなかったので、戦に馬に乗りながら斬ったり、くみふせたりしたので、相撲が必要だったらしいですよ。芙蓉組 みほ 2005.6.16
ほかにも、相手と取っ組み合いになった場合,弱かったら死んでしまうのでもしもにそなえて相撲をしたそうですよ。藤組 みり2005.6.16
そのとおりです、当時の武士で一番大切にしていた訓練は「馬に上手に乗ること」「正確に矢を射ること」でした。ですから賢い馬が必要でしたし、いざというときにちゃんと言うことを聞く馬でなければならかった・・・だって、敵と戦っているときに急に後ろを向いちゃったり、遅かったらやられちゃうからね・・・それにやはり「飛び道具」です・・近くで戦う前に相手にダメージを与えるのは大切なことでした。ですから鎌倉時代の武士はこれらを「弓馬の道」とよんで大切にしていたのです。
馬に乗りながら戦うときは片手で刀を持ち、片手で手綱を持って戦います。お互いに鎧(よろい)を着ているので、ねらうのは首とか顔、それに脇腹です。これで決着がつかなかったら相手を馬から落として組み伏せて「鎧通し」(よろいどおし)という短刀で相手の頸動脈(けいどうみゃく)を切ったり、鎧の隙間から心臓を刺したりするのです。当時の鎧を見るとちょうど右の脇腹のあたりに板のようなモノがありますが、あれは「鳩尾の板」(きゅうびのいた)といい、弓を引くときに脇腹が空いてしまわないように覆う(おおう)ものでした。また、左の脇腹には形が違うけど同じように脇腹を守る 「栴壇の板」(せんだんのいた)があり、こちらは弓の弦(つる)がひっかかったときにはずれやすい形になっています。どちらも弓を打つときに無防備になる脇腹を守るためのもので、組み討ちになったときにもそれなりに役立つものでした。(ファイルに写真を入れておきました)ところで、君たちがこの時代の武士だったらどうですか?戦では一騎打ちですが戦えそうですか?・・・・(笑)ゲンボー先生 2005.6.18
平家との戦いに島おくりになったとき伊豆のどこにいたんですか?欅組 暁広2005.6.16韮山といい、現在の三島の近くです。今でも韮山には頼朝がいたという館の跡が残っています。先生のページ http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/start/yamaki.htmlを見てください。地図のなかをクリックするとその場所が出てきます。ゲンボー先生 2005.6.18
ゲンボー先生、こんにちは。6年ふじ組の完太です。僕は社会科のレポートで武士の生活について調べています。ご恩と奉公についてお聞きしたいのですが、ご恩には二種類有るそうですがいまいちよくわかりません。教えてください。完太2005.6.17ご恩と奉公は鎌倉幕府を支えるもっとも大切な、将軍と御家人の間の関係です。この時代はというより江戸時代まで武士の社会では、今のように会社みたいな組織に入っていると言うより、何々家の家来という形で上下関係が決まっていました。その武士の関係のおおもとが鎌倉時代に生まれた「ご恩と奉公」なのです。
奉公とは
1.将軍のために命をささげて戦う。
2.幕府の役人として働く。 ことが基本
ご恩とは
1.本領安堵(ほんりょうあんど)もともと支配していた領地を認めて保障すること。
2.新恩給与(しんおんきゅうよ)主に、戦いでよい働きをしたものに新しい領地を与えること。 でした。
武士は領地を支配し、そこから収穫された農産物や特産品などを売ってお金を得ていました。一族が栄えるのも貧しくなるのもすべてこの領地にかかっているわけです。ですから自分の土地が保障される、新たな土地が貰えると言うことはとても大切なことでした。 ゲンボー先生2005.6.17
鎌倉時代の人々は、何を食べていたのか教えてください!!萩組 友理 2005.6.17鎌倉武士は、質素だったと言われていますが、基本的にどのような生活をしていたのですか。
このあたりの質問については、今までの6年生がやりとりをしたページ、「鎌倉時代の勉強をしよう」のページをよく読んでみてください。ヒントがみつかると思います。また、そのあたりをすでに調べた人は、返信して教えてあげてください。渡瀬先生 2005.6.17
農民の食事です。
アワ・ヒエ・キビ・うるち米・もち米・そば・小麦・大豆・えごま・緑豆 大根・ごぼう・ねぎ・小松菜・アブラナ・緑豆(葉)・えごま(葉)・サトイモ・えびいも・ながいも・ウリ・ごま・にんにく・みょうが・しょうが・みずな・うど・たら・ふき ・くり・かき・ぶどう・いちご・あけび・さるなし・またたび・なし・みかん
たい・ひらめ・あなご・めばる・まぐろ・かつお・いしもち・ふぐ・さば・いわし・あじ・さわら・いか・たこ・海老・かに・はまぐり・あさり・かき・赤貝・まてがい・みる貝・鯉・ふな・うなぎ・あゆ・ごり・やつめうなぎ・はや・かわえび・かわがに・うぐい・ぼら・さけ・ます・やまめ・いわな等々
いのしし・鹿・たぬき・熊・きじ・鴨・うずら・ニワトリ・鶏卵・すずめ・つぐみ・鶴・鷺(さぎ)
「調味料・他」 醤(ひしお)・味噌・塩・砂糖(これは少ない)・甘草(かんぞう)・梅干・酢・魚醤(ぎょしょう)・酒・山椒・わさび うどん・そーめん・きしめん・まんじゅう・そばなどの記録もありますから,穀類の加工もしていました.
◎私の考え
このことから、私は今と大体同じだと考えました。食物はこのころになると発達していたんだと考えられます。みなさんはこの農民の食事を見てどうおもいますか? 芙蓉組 ありす 2005.6.17
アリスさんの調べた食材は農民と言うよりもこの時代にあったものと言うことですね・・・みんながこんなものばかり食べていたわけではありません.貧富の差もありましたから食べられる人,食べられない人もいたわけです.
野菜やお魚は今と変わりありません.しかし,料理の仕方は少し違っていました.冷蔵や冷凍技術のなかった時代の保存方法は「干物」「塩蔵」「薫製」です.このうち日本で最も発達したのが干物です.海から遠く離れたところや食べ物が少なくなる冬をこすために魚や貝,動物の肉や野菜や山菜も乾燥させました.次が塩に漬け込む塩蔵ですね,漬け物もこの中に入るでしょう.海から離れた京都では日本海側から「塩さば」を運んでいます.
味付けは「味噌」「醤」(ひしお=味噌からしみ出てくる”たまり”のこと)「塩」などですが,塩蔵した魚からでる「魚醤」(ぎょしょう)もあっただろうと言われています.もっともこうした調味料を多くつかえるのは豊かな人,位の高い人たちだったでしょうね・・・・うどん・きしめん・まんじゅうなどの食べ物の多くは中国にいったお坊さんが持ち帰ったもので,はじめの頃はお寺の中で食べられていました.後にそれが貴族や武士に伝わりやがて庶民にも広まったものです.ゲンボー先生
北条 政子はなんであんな堂々としたいさぎのよい(?)態度なんですか??頼朝の妻だからですか?それとも教育ですか??そういう時代だったからですか?教えて下さい!!!欅組 つかさ 2005.6.15政子の生まれた時代は平安時代の終わり頃で、武士と呼ばれた豪族たちは自分の領地を守るために武装したり、京都の有力者のもとにかよって仕事をしたりと大変な時代でした。
政子はそうした武士の家に生まれた娘です。この当時は、親が死んだあとの遺産相続などを見ると男と女の権利は同等で、女性の中にもヨロイかぶとを着て戦に出る人もいました(すくないけどね)。
鎌倉時代の有名な法律に「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)がありますが、この中でも男女が同じ権利を持っていることが書かれています。(女性の地頭も認められていました。)日本の歴史の中で、女の人が低い地位にされたのは江戸時代だけなんですよ・・・その影響は明治・大正・昭和と続きましたが・・・とまあ、時代的にはそういう時代でした。また、平安時代の終わり頃から現在のような「嫁入り婚」になり、一家のきりもりを嫁いだ女性が行うようになりました。それまでは婿入り婚とよび、男性が女性の家で養ってもらっていました。「この世は俺のモンだ」とうたった、有名な藤原道長も、実は嫁さんの家で養ってもらっていた・・笑
というわけで、政子さんは頼朝のところに嫁いでいますから完全に嫁入り婚です。嫁にきたと言っても江戸時代や今も少し残っている、控えめで我慢強い嫁さんのイメージではありません。「私がいなければこの家はなりたたない」と責任をもって入ってきた人です。政子の場合は性格もありますが、それが大変に強かった。だから「私がいなければ頼朝さんはだめなのよ」・・頼朝の死後は「私が幕府をまもる」という気持ちが強かったのです。政子の性格・生い立ち・社会の変化・・などなどがからみあって、あの性格が出来たのですね・・君も鎌倉時代に生まれていたらそうなっていたかもしれない・・
政子と弟の北条義時・・この二人がいなければ頼朝以後の執権政治・・150年間続いた幕府はもっと形の違ったものになっていたと思います。
(北条義時は政子以上に政治的な才能があったと言われている人です、姉の政子と連係プレーで幕府を支えました)
ゲンボー先生2005.6.19
鎌倉幕府内には約何人、人がいたんですか 拓実 2005.6.15幕府というのは頼朝の住んでいた屋敷のことで、僕たちが「幕府」と思っている役所は「政所」「侍所」「問注所」の3つの役所ということになります。それぞれの働きは調べてみてください。
さて、その人数ですが、くわしい記録が残っていないので正確な人数は分かりません。先生も調べてみますが君たちも調べてください。 時期とか、状況で変わって来ると思います。
いっぱんには役人といわれる人は御家人のことで、それぞれの領地を持つ立派な武士です。彼らに給料はありません。御家人は仕事のあるときは鎌倉に行って長期の滞在をします。ですから鎌倉には御家人の家がたくさんありました。しかし、自分の領地に帰ることもあって、そこにも本来の館があります。
下級の役人はそれら御家人の家来がなっており、彼らは主人の仕事を助ける役を持っています。この人達の大部分はお金で給料をもらっています。その多くは領地から連れてこられた人々ですが、なかには鎌倉の現地採用組もいて、一言で「こうだった」とは、なかなか言ないのです。ゲンボー先生 2005.6.15
なぜ、頼朝の墓に、島津家の家紋があるんですか?yui 2005.6.15鎌倉時代に、島津という人が、墓を作り直したからです。墓を作ったというのを残すために家紋をつけたんだったとおもいます。
(おもいますですみません。)芙蓉 ありす 2005.6.15
鎌倉の町は3方向が山1方向が海に囲まれていて敵がせめにくいと習ったけど1回も敵にせめられなかったんですか?拓実 2005.6.10これに答えられる人がいるんじゃないかなあ。「幕府が滅んだ理由」を調べている人、どうでしょうか。その前にも攻められたことはなかったかな。(渡瀬先生)2005.6.10
僕が答えます。僕は武士の生活についてやっていますが、吾妻鏡などに詳しく載っていると思います。鎌倉滅亡のときに、新田義貞が化粧坂から攻め入りましたが、幕府の必死の応戦で防ぎました。そこで新田義貞は稲村ケ崎から攻め入りました。そうして幕府は滅んだのです。僕はあまり詳しくないので幕府の滅亡について調べている人やゲンボー先生に聞いてみたらよいと思います。藤組 完太 2005.6.15
返事が遅くなってごめんね・・・渡瀬君が書いているように1333年に鎌倉が新田義貞の軍勢に攻められたときには化粧坂、極楽寺坂、名越切り通しなど数カ所が同時に攻撃されています。しかし、どの切り通しも新田義貞の軍勢が稲村ヶ崎を越えて鎌倉市内にはいるまではもちこたえていたのです。それほど切り通しの守りは固く、鎌倉を取り巻く山は険しかったのですね・・・ゲンボー先生 2005.6.20
「一所懸命」「いざ鎌倉」の、由来御家人は将軍から与えられた領地を命懸けで、守りました。これを「一所懸命」といいます。そして、幕府が非常事態の時には、いつでもどこにいようとも真っ先にかけつけて戦うことを誓いました。これを「いざ鎌倉」といいます。どちらもこのころの御家人の心構えを、表現した言葉です。芙蓉組 香穂 2005.6.14
そうですね。この言葉がもとになって、今は一生懸命という言葉が使われています。もともとは、認められた領地、与えられた領地を命がけで守ったことを言ったので、一所懸命でした。渡瀬先生 2005.6.14
一所懸命の事について、もっと詳しい事を知っている人教えてください。藤組 みさき 2005.6.19
武士達は、もともとは自分の領地を守るために武装をはじめ、さらに貴族や寺社に土地を寄進して捕獲を求めた。それでも、領地の境界や用水」をめぐる争いはたえず、なみたいていの努力では自分の領地を守ることは出来なかった。そのような武士たちの厳しい生活の中から、「一所懸命」=「一つの所を命をかけて守る」という言葉が生まれました。それがのちに「いっしょうけんめい」と発音されるようになり、さらに「一生懸命」という字があてられるようになった。現在では、両方の言い方が使われているが、国語の問題などで「いっしょうけんめい」を漢字で書く場合は「」一生懸命」と書く方が良い。まいこ 2005.6.19
武士にも貴族のように、上級貴族、下級貴族みたいに、武士も上級武士、下級武士なんかあったんですか?欅組 潤 2005.6.11ありましたよ!武士は農業と一緒に生活してました。そして頼朝は武士の中でも偉いほうでは?御家人の人よりは下の農民(武士)は下っ端で下級武士で頼朝や御家人は上級武士でした!と言うより授業で話されませんでしたか?芙蓉組 yuki 2005.6.11
そうそう、今日の芙蓉組の授業で話題になったんだけど、鎌倉時代の武士は農民でもあった、だから砂鉄で武器や農具を作っていたという意見が出てね、その時に、じゃあ頼朝も普段は畑仕事をしていたのかなあという話になりました。そしてら、頼朝は偉いからそれはしなくて、その将軍の下にちょっと偉い武士がいて、その人たちも農作業はしていなくて、その下にいる武士が普段は農作業をしていたにちがいないという結論になりました。だから、鎌倉の武士には、将軍やその家族、親戚のレベル、それからその次のちょっと偉いレベル、そして下の普段は農業をしていたレベルがあったという話になりました。どう思いますか。渡瀬先生 2005.6.11
平安時代の後半に関東地方を開拓した豪族(広い土地を持っていた農民・大地主)は農民の先頭に立って、山や荒れ地を開拓し、川から水を引く用水路を作ったりしました。ところが、平安時代の終わりごろになるとそうした地主は田畑を耕したり、土木作業をするよりも「武装」して本格的な武士になっていったのです。これは「なぜ」でしょう・・・大切なところだと思います。ゲンボー先生 2005.6.13
なぜ、若宮大路(鶴ケ岡八幡宮に行く真ん中の道)は、入り口は広くて、出口はせまい造りになっているのは、どういう意味で造ったのですか?教えて下さい!欅組 Reana 2005.6.8入り口は広くて、出口はせまい造りになっているのは、道を長く見せるためです!! maiko 2005.6.9
では、どうして長く見せようとしたんだろう?みなさんで考えてみてください。ゲンボー先生 2005.6.10
鎌倉は山が迫っていて海からの距離が短かったため、道を長く見せることによって京都の朝廷と比べて見劣りしないように工夫したのだと思います。Sayaka 2005.6.10
それだけ鎌倉が狭いということですね。とてもよいところに目をつけていると思います。 渡瀬先生 2005.6.10
道が長く見えるように作ったのは、敵は馬で来たけれど若宮大路の途中からは、歩いてい行かなければいけなかっため、道を長く見せるように作ったのではないかと私は思います。欅組 Reana 2005.6.11
鎌倉の町は3方向が山1方向が海に囲まれていて敵がせめにくいと習ったけど1回も敵にせめられなかったんですか? 拓実 2005.6.10これに答えられる人がいるんじゃないかなあ。「幕府が滅んだ理由」を調べている人、どうでしょうか。その前にも攻められたことはなかったかな。渡瀬先生2005.6.10
質問 なめり川は、何故くねくねなのですか?欅組 Fumiko 2005.6.2滑川(なめりかわ)ですね・・・もともと川は自然の地形にそって流れますからくねくねしているものなんです。しかし、台風や大雨のために川の両側をコンクリートでかためて真っ直ぐにする工事が日本中で行われました。
滑川は鎌倉の町の中を流れているため、家がたくさん建ってしまっている今、真っ直ぐにすることができなかったのです。おかげさまで滑川は自然の流れになっていますが、それでも両岸はコンクリートになっています。ゲンボー先生 2005.6.2
動画資料 (見学当日に見た携帯電話の画像に説明をつけました) 段葛のなぞ 五輪塔と宝篋印塔 建長寺の柱 鶴岡八幡宮は町造りの中心 新田義貞の鎌倉ぜめ 稲村ヶ崎の黒い砂 化粧坂の切り通し 釈迦堂の切り通し 天園コース展望台からのながめ 政所(まんどころ)のあと 滑川 大江広元の墓 頼朝の墓 大御堂
「鎌倉時代の勉強をしよう」はこちら.(いろんなことが分かるよ・・・)