館蔵資料の紹介 2000年
玉川大学教育博物館 > 館蔵資料の紹介 > 2000年 > 懐徳堂と中井竹山
中井藍江筆 中井竹山賛
軸装
紙本墨画
129.5×49.2cm
懐徳堂は享保9(1724)年大坂尼崎町一丁目(現中央区今橋三丁目)につくられた学校である。江戸には昌平坂学問所、また各地に藩校ができはじめていたが、大坂には藩制がなかったため、町人の中村良斎、富永芳春、長崎古之、古田可久、山中宗古の5人が儒者中井甃庵とはかり、甃庵の師であった三宅石庵を学主として設立した。享保11(1726)年には幕府官許の学問所となっている。学主は石庵、中井甃庵、三宅春楼、中井竹山、中井履軒、中井碩果、並河寒泉と続き、明治2(1869)年までの146年間存続した。
懐徳堂では程朱(朱子学)の学を基本にして自由な学風をもった教育がなされ、町人だけでなく各藩の武士たちも多く学んだ。はじめの頃は道話を主にした教育であったが、しだいに学問課程も向上し、第4代学主中井竹山の頃には昌平坂学問所を凌ぐほどの教育が行われたという。此処に掲示した中井竹山翁の肖像画は、寛政10(1798)年正月、懐徳堂内で書画の競作が催され、その席で中井藍江(らんこう)が竹山の講義姿を描いたもの。竹山69歳の晩年の姿である。
竹山は偉丈夫で経世的識見に富み、老中松平定信が京坂に巡視したとき、その質問に応えて提出した竹山の『草茅危言(そうぼうきげん)』(当館所蔵)は、後の寛政改革に大きな役割を果たしたとされている。彼の門下には、佐藤一斎、山片蟠桃、脇愚山などがいる。