館蔵資料の紹介 1998年
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(左)泥めんこ (中)鉛めんこ (右)紙めんこ
面子(めんこ)と書くように人間の顔をかたどったもので「面模(めんがた)」「面形」「面打ち」ともばれる。
めんこの歴史は1830年(文政13年)の「嬉遊笑覧(きゆうしょうらん)」に記述があり、江戸時代からあったものと思われる。(平凡社『世界大百科事典』より)
呼び方や遊び方は地方によって異なり、素材も江戸時代は泥や粘土で作られた「泥めんこ」、明治に入ると鉛製の「鉛めんこ」、木製を経て紙製の「紙めんこ」となる。しかし素材は変わっても、今も昔も男児の遊び道具であることに変わりなく、めんこ遊びに夢中になった人は多いことと思う。
泥めんこ
泥めんこは「土めんこ」とも呼ばれ、大きさは直径2-5cm、厚みは平均5mm程度である。ルーツは平安時代の貴族階級の間で流行した大人が銭を投げて遊んだ「穴一(あないち)」と考えられる。
江戸時代になると穴一遊びは子供の間にも広まり、賭博色が強く幕府より禁止令が出されることとなる。これをきっかけに銭の代用品として、ひょっとこやおかめなどの型に土を入れ、抜いて乾かし、焼いて作られた泥めんこが明治初期まで子供の遊び道具として使用された。
遊び方には諸説あるが、泥めんこは投げて遊ぶ銭の代用品であるから、玉として打ちつけて遊ぶので面打ちとも呼ばれ、現在の紙めんこ遊びよりビー玉遊びに近いものであった。
鉛めんこ
鉛めんこは明治の初期さかんに作られ、大きさは直径2-5cm、厚みは1mm程度と薄く、形はいびつになった円形が多い。
作り方は鉄製の彫塑の上に鉛をのせ、金鎚で打ち出して作られた。鉛は加工が容易であるところから、泥めんこでは見受けることのない鎧に兜をまとった将軍の図柄が多い。
遊び方は泥めんことは異なり、地面に鉛めんこを置き、自分のめんこを地面に打ちつけて裏返す遊びが一般的であった。新しい素材は新しい遊び方を生み出し、紙めんこの遊び方の基礎となった。しかし鉛毒事件がきっかけで遊び道具としては長く続かなかった。
紙めんこ
紙めんこは、明治の中ごろダンボール紙の出現によって作られるようになった。形は円形のものが多く大きさは大小さまざまあり、現在でも駄菓子屋や玩具店に行くと、相撲や野球の選手、あるいは怪獣など人気キャラクターの図柄のめんこを見ることができる。
紙めんこの遊び方も、地方によって異なるが、基本的なルールは鉛めんことほぼ同じで単純な遊びではあるが、勝つためにめんこの裏へ蝋を塗ったり、油をしみ込ませるなど工夫したものである。