館蔵資料の紹介 1996年
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『朱舜水計画孔子廟指図』
紙本墨書
巻子装
江戸時代
27.8×918.8cm
江戸時代、各藩は藩士やその子弟のための教育の場として藩校と呼ばれる学校を設立した。儒学を中心とした教育であったため、そうした学校のうちすべてではないが、孔子を祀る建物としての孔子廟(聖堂)が大事な施設として設けられた。たとえば幕府の学問所であった江戸湯島聖堂、藩校、郷校では尾張藩名古屋明倫堂、会津若松藩日新館、岡山藩学校、岡山藩閑谷(しずたに)学校、佐賀藩多久(たく)学校、萩藩明倫館、水戸藩弘道館など数十校で孔子廟建築の出現をみたのであった。
もともと中国の孔子廟では釈奠(せきてん)という儀式が行なわれ、その建物の構造や配置には定められた様式がある。日本の場合は『朱子家礼(しゅしかれい)』『儀礼傍通図(ぎれいぼうつうず)』『礼書(れいしょ)』『三才図会(さんさいずえ)』などの文献などを参照してつくったものが多いため、純粋に中国の孔子廟を踏襲したものではないと言ってよい。というのも参考になるものは前記の書物にある簡単な孔子廟の挿絵くらいしかなく、儒教様式の建築手法までは導入できなかったのである。
しかし日本の孔子廟建築において特筆すべきことは、中国明朝末期に日本へ亡命した朱舜水が計画した孔子廟である。彼は徳川光圀(みつくに)に賓客として水戸藩へ招聘され、その庇護のもとに、水戸学派の学者らと交流し、彼らに深い影響を与えた。その学問は「学問の道、貴きは実行にあり」と言っているように実学的古学とも称すべきもので、書斎の中の学問ではなく、経世済民の学を目指すものであった。当然殖産興業や生産技術にも知識があった。舜水は光圀の求めにより『学宮図草(がっきゅうずそう)』を書き、孔子廟の設計図と同時に孔子廟建物群の中で中心となる大成殿の模型を作っている。
写真の資料はその孔子廟の建築指図である。この図面では孔子廟の中心となる大成殿をはじめとする建物群のすべての指図とその配置図、そして巻末には釈奠の祭具が描かれている。これにより、彼の計画したものは明代孔子廟を基本とした本格的な儒教建築であったのがわかる。湯島の聖堂は数度の罹災にあい、そのたびに再建、修築がおこなわれているが、寛政期の再建ではこの模型を水戸からとりよせ、それを参考にして建てている。また会津藩日新館や萩藩明倫館も舜水の計画した孔子廟を参考にしているように、わが国の建築史上貴重な資料といえる。