玉川大学教育博物館 館蔵資料の紹介(デジタルアーカイブ)

教育博物館では、近世・近代の日本教育史関係資料を主体とし、広く芸術資料、民俗資料、考古資料、シュヴァイツァー関係資料、玉川学園史及び創立者小原國芳関係資料などを収蔵しております。3万点以上におよぶ資料の中から、月刊誌「全人」にてご紹介した記事を掲載しています。
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館蔵資料の紹介 1996年

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下野国足利学校絵図面(しもつけのくにあしかががっこうえずめん)

下野国足利学校絵図面(しもつけのくにあしかががっこうえずめん)

下野国足利学校絵図面
江戸中期
65.3×78.2cm

天文18(1549)年7月、日本にキリスト教を初めて伝えたフランシスコ・ザビエルは、10月、インドのゴアのイエズス会への通信の中で、「足利学校は坂東(関東)における大学・アカデミア」として伝えている。足利学校を大学(Universitas)と呼ばないで、プラトンの「Akademia」の理想を思い起こすような、そういう学園を考えていたということは、非常に意義深いものがある。またルイス・フロイスの『日本史』には「日本全国にたった一つの大学であり公開の学校がある。それは関東地方(下野国)の足利という所にある」と記されている。

こうして遠くヨーロッパにまで、その名を知られた足利学校は、武蔵国(神奈川県)の金沢文庫とともに中世における学問の一大中心地であった。

創建の時期については、諸説があって定まってはいないが、室町時代に関東管領の上杉憲実(のりざね)(1410-66)によって再興されたことは確かである。憲実は『尚書正義』をはじめ、多くの貴重書を学校に寄贈し、鎌倉の円覚寺から快元を初代庠主(校長)として招き、学校の振興を図っている。その後、学規、教則も制定され、宿寮も設けられたので次第に盛況を呈し、北は奥州から南は琉球に及ぶ、文字通り全国から学徒が集まり、「学徒三千人」と海外にも喧伝されることになった。この学校では、儒学を中心に易学、兵学、医学など実用的学問が講義されていたことが、当時の教科書や記録から判っている。現在、室町時代の遺構は不明であるが、江戸時代中期のものとされる、上掲のこの絵図には、中心部に学校の建物や庭園などがあり、その周囲に掘と土塁をめぐらし、南へ参道が延びて南と西に領地を配している。菜園などもあり、当時の学校生活の一面がよく描かれている。江戸時代末期には、古今東西オンリーワンの「坂東の大学」の役割は終了し、郷学へと移行し、明治5年をもって廃校になっている。その後、学校跡の建物の一部が小学校になったり、国の史蹟の指定を受け、昭和57年小学校を移転し、保存整備に着手、平成2年秋、方丈、庫裡、書院などの建物、庭園が宝暦年間、約230年前の姿に復原されたが、この復原、修理の根拠には、(1)絵図、(2)文献、(3)発掘調査、(4)現存する類似建物の検討を行った結果が生かされている。特に復原の場合、こうした建物の古絵図や図面が重要な手がかりを与えているといわれている。

「全人」1996年6月号(No.576)より

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