館蔵資料の紹介 1995年
玉川大学教育博物館 > 館蔵資料の紹介 > 1995年 >徳川光圀と『大日本史』
『大日本史』巻之一・本紀第一
源〔徳川〕光圀修
源綱條校
25.7×17.5cm
光圀の歌集『常山詠草』の中にこんな歌がある。「柵町(さくまち)の亭(ちん)は、そのかみ三木某が住みし所なりしが、我ゆゑありてここにて生まれ待りぬ。年へて後たまたまここに来れるに折りふし庭の梅さかりなるを、……
朽ち残る老木(おいき)の梅も此の宿の
春にふたたび逢ふぞ嬉しき」
この梅樹こそは、光圀が生まれる前、この屋敷に世話になっていた母が、庭にその種を播いた梅の木であって、「誕生梅」と呼ばれていたものである。光圀はいくどかこの三木邸を訪ね、幼時を思い母をしのんだ。
三木某というのは、父頼房の最古参の家臣三木仁兵衛之次(ゆきつぐ)夫妻のことで、光圀はゆえあって4歳までは三木家の屋敷で人知れず育てられた。母は久子といい、光圀の幼名は長丸(ちょうまる)、のちに千代松といった。その誕生は寛永5(1628)年6月10日、父頼房は26歳であった。光圀は、5歳になると公子として水戸城に入り、6歳のとき7歳年上の兄頼重をさしおいて世嗣(よつ)ぎに選ばれた。そしてまもなく、江戸へ上って小石川の水戸藩の上屋敷に移ることになる。今の東京ドームのある後楽園のところにあたる。光圀には、少年時代からたくさんのエピソードが残されているが、18歳以前の光圀は、当世流行の風潮に溺れて、自己のすき好むままにふるまい、他人の忠告をまったく聞きいれない放蕩無頼の行動が多かったのである。ところが、正保2(1645)年18歳を迎えた光圀に大きな転機が到来した。光圀はこの年、司馬遷の『史記』「伯夷伝」を読んで強く感銘をうけ、兄頼重に対し何としてもすまない気持をいだいた。せめて兄に対する申しわけとして、水戸家はやがて必ず兄の子に譲ろうと決心したと伝えられている。この初一念は、光圀63歳のとき太田村(常陸太田市)の西山荘に隠居したとき、兄の次子綱条(つなえだ)に家をゆずり、実に46年ぶりに果たしている。一方、光圀は日本でも『史記』のような立派な歴史書があれば、後世の人々を発奮させることができるにちがいないと考え、明暦 3(1657)年30歳のとき、歴史書編纂のための史局を江戸駒込の水戸藩中屋敷(今の東京大学農学部の構内)に設けている。やがてこれを小石川の上屋敷に移し、彰考館と名付けた。彰考館には、京都をはじめ全国各地から優秀な学者を多数招いて編集に当たらせた。この『大日本史』は、後小松天皇までの紀伝体の歴史書で、これが完成したのは何と明治 39(1906)年のことで、実に2世紀半にわたる歳月を要したことになる。当館には文化 7(1810)年-嘉永 4(1851)年に公刊された紀・伝243巻が収蔵されている。