館蔵資料の紹介 1990年
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『学問のすゝめ』
明治4年12月記 明治5(1872)年刊
福沢諭吉著
18.0×11.5cm
(左)表紙 (右)本文第一頁
写真は、福沢諭吉著『学問のすゝめ』初編の初版本です。この初版本について、端的に、要領よく解説した文が、福沢先生誕生125年記念として昭和35年に慶応義塾で出版した、初版本の複製本に添えられていますので、それを次に紹介します。
『……「学問のすゝめ」は毎編紙数およそ10枚ばかりの小冊子で、明治5年2月から同9年11月まで断続して17編まで刊行され、夥(おびただ)しい発行部数を算し、「毎編凡そ20万とするも17編合して340万冊は国中に流布したる筈なり」(福沢全集緒言)といはれてゐるやうに、明治初年の人心に非常な影響を与えたものであるが、著者が初めて筆を執つたときには、その巻末の端書にも記してあるように、学問の趣旨を記して郷里の旧友に示すつもりで書いたものを、人の勧めるに任せてこれを慶応義塾の活字版を以て印刷に附したに過ぎず、固(もと)よりかういう形のパンフレット叢刊を企ててゐたのではないことは、題箋に「学問のすゝめ 全」と記してあるのを見ても察せられる。出版してみたら意外に需要が多かったので、活版では間に合はないので整版で印刷し、その版木も幾度か摺り潰しては新たに彫り起し、遂に明治6年11月に2編を出版することになり、前に出したものをそのときになって「初編」と名づけ、以下続刊せられることになったのである。
従ってこの初編の初版本たる活字本は、印刷された部数が余り多くなかつたものと見えて、今日では非常な稀覯本となっており、いま所在の判明してゐる限りでは僅かに10指を屈するに足りないほどである。築地明石町聖路加病院傍にある慶応義塾発祥の地の記念碑に彫られた「天は人の上に人を造らず人の下に人を造らず」の文字は、この初版本の活字をそのまゝ拡大したものである。』
本書の著者名が福沢と小幡篤次郎との連名となっていることで、『学問のすゝめ』初編は福沢1人で書いたものではないと、早計に断定してはならない、という問題があります。
「福沢全集緒言」の末尾に、発表当時の様々な事情によって他人の名を用いることがあるが、全集に収めるに当って全部自分の名だけにしたと断っており、明治13年の合本の末尾には小幡の名が消されているなどを考えれば、小幡との連名は、当時、身分格式の気風の強かった郷党の間に新しい学問を普及させるため、同郷の格式ある家の出で人物識見共に優れた小幡の存在を配慮したものと察せられます。