高校生以上の方からの質問9

このページは中学生以上の方からの質問やお便りを掲示しています.

 

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大河ドラマ「清盛」についての質問がいくつかありましたので、この欄で扱います。

1.若い清盛が天皇に直接会ったり上皇に刀を突きつけているシーンがありましたが、そのようなことは実際にあったのでしょうか?

ゲンボー先生

NHKの大河ドラマは私も好きで必ず見ています。間違えていけないのはあの番組はあくまでも「ドラマ」なので、史実にかなり近いものから、今回のようにストーリー重視のものまで幅があるということです。今回について言えば「面白さ」を優先して「時代考証」は重視されていないと云う印象を受けます。上記の質問ですが絶対にあり得ないことです。身分の低い者は顔を見ることや直接声をかけることさえできません。ましてや刀を突きつけるなどとは・・・問題外のシーンです・・

2.清盛の服装や剣ですが、実際にあの様なものだったのでしょうか?

ゲンボー先生

今回のドラマでは服装はかなりデフォルメされています。貴族について言えばかなり忠実ですが上皇の服装は現代人の創作です。また、物議をかもした武士の服装ですが、ことさら薄汚く表現しているようです。ほとんど顔を洗ったことがないという顔の汚さや服装の汚れは下層民のもので、一般市民は質素であってもある程度は身ぎれいにしていたと考えるのが妥当です。ですので、いくら栄華を極める前の平家であってもあのような薄汚さであったとはとても考えられません。武士と云えば戦装束で烏帽子に巻く鉢巻きの縁がガーゼ風にほつれていましたが、ああしたこともありません。当時の鎧武者は服装にはことさら気を使い美しく着飾っていましたからね・・平治の乱で義朝の鉢巻きが薄汚れていたのは戦闘後ですから当然そうなったとしても、布が安っぽすぎますね(笑)おそらく脚本を書いている人の「武士とはこういうものだ」というイメージが形になっているのでしょう・・また、清盛が帯刀しているバイキング風の剣・・あれはどうみても古墳時代風の遺物ですね・・・ありえません(^^)

3.平治の乱で義朝と清盛が一騎打ちをするシーンがありましたが本当でしょうか?

ゲンボー先生

ドラマですから演出上どういうシーンを創っても良いわけですが、今回の大河はチト脱線気味です。1の質問と同じく史実に反していることです。平治の乱では名のある武士は数名しか死んでおらず、清盛の反撃で義朝軍は裏切り続出・・・ろくな戦闘もなく決着はつきました。もちろん、大将同士の一騎打ちもなかった・・日本の歴史の中で大将同士の一騎打ちは武田信玄と上杉謙信の川中島合戦だけですが、これとて作り話ではないかと云う説もあります。大将が死んだら軍の敗北と云うことですから、どんな時代にもどんな場面でも大将は守られていました・・先駆けや一騎打ちは恩賞を必要とする家来がするものというのが常識と思ってください。

おまけですが、落ちのびた義朝が長田忠致(ただむね)の屋敷の庭で家来の鎌田正清と刺し違えて死ぬシーン・・あれも「武士らしくかっこよく死ぬ」という印象を形にしたご愛嬌です・・義朝は入浴中に殺されたと平治物語にちゃんと書いてあります。

おまけのおまけですが、吾妻鏡には治承4年(1180年)10月14日に「遠茂暫時防禦の構えを廻らすと雖も、遂に長田入道・子息二 人を梟首し〜」とあります。これが長田親子であることはほぼ間違いないと思われ、長田逮捕は頼朝旗揚げ当初よりの目的の一つになっていたことが伺われます。この時の長田親子の心の内や、頼朝の思いはどうであったでしょうか・・・思いは色々と巡ります。史実の方がドラマよりず〜っと面白いですね・・(^^)

ゲンボー先生

※大河ドラマはドラマと書きましたが、多くの視聴者は「ほぼ史実」として受け止めているところに問題があります。以前の作品「時宗」では天皇の前で自害した貴族のシーン。「義経」では義仲の軍勢が京都の市場で狼藉を働くシーンに「唐辛子」が出てきたり、金売りの吉次の屋敷に有田焼の大壷があったりとハチャメチャでした。(貴族が天皇の前で自害するなどあり得ません)(唐辛子は南蛮貿易で日本にもたらされたものです)(有田焼においては言うまでもありません)

TBSで大ヒットした「仁」のように、フィクションだが「真実味」もあるところが人々の心をとらえたように、はっきりと「ドラマですからね・・」と前面に出した方がよいと思うのですが・・このままでは清盛さんも頼朝さんも浮かばれない・・「オレって中途半端に描かれているなあ」・・と・・もしくは時代考証をもっとしっかりやるとか・・

NHKにはタイムスクープハンターと云う地味ですが「仁」に負けずとも劣らないドキュメンタリー風の優れたドラマがあって、そこから学ぶことは多いと思うのですが・・(但し第1部に関しては・・の話です)


大竹と申します。鎌倉時代、佐渡へ探されることは死罪と同じと聞きましたが、どのような交通手段で佐渡までいったのでしょうか?

ゲンボー先生

流刑には「近流」「中流」「遠流」の三刑があります。近流は越前・安芸、中流は諏訪・伊予、遠流は伊豆・佐渡・隠岐・土佐というのが通例です。
平安時代には一時死刑が執行されずそれに変わり流刑が増えました。これは死んだ罪人の怨霊による「たたり」を恐れたからです。
というわけで流刑は死刑と同じと考えられています。が、後醍醐天皇のように戻ってくる人もいたり、日蓮上人のように赦免される場合もあるので死刑とイコールではありません。さて、罪人を運ぶ手段ですが天皇や皇族は「輿」(こし)に載せて運びました。武士の場合はその位によって「馬」「カゴ」がありました。郎従以下の罪人は「かご」あるいは「徒歩」でした。もちろん、手は縛ってありますよ・・・


ゲンボー先生。はじめまして、シンガポール大学日本研究学科のコニーです。鎌倉時代蒙古侵入のこと大変興味を持っていますので今回これを研究のテーマとして勉強しています。蒙古侵入とは2回があったと聞きました。その時期(2回とも)は北条政子は政権を握っていましたか?執権はそれぞれ誰でしたか?北条政子はどのぐらい影響力があるのでしたか?その九州の大名(蒙古兵隊と戦う責任者)はだれですか?その人はどんな人でしたか?

いっぱい質問をして申し訳ございません。

ゲンボー先生

コニーさん
あなたからのメールがジャンクメールに分類されてしまい、長い間気付かずにいました。本当にごめんなさい・・・勉強には間に合わなかったかもしれませんが質問にお答えします。

1.頼朝の妻「北条政子」は鎌倉時代のはじめの人で、1225年8月16日に亡くなっています。第1回目の元寇(文永の役)は1274年ですから、北条政子はその時にはいませんでした。北条政子は頼朝の死後に弟の義時とともに北条氏を支えました。幕府と朝廷との戦いであった「承久の乱」(じょうきゅうのらん)のときには、関東(東日本)の武士をまとめるという大きな役割を果たします。この時の幕府は三浦氏をはじめとする有力な御家人(将軍の家来となった武士)の合議(話し合い)で政治が行われていましたから、北条政子の命令は絶対ではありませんが、頼朝の妻だった人ですから発言力はありました。そのために「尼将軍」(あましょうぐん=尼とは仏門に入った女性のことです)とよばれていました。

2.元寇の時の執権は「北条時宗」(ほうじょうときむね)で、17歳で執権になりました。若い時宗を支えたのは北條政村や北条実時、安達泰盛、平頼綱それに宋(中国)からやってきた高僧「無学祖元」(むがくそげん)です。

3.蒙古(元)軍と戦った九州の司令官は。文永の役(1274年)では守護(しゅご=地方の責任者)少弐景資(しょうにかげすけ)。弘安の役(1281年)は兄の少弐経資(しょうにつねすけ)です。
少弐氏はもともと武藤(むとう)という関東の武士でしたが、太宰府(だざいふ=北九州博多にある外交を司る役所)役人なったために官職である「少弐」(2番目に偉い人)を氏の姓にしました。北九州一帯に大きな影響力を持つ武士団ですが、元寇の後に兄弟であらそい、弟 景資は兄に討たれます。その後もしばらくは力を持っていましたが、やがておとろえていきました・・・

コニーさん、これでよろしいですか?言葉が難しかったり、もっと知りたいことがあったらまたメールをください。今度はすぐに返事をします。
本当に申し訳ありませんでした。

ゲンボー先生

詳しいご回答、誠にありがとうございます。

申し訳ございませんが、また幾つかの質問があります:

1.少弐氏はもともと関東武士であれば、蒙古と戦うのは関東武士団だと認識してもよろしいでしょうか?文永の役、弘安の役は九州側(日本側)はどのぐらいの人数でしたか?第一回目は蒙古側の統領はだれでしたか?

2.「弘安の役」の前には蒙古はもうすでに宋と高麗を滅亡し、非常に軍力が優れているなのに、日本は蒙古からの使節を殺したのは、(その時の執権は)どういう心理でしたか?敵を勝つ自信はありますか?

3.当時九州の防御工事について教えていただけますでしょうか?

お返事お待ちしております。

コニー


1.小弐氏はもともと関東の御家人ですが、北九州に領地をもらってからは九州の御家人となりました。元寇の時に一番多く戦ったのが小弐氏を中心とした九州地方
の御家人たちで、ついで中国四国地方・近畿地方の御家人たちです。

さて、その日本の武士の数ですが・・・

文永の役では 1万人程度
弘安の役では 6万人程度 と言われています。

文永の役では都元帥(総司令官)が、忻都(きんと=蒙古の軍人)、副元帥は洪茶丘(こうちゃきゅう=高麗の軍人※どちらも日本語読み)です。


2.蒙古が大変に強大な国であったことは日本側もよく知っていました。しかし、北宋が態度を明らかにしないうちに蒙古に支配されてしまったことを教訓にして、蒙古に対して断固とした態度をとったのです。このことを時宗に説いたのが宋から亡命してきた「無学祖元」です。そのために、外交使節を処刑するという強攻策を
とったのです。勝つ自信は五分五分でしょう・・しかし、当時の多くの武士は勝敗よりも手柄を立てて新しい領地を得ることの方が大切だと考えていたと思います。日本は島国のために外国から侵略されたことがなく、「国」ということもあまり意識していなかった・・国と言えばそれは日本国内の地方の単位で、文永の役が終わってから外国を意識し、蒙古に支配されたら「大変かもしれない」と思うようになったのです・・のんきですね(笑)

3.しかし、幕府は2度3度と蒙古が襲ってくると考えていましたから「異国警護番役」と「要害石築地役」という二つの役務を武士に課しました。警護番役は兵を出し戦に備えるものです。石築地役は海岸線に石を築いた防塁を造るためにお金を出させることです。(お金でなくても、そこへ行って作るのでもよい)こうして築かれた石塁(防塁とも言う)は総延長が20キロメートルを超えると言われています。工事に伴う負担は領地1反(約10アール)につき1寸(3.3センチメートル)
と決められていましたが、遠くの武士はそこまで行くのも大変なので、お金だけを払って工事を任せていました。
この石塁址は今でも博多周辺に残っています。


はじめまして 中学校の社会科教師をしていますが,生徒からの質問で「万葉集」の中にある農民の歌は,たぶん字を知らない農民が詠めたのだろうか。そんな教養や知識があったのかという質問がありました。恥ずかしい話,
私もよく分かりません。どうか教えていただけないでしょうか。よろしくお願いします。(河野)

ゲンボ−先生

河野先生 メールをありがとうございます。

もちろん一般の農民は文字の読み書きは出来ません。万葉集は万民に広く募集しましたので文字の書けるものが聞き取ったものも数多くあります。文字の書けるものとは集落の長レベルです。
古文書に残る人が住んでいたであろうと思われる遺跡が神奈川県秦野市から発見されました。戸数100戸ほどの当時としては大集落ですが、村出身の庁の官吏は一人しかいません・・この人は教育を受けるだけの余裕ある家に生まれた人です。おそらく里長(郷長)でしょう・・・(※里長は 有力農民から選ばれ、庸・雑徭を免除されています。)
こういう人が村人や防人に接して歌を文字にしたのです。

ゲンボー先生


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