高校生以上の方からの質問

このページは中学生以上の方からの質問やお便りを掲示しています.

 

玉川学園・玉川大学


小学生とのやりとりはこちら

中学生とのやりとりはこちら

P1  P2  P3  P4  P5  P6 P7 P8

P9


主婦です。今、後醍醐天皇について調べています。後醍醐天皇が、隠岐に流される時の詳しいルートは、どこまで解っているのでしょうか?教えて下さい。又、後醍醐天皇が隠岐に流される前から、名和長年は、後醍醐天皇の隠岐脱出計画を練っていたのでしょうか?いろいろ、調べてみましたが、わかりません。よろしくお願いします。熊田

ゲンボー先生

後醍醐天皇が隠岐に入るされるまでのルートは「太平記」に書かれています。

1332年(弘元2)3月7日

六波羅探題にとらえられていた天皇はこの日、四方輿に乗り隠岐に向けて出発しました。三方の幕は上げられていたといいますから「みせしめ」的な意味も込められています。したがう者は女房3名、それを取りまく警護の武士は数百。

輿は加古川を超えて美作に入ります。言い伝えでは、この時児島高徳という武士が警護の武士を襲う計画を立てていましたが、道がそれたために失敗に終わったと言われています。しかし、この話の信憑性には?がつきます。その後久米(津山)の佐羅山を経て大山を見ながら進んでいます。

4月1日 後醍醐帝一行は出雲の八杉(安来)津から三尾(美保)湊へうつり、そこから隠岐に渡航したとあります。久米から安来の間は記載がありません。しかし、常識的に考えるなら出雲街道を通ったと思いますので、以下の(  )内のルートであったろうと予想されます。このルート沿いには言い伝えも数多く残っています。

これをまとめると

京都・・・加古川・・姫路・・津山・・(久米・・久世・・美甘・・新庄・・日野・・南部・・米子)・・安来・・美保・・隠岐 になります。

ご参考になりましたでしょうか?

(以下は太平記のその部分です)

明れば三月七日、千葉介貞胤、小山五郎左衛門、佐々木佐渡判官入道々誉五百余騎にて路次を警固仕て先帝を隠岐国へ遷し奉る。供奉の人とては一条頭大夫行房、六条少将忠顕、御仮借は三位殿御局許也。其外は皆甲冑を鎧て弓箭帯せる武士共前後左右に打囲奉りて、七条を西へ東洞院を下へ御車を輾れば、京中貴賎男女小路に立双て「正しき一天の主を下として流し奉る事の浅猿さよ。武家の運命今に尽なん。」と所憚なく云声巷に満て只赤子の母を慕如く泣悲みければ、聞に哀を催して警固の武士も諸共に皆鎧の袖をぞぬらしける。桜井の宿を過させ給ける時、八幡を伏拝御輿を舁居させて二度帝都還幸の事をぞ御祈念有ける。八幡大菩薩と申は応神天皇の応化百王鎮護の御誓ひ新なれば、天子行在の外までも定て擁護の御眸をぞ廻さる覧と憑敷こそ思召けれ。湊川を過させ給時福原の京を被御覧ても、平相国清盛が四海を掌に握て平安城を此卑湿の地に遷したりしかば、無幾程亡しも偏に上を犯さんとせし侈の末、果して天の為に被罰ぞかしと思食慰む端となりにけり。印南野を末に御覧じて須磨の浦を過させ給へば、昔源氏大将の朧月夜に名を立て此浦に流され、三年の秋を送りしに、波只此もとに立し心地して涙落共覚ぬに枕は浮許に成にけりと、旅寝の秋を悲みしも理なりと被思召。明石の浦の朝霧に遠く成行淡路嶋、寄来る浪も高砂の尾上の松に吹嵐、迹に幾重の山川を杉坂越て美作や久米の佐羅山さら々に、今は有べき時ならぬに雲間の山に雪見へて遥に遠き峯あり。御警固の武士を召て山の名を御尋あるに「是は伯耆の大山と申山にて候。」と申ければ、暫く御輿を被止内証甚深の法施を奉らせ給ふ。或時は鶏唱抹過茅店月、或時は馬蹄踏破板橋霜、行路に日を窮めければ、都を御出有て十三日と申に、出雲の見尾の湊に着せ給ふ。爰にて御船を艤して渡海の順風をぞ待れける。

次に名和長年のことです。

結論から言えば、長年は後醍醐帝が隠岐脱出するときに活躍する武将ですが、遠流の時に帝を救い出すことは考えていなかったと思います。

ただし、武士にとって天皇はまさに雲の上の人です。たとえそれが流人であってもそのことに変わりはありません。このことは大切なポイントになります。

同じく流人だった頼朝ですら伊豆の伊東家に7年間も養ってもらっていました、相模をはじめとする多くの豪族達はおおっぴらにはできないために、自分らの子息達を頼朝の元に送って親交を深めています。彼らは狩りも頻繁に行っており「流人」とはいっても、関東の武士にとってはとても大切な源氏の御曹司であったわけです。本音と建て前は大いに違うわけです。

この時代の武士の考え方は大変に合理的で、親子や兄弟で分かれて戦うのは後にどちらが勝っても、負けた家族の助命嘆願をおこなったり、最悪でも家を残すことができると考えていたからに他ありません。事実、頼朝討伐軍の大将だった大庭景親の兄は頼朝方についています。これはつまり保険と同じで、一族を揚げて一方に味方することは大変に危険な行為と言わざるを得ないのです。

このように鎌倉時代の武士は江戸時代の武士とは大きく異なっていて、主君に対する献身的な忠誠心というものはありません。よく言えば合理的、悪く言えば損得勘定で動いていたということになります。彼らにとって一番大切なのは一族の繁栄とそれを支える領地を守ることです。よくご恩と奉公と言われますが、恩があっての奉公なのであって、今仕えている主がダメだと判断したときには躊躇無く新しい主につく。これこそが一族を支えるもっとも武士らしい姿と言えます。

現代のサラリーマンはもう少しこのことを見習うべきでしょうね・・サービス残業・過労死なんていう言葉を聞くと、どうしても情けない江戸時代のサラリーマン武士を連想してしまいます(笑)小なりといえども独立心に富み、機を見るに敏だった鎌倉武士のほうが私は好きです。

話がチョットそれました。名和長年は優れた武士です。おそらく北條得宗家をとりまく情勢が変わり「もしかしたら」と思った瞬間から後醍醐帝脱出に荷担した・・それは頼朝が九死に一生を得た石橋山での梶原景時に似ています。

年表を見ながら考えてみましょう。

1332年11月 護良親王の挙兵に楠木正成が千早城にて呼応する。

同年12月 正成が赤坂城をうばう。

1333年1月 赤松則村、播磨にて挙兵する。正成、摂津にて幕府の重要御家人、宇都宮氏を破る。

同年 2月 幕府軍、千早城・赤坂城を辛勝にて奪取するも正成等は無傷で逃亡・・・・

長年が後醍醐帝脱出に手を貸したのはまさにこうした状況下であったわけです。もともと近畿地方以西は独立性の強い武士が多く、幕府の御家人となっても守護をはじめとする東国からの派遣武士とのいざこざが絶えなかった地域でもあります。正成等をはじめとする畿内の在地武士の活躍ぶりをとおして、幕府の弱体化を咄嗟に見抜いた長年は躊躇することなく朝廷側についたのだと思います。この判断こそが鎌倉武士の真骨頂で、4月にはあの高氏(足利尊氏)ですら、幕府(北条家)に見限りをつけています。

歴史のうねりは大きく変わろうとしています。後醍醐天皇は北条氏にとっての罪人なのであって、他の武士にとっては無関係です。自分たちにとってもっとも有利な状況に身を置いたものこそが、生き残っていきました。

さて、その長年も「建武の親政」という社会の実態を全く無視した政治状況を客観的に判断することができなかったようです。彼らよりもう少し深い目で社会を見ていた尊氏・直義兄弟にその後破れてしまいました。

ここから先は「なぜ幕府は滅びたのか?」という小中学生の質問に応えるときに良く述べることなのですが、「幕府が出来たときの理由がだめになったから」・・・

在所では領地争いや国司の横暴に苦しみ、都では貴族や平氏に見下されていた武士の地位をあげ、領地を守る仕組みを作ったことこそが幕府の本質なのであり、彼らが守るべき本分です。ですから幕府が持っているそれらの機能が低下すれば、当然の事ながら支えていた武士の心も離れていきました。 分割相続や二度の元寇による出費、商品経済にのみこまれていった御家人の生活は苦しくなるばかりです。

頼朝の時代から150年もたった時代に、将軍(実態は北條氏)に対する忠誠心は急速に希薄になっていました。

後醍醐帝が隠岐を脱出した1333年の2月は、まさに雪崩現象をおこすその始まりの時だったのです。

これでよろしいでしょうか・・・


こんばんは。愛知県に住む教員で三浦と申します。今度、授業で承久の乱について扱いたいと思っています。これまでの経験上、中学生たちは幕府の成立=全国支配と誤解している感じがします。私も中学生時代はそうでした。そこで承久の乱以前と以後でどのように勢力範囲が変わったのか日本地図で説明したいのですが、資料が見つかりません。勢力範囲の定義も難しいとは思いますが、お教え願えないでしょうか。(ホームページでは、承久の乱以後も全国支配をしたわけではないと書かれていて驚きでした。ただ図示されていたわけではないので具体的にどこの国がだれの支配化(朝廷or幕府)なのか分かりません。三河の国は幕府、土佐は朝廷…などと国単位で分かるとありがたいです。)

ゲンボー先生

三浦先生

メールをありがとうございました。

さて結論から申し上げますと「承久没収地」は後鳥羽上皇管領の皇室領をはじめ、その計画に参画した側近院臣や京方武士らの所領全てを没収しました。吾妻鏡には「反逆卿相雲客並勇士所領等事、武州尋註分凡三千余箇所也」と書かれています。(注:武州とは北条泰時のことです)

新地頭補任地は

大和・河内・泉・摂津・伊賀・伊勢・尾張・三河・伊豆・近江・若狭・越前・加賀・越中・丹波・但馬・因幡・伯耆・出雲・岩見・播磨・美作。備中・安芸・周防・紀伊・淡路・阿波・讃岐・伊予・筑前・豊後・肥前の中部以西。

また、没官守護職は

摂津・伊賀・伊勢・尾張・尾張・美濃・越前・丹波・但馬・播磨・安芸・長門・淡路・阿波

と、これも西国が中心ですね・・・。

これで、日本のほとんど全ての国が何らかの形で幕府の影響下に入ったと言うことになります。しかし、ここで間違ってはならないのは、幕府は国や所領をすべて支配したのではないということです。

地頭職とはその名の通りあくまでも職です。荘園や国衙領に派遣された「警察兼徴税吏」にすぎないのです。彼らが初めから所領が与えられたというのは大きな勘違いということになります。関東など旧来御家人が支配していた土地は確かに彼らのものでしたが(本補地頭ですね・・)、新補地頭はそういう御家人もいたし、そうでない御家人もいました。そういう御家人とは所領ごとすべて没収した土地の分配を受けたものです。そうでない、多くの御家人(地頭)は、まずその荘園や国衙領に派遣されそこから実力で領地を切り取って行きました。それが「地頭請」であり「下地中分」というわけです。

ですから、承久の乱直後からしばらくはマックスでも幕府影響下の領地は半分ということになりますね。また、幕府の権限が及ぶ範囲はあくまでも武士の社会、しかも御家人に対してのみでしたから、西国においてはなお、朝廷や院の力はあったと考えるのが妥当です。しかし、北条時頼の頃から幕府は朝廷に対しても政治的に優位にたちました。ところがその後「元寇」をきっかけに御家人の困窮がすすみ、幕府は基盤であった御家人制度の形骸化とともに鎌倉幕府は崩壊し、今度は武士の権限が更に強まった室町時代に替わっていきました。

ちなみに、鎌倉幕府という言葉ですが、当時の人は政治組織のことを幕府と呼んではいません・・あくまでも「問注所」「政所」「侍所」「六波羅探題」であり、それらは御家人の利権を保護し、敵対するものに対しての安全保障の組織という意味合いを持っていました。彼らの中で日本の支配者は天皇であり上皇であり、法皇なのです。

幕府と呼んでしまうと、統合された一つの政治組織、日本最高の政治機関という感じがしてしまい、ここいらが「鎌倉幕府」=「武士の政治」と勘違いしてしまう大もとのような気がします・・・幕府とは将軍の館のことで、これを政治組織のようにして使ったのは江戸時代中期以降の学者によります。江戸幕府だってほとんど幕府とは呼ばれていないのですから・・(苦笑)

ご授業頑張ってください・・(私も以前中学校で教えていました)

ゲンボー先生

こんばんは

お忙しい中、そうそうに回答をしていただきまして誠にありがとうございます。教科書(東京書籍)を見ると、「…幕府は大軍を率いてこれをやぶり(承久の乱)、京都に六波羅探題を置いて朝廷を監視するとともに、上皇側についた貴族や西国の武士の領地を取り上げ、地頭に東国の御家人を任命しました。これにより、幕府の支配力はいちだんと強まりました。」と書いてあるので、てっきり全国のほとんどを支配したものと思っておりました。「下地中分」を忘れておりました。また、「幕府の権限が及ぶ範囲はあくまでも武士の社会、しかも御家人に対してのみでしたから、西国においてはなお、朝廷や院の力はあったと考えるのが妥当です。」のところはかなり勉強になりました。鎌倉時代が二元支配などと言われる理由がよく分かりました。どうもありがとうございました。また分からないことがありましたら質問させてください。よろしくお願いいたします。

愛知の教員 三浦より


はじめまして、愛媛で高校の教員をしておりますフジタカです

頼朝の軍勢の数の推移(変化の仕方)をご存知の範囲で教えていただきたいのですが。よろしくお願いします。また、「征夷大将軍」という職に関することですが、頼朝はこの職に就くことをめざし、対する後白河法皇は決してこれを認めることはなかった・・・もともと征夷大将軍というのは坂上田村麻呂が就任したときは夷敵を討つための将軍職であったと思うのですが、いつごろ征夷大将軍という職に対する世間の見方が変わったのでしょうか?

フジタカ先生 メールをありがとうございました。

ゲンボー先生

頼朝の軍勢、すなわち御家人の郎党も合わせた兵の数は正確には分からないというのが答えです。吾妻鏡にはいくつか数が書かれていますが、こうした資料は数を誇張することが多いので、眉に少しツバをつけて読むのが普通です。・・・(笑)

旗挙げ時の数は100名を切っていたでしょう

石橋山では伊豆の中小豪族あわせておよそ300というところでしょうか

安房に逃げてからは三浦の軍勢と合流して、これも2〜300がいいところ

しかし、上総の介が頼朝の麾下に入ってからは1〜2万人、これは上総・下総の豪族のほとんどが家来をつれてやってきたからです。

そこから、鎌倉に入るまでに「日和見グループ」や「石橋山では敵対していたグループ」が我も我もと・・これで約4万と言われていますから、関東地方の主な豪族を合わせて5万弱の兵力があったと思われます。

奥州藤原氏を攻めるときには関東と甲信越の御家人が加わっていますから30万を超えた大軍になりました。

ちなみに承久の乱時以後の兵力は50万と言われています。

格式から言えば右大将のほうが征夷大将軍より上です。しかし、征夷大将軍が右大将と決定的に異なるのは「戦時下」「占領地域」における統治権を握っていると言うことです。これは関東に基盤をおいている頼朝にはとても大切なことでした。ご質問の件ですが、この征夷大将軍に占領下の統治権が与えられたのは坂上田村麿呂の時ですから、平安時代の初めということになります。しかし、蝦夷経営の安定化とともに征夷大将軍の職そのものが事実上の廃止になりました。

ですから頼朝が征夷大将軍にこだわったのはこの故事を知っていたからで、おそらく大江広元あたりの進言があったからだと言われています。

ゲンボー先生


横浜金沢のシティーガイドをしているため、鎌倉時代のことを色々勉強しているものです。このホームページをずいぶん参考にさせていただいています。

最近、新編武蔵風土記稿を読み始めましたが、分からない言葉に閉口しています。まず、地理的なことを知りたいのですが、久良岐郡の郷名とその位置関係が良く分かりません。調べる方法か、地図を教えていただけると嬉しいのですが、お願いできますでしょうか。又、鎌倉時代の全体の流れが理解できるようにするためには、どんな本を読めばいいでしょうか? 寿美

ゲンボー先生

寿美 様

メールをありがとうございます。久良岐郡は現在の中区・南区・西区・磯子区・金沢区・港南区にそのままあてはまります。地名としては磯子にある久良岐公園にその名が残されています。

また、中区・南区・西区・磯子区・港南区は「平子の庄」、金沢区は「六浦の庄」とオーバーラップしています・・つまり、鎌倉時代の荘園や行政区分がそのまま現在まで続いているということです・・面白いですね・・久良岐郡の真北に都築郡がありますが、この郡は縮小されてご存じの都築区にその名を残しています。添付したファイルは荘園分布図(武蔵)で久良郡と書いてあるのが久良岐郡です。ご参照ください。

鎌倉時代の全体を知るためには中央公論社の「日本の歴史6・7・8巻」が読みやすくまとめられています。ブックオフあたりにあるのではないでしょうか・・(笑)中世は専門書が多く一般の方が読めるようなものが少ないですね・・実際には庶民が生き生きとした面白い時代なのです・・私も書こうと思っているのですが時間が無く、なかなかとっかかりが掴めません。

シティガイドとはどのようなお仕事ですか?・・11月26日(土)に我々のシンポジウムがあります。由比ヶ浜遺跡の生々しい写真や当時の庶民生活、宗教観、武士社会の構造など興味深い内容になっていますので、よろしかったらぜひおいでください。お仕事の役にたつかもしれません・・「鎌倉時代の勉強をしよう」のトップページに案内が出ていますのでご覧ください。分からないことがありましたらまたどうぞ・・

ゲンボー先生

寿美

早速にメールを頂いて、本当にありがとうございました。 感激です!ところが素晴らしい地図なのに、武蔵2のページしか、プリントできません。武蔵1もプリントしてじっくり見たいのです。パソコンも、 四苦八苦しながら使っているところなので、ファイルの開け方や、印刷設定が足りないのかもしれません。方法を教えていただけますか?

武蔵2の地図は、ばっちりですが、郷名は、地名上の丸印のところをさすのでしょうか?私の住んでいる釜利谷郷は、どのあたりまでなのか、富田郷、平子郷、などは?庄,保、荘,牧、厨など、時代による呼び名の変化や、構成など、分かっていません。 もし、教えていただけると嬉しいのですが、お願いできますでしょうか。さて、私がボランティアで参加している、横浜金沢シティーガイドについて、お知らせします。金沢区は、鎌倉の一地域といわれてきただけに、名所旧跡がたくさん残っています。今に残る歴史を、少しでも皆さんに分かっていただこうと8年ほど前に、出来た団体です。

歴史に疎いものが、人前で解説するのですから、その勉強たるや、並大抵では有りません。始めて2年になりますが、やればやるほど面白いながら、疑問ばかりが出てきます。グループを作って勉強会をやっているうちに、「新編武蔵風土記稿」をわからずして、この地域のことが分かるはずがないと思ったわけです。巻七十三 久良岐郡之一から読み始めたところが、やり始めて少しして、「吾妻鏡」などが出てきて、ちっとも進まなくなりました。

それで、パソコンで色々調べ始めて、このサイトに出会って、救いの神だと思いました。 勝手な質問ばかりして申し訳ございませんが、どうぞ、よろしくご指導下さい。本も、早速探しに行って見ます。ブックオフなんて、思っても見ませんでした。

ありがとうございます。  寿美

ゲンボー先生

寿美 様

画像を二つに分けました。これで如何ですか?

庄・荘は荘園の一般的な呼び名です。庄の字を使うほうが多いですね

保は国府直轄の領で、税は国府の運営資金になります。牧は馬を飼う牧場です。横浜ですと石川の牧が有名です。

御厨は荘園ですが神社に寄進したものをさします。つまり神様に捧げる食べ物をまかなう領地と言うことです。

いずれも、そこを実効支配しているのは豪族で、それらが武士ということになります。

詳しくは私のページにある「貴族から武士へ」で荘園と武士に関わる部分を取り扱っていますのでご覧ください。

「鎌倉時代の勉強をしよう」には月間5万件のアクセスがあり、中世に対する興味が広まりつつあることを感じています。ところが資料が少なかったり、歌舞伎や映画、ドラマなどの影響で偏ったイメージのままでいるのもまた中世なのです。私のページは可能な限り、新しく発見された資料や歴史解釈をもとに作られていますので、多分一番生々しい鎌倉時代が伝えられているかと思います。今後ともご利用ください。

ゲンボー先生


愛知県瀬戸市の隣、尾張旭市在住の徳田ともうします。質問は下記の2つです。

1.得宗領とは

2.瀬戸が得宗領であったらしいのですがその経緯

以上です。よろしくお願いします。

ゲンボー先生

徳田様、メールをありがとうございました。

1.得宗領とは読んで字のごとく「得宗家(北条氏嫡流)」の領地をさします。ご存じのとおり源家は三代で滅びそのあとはいわゆる執権政治が続きますが、義時の嫡流は得宗家と呼ばれ、得宗領は泰時の時代に確立し北条家公文所が統括していましたが、そのほとんどが地頭職です。

得宗家は時頼の代になると強大な力を持つようになりました。したがって得宗家でない北条氏が執権になっても、事実上の権力者は得宗ということになるわけです。その経済的基盤が得宗領と言うことになります。得宗が幕府内でどのような位置づけにあったかを「移り変わる幕府の組織」に詳しく書きましたのでご覧ください。

2.瀬戸は鎌倉時代「瀬戸の厨」となっており、洞院家領・醍醐寺領(国衙領です)と記録されています。尾張の得宗領としては海部郡の富吉加納・同富田庄、中島郡の玉江庄、春部郡・篠木庄などが見られますが、瀬戸厨は残念ながら得宗領という記録がありません。

ゲンボー先生


はじめまして。静岡県の郷土史について勉強している優菜といいます。先生のページは大変参考になり、いつも楽しく見させていただいています。

「記録によると京都と鎌倉間はふつうに歩いて16日かかりましたが,早馬では3日という記録が残っています.」「当時の人は「わらじ」を履いてこうした道を1日約35キロから40キロも歩きました.」「庶民は宿駅に泊まりながら1日約35〜40キロを歩きましたから,鎌倉,京都間は14日〜16日です.」と書かれていますが、このような記録はどのような文献に登場しているのでしょうか?できるだけ当時の史料に目を通したいと思っているのですが…

平安・鎌倉時代当時、鎌倉から天竜川付近まで歩くとどのくらいかかるのか、どのくらいの道程があったのかを知りたいと思い、質問させていただきました。箱根や大井川などの難所があるため、距離だけでは推測し難かったので、具体的な日程などがわかる参考史料や参考図書があれば是非教えていただきたいです。

また、移動手段として籠などもあったと考えられますが、籠の場合についても日数等がわかるものがあれば教えていただけると嬉しく思います。お忙しい中申し訳ありませんが、よろしくお願い致します。

ゲンボー先生

優菜様、メールをありがとうございます。

面白い質問ですね・・政治・経済・文化・・すべてについて交通は大切な要素です。もっと研究が進んでもいいと思います。考古学の分野でも「道」の発見が相次いでいますが、行政にとっては文化財という概念からはずれてしまっているようで、保存などはされようもなく、研究の方も細々という感じです。私のページでも「海の道・陸の道」として交通を取り扱っていますが資料不足でイマイチという感じです。

さて、ご質問の件ですが・・・

一日30キロから40キロというのは人間の平均的な歩行速度と、10時間は歩いただろうという数字から割り出した距離です。実際に「吾妻鏡」を読むと「何日に京都を出た使者が何日に鎌倉に着いた」という記録が残っていますので、歩行の場合・馬の場合・早馬の場合がそれぞれ分かっています。先に挙げた数値はほぼこれに合致します。

この速度と距離は移動手段が全くかわっていない江戸時代もほぼ同じです。「ほぼ」と書いたのは江戸時代には街道が整備されたため、多少歩きやすくなったからです。しかし、大井川には橋が無く、増水したときには川止めをくったわけですね・・・それで、季節によっては中山道をつかう人も多くいたわけです。鎌倉時代には大井川のような「政策的・軍事的」に橋を架けない川はありませんでした。そこそこの川には橋があったわけで、ちょっと大きな川でも浮き橋がありました。相模川河畔から当時の橋脚が発見されましたがとても立派なものです。都市の近くでは概ねこのような橋が架かっていたと考えてよさそうです。吾妻鏡にもさりげなく、橋の普請をしたとか修理をしたとか書いてあります。

なお。当時の東海道は足柄越えで「箱根越え」ではありません。

籠・輿ですね・・これだとぐっと遅くなるでしょう。輿で京都鎌倉間を移動した記録としては四代将軍頼経の上洛があります。このときは19日間かかっていますが、萱津で二泊しているので実質的には18日間です。京都と鎌倉間を550キロと考えると一日30キロ・・ちょうどいい感じですね。しかし、これはかなり順調にいったときの記録ですから早いほうだと思います。鎌倉から天竜川までは・・計算してみてください(微笑)

ゲンボー先生


こんにちは。はじめて質問差し上げます。よろしくお願いいたします。私は、信州松本市在住の田中と申します。地域の歴史が好きで、少年少女向けの歴史小説を書いています。このほど、木曽義仲がはじめて戦ったと思われる市原の戦いを題材に物語を書いているのですが、勉強不足で当時の農民の納税についてよくわからないのです。

1.税について

 時代は1184年の秋、場所は信濃の国麻績御厨(おみのみくりや)です。

「〜収穫した米の一定量は下司である麻績一族を通して領主の後白河院へ納めなければならない。どう考えても、昨年と同じ量の米を納めるのは無理な話だった。米が納められなければ麻布を納めることになるが、成人一人につき一反と決っている。機織ができなくなった母親も一反なのだ。その麻布すら納めることができなければ、領主の元で長期間労働しなければならない〜」

2.この当時、雑穀の量を示すのに「一合の穀」という言い方は正しいでしょうか。

3.この当時の地方武士(たとえば上記1の麻績一族)の13〜14歳のお姫様(巴御前でも可)が着る着物は、どういうものでしょうか。一説に袿、一説に小袖と聞きましたが・・・? 以上、お手数ですが、よろしくお願いいたします。

ゲンボー先生

田中様,メールをありがとうございました。

麻績御厨は筑摩郡ですね。もともとは皇大神宮領でしたが平安時代末期には平正弘が本家となりました。しかし保元の乱以後に院領となり再び内宮領となった荘園です。荘園の中心であった神明社が現存しているそうですが行かれましたか?

年貢は年代や地域,荘園毎に多様でした。平安時代から鎌倉時代の年貢は「土貢」(どこう)・「乃貢」(のうぐ)・「乃米」(のうまい)と呼ばれ,荘園領主は検注によって荘園内の土地と等級を確定し田地では米,畑地では大豆や麦などの現物で貢納されました。 麻績御厨には1193年8(建久4年)の供祭物(年貢)の記録が残っています。それによると,

鮭:百五十隻

鮭児:一桶

搗栗:一斗

干菜米:一斗

であり,口入料(くにゅうりょう=係である神官への年貢)は

六丈布:六十段

四丈布:十六匹

鮭:三十隻

鮭児:一桶

とあります。犀川で鮭が多く捕れていたことが分かりますね。ご質問の「一合の穀」という言い方ですが,栗の例でも分かるように「大豆一合」とか「稗一合」と作物毎の名前で呼んでいたと思われます。注目すべきは貴重品の鮭児があったということでしょうか・・

小袖も袿もどちらも下着として着用されていたものですが,平安時代の末期から表着になってきたものです。木曾義仲が活躍したのもちょうどこの時期にあたり,どちらを着用していたかは微妙ですね・・・御厨の姫様クラスですと袿の可能性の方がやや高いような気がします。ご存じのように小袖は庶民の服として一般化してきたからです。ですが,ここはそのお姫様のキャラクターで田中様が何を着させるかをお決めになったら如何ですか(笑)

活発な子だったら(子といっても13〜4は大人にちかいですが)小袖,しとやかな子だったら袿・・・・

これでよろしいでしょうか・・

ゲンボー先生


豊中市の芳村です。

鎌倉時代の女性はどんなお化粧していましたか?

ゲンボー先生

芳村様、メールをありがとうございました。

古来より顔に装飾を施すことは行われており、縄文時代の土偶では「イレズミ」が、古墳時代の埴輪には朱を塗った顔が残されています。我が国に「白粉」(おしろい)と「紅」がもたらされたのは飛鳥・奈良時代で、白粉が国産化されるのは持統天皇の頃です。「鉛」で作ったものを「はふに」と呼び、「水銀」から作ったものを「はらや」と称していました。どちらも有害なものですから長期にわたって多用すると何らかの障害が出ると思いますが、当時の女性は屋外に出ることも多く、どちらかというと自然な肌色を好んでいたようです。白粉を塗るのは特別な人物や時、場所であったかもしれません。

しかし、口元や眉間に朱を入れるのは当時のはやりで、高松塚古墳の壁画にもそうした女性の絵が描かれています。

さて平安時代になって遣唐使が廃止されると化粧も国風になっていきました。貴族の女性は白粉の厚塗り・・・真っ白けです・・後期には男性にも薄化粧が広まりました。またお歯黒が広まったのもこの時代です。高貴な男性はにっこり笑うと歯が真っ黒というわけです。白い顔に真っ黒の歯です・・・この顔で現代の御堂筋あたりを歩いたら目立つでしょうね・・(笑)・・いいかもしれない・・

という状況で鎌倉時代に突入するわけです。化粧は一般にも徐々に浸透していきました。鎌倉の由比ヶ浜遺跡からはお歯黒か紅を入れたと思われる小さな花形の小皿がいくつも見つかっています。ただし、口紅が一般的になるのは江戸時代になってからです。

お歯黒は成人した女性もつけるようになり、眉毛を抜き去って額の上に太い眉をぼかして描きました。これは貴族の男性もしかりです・・・「バカ殿」とはいいませんがあれに近い印象です。眉墨は「紫草」を焼いた灰から作られました。武士ではひげを蓄えるのがはやり、髭のない顔を「片輪面」(かたわづら)と呼びました。いずれにしてもアクセントがはっきりした顔になっていたわけです。

この後も化粧は薄くなったり濃くなったり、眉毛の形や口紅の色も時代とともに色々と変わっていきました。では現代はどうか?・・・我が家のボーズも一生懸命に眉毛を剃って細くしています・・やれやれ・・(苦笑)

ゲンボー先生


神奈川県相模原市在住 光重

地元の郷土史に興味があり、時間を見つけては現地調査を楽しんでいる会社員です。地域を領した武士・豪族を思うたびに、常に疑問に思い、明確化できずに悶々としていることがございます。お手数をお掛けいたしますが、是非ともお教えください。

1.地域を領した武士・豪族らは、必要となる武器等をどのように調達していたのでしょうか。特に刀剣類に関して調べているのですが、 『領地内にて鍛冶屋を営ませ、自ら生産していた』のでしょうか。それとも、『商人から仕入れていた』のでしょうか。

2.鍛冶屋を営ませていたとすると、その痕跡を見つける方法はありますでしょうか。また、彼等は特殊な技能集団です。どの様に召し抱えられていったのでしょうか。

3.地元とは相模国渋谷荘と小山田荘の間くらいのところなのですが、渋谷氏におけるこれら資料文献等がございましたら、お教えください。

以上、お忙しい最中大変申し訳ございませんが、よろしくお願いいたします。

ゲンボー先生

光重様 メールをありがとうございました。

武具類は商人から買い求めたものです。野鍛冶のようなものは荘園によっては領内にもありました。また, 航路が開かれ船に乗った鍛冶が全国を回るのは鎌倉中期以後ですが,ほとんどが日用品を作っていました。

刀鍛冶にはたたらで作った鋼が絶対的に必要で,原料の調達や技術という点からその多くが西国で作られていました。やがて,武家政権の本拠地である鎌倉(横浜)にも大規模な製鉄施設が作られたようですが数量的には劣っていたと思われます。甲冑類も同様と思ってください。

1.当時,鉄はリサイクルしていたので製品として出土することは非常に希です。鍛冶屋や製鉄あとからは通常,焼土と鉄滓,あるいはフイゴの口などが出てきます。これも希ですが「やっとこ」が出土する場合もあります。彼らがどのような形で製産をしていたかは,地域や時代によって異なりますが,多くの場合鍛冶は農業と密接な関係にあるため,初めのころは荘園内にあったと考えられます。やがて技術集団として収斂されて商業地に進出するようになります。彼ら芸能民は供御人とか神人,あるいは寄人として全国を自由に通行する特権を持っていました。そのために中には船や陸路で諸国を回って鍛冶をするものも現れたという次第です。そうしたことで地方にも鍛冶の新しい技術が伝播していったと考えられます。

鍛冶とは多少異なりますが鋳物師(いもじ)の場合,梵鐘や貨幣,あるいは仏像などの鋳造に関わることも多かったので,荘園領主や大寺社に召し抱えられた者もいたようです。中には官位を持って荘官になっていたというケースすらあります。鍛冶の場合「刀鍛冶」のような高度な技術を持った者は領主や寺社に召し抱えられた者もいたかもしれませんが,生活に密着していたために,より庶民よりの存在だったと考えられます。

2.秩父党の渋谷氏は相模の有力豪族ですが,吾妻鏡以外の文献にはあまり顔を出しません。

渋谷氏の勢力範囲には旧相模の国府があり,彼らが内陸の要衝をおさえていたことは間違いがありません。ただ渋谷重国と佐々木兄弟の話からも想像できるように,彼は温厚な人柄であるとともに,情勢を判断する能力にも長けており,時として剛胆な面も見せています。ある意味では鎌倉武士を体現しているような存在です。にもかかわらず文献には出てこないのは,波瀾万丈というより,手堅く領内を治めていたからではないでしょうか。

長泉寺や吉岡神明社には行かれましたか?長泉寺は色々な言いつたえが残っているとのことですが・・・

※吾妻鏡を読み解くことは鎌倉時代を理解する上で最も重要ですが,お読みになられましたか?渋谷の名前があちこちに出てきます。

ゲンボー先生


現在兵庫県にある大学に通っています。

鎌倉後期の「政治と社会」の特色について調べています。主に、御家人や悪党を中心に調べてまとめたいのですが、まず何から調べていけばよいか分かりません。おすすめの参考文献などあれば教えてほしいです。具体的な事例をあげて説明したいのですが・・・。

ゲンボー先生

内田さんメールをありがとうございます。

参考文献はNHK出版 「黒田悪党たちの中世史」が手に入りやすいでしょう。直接悪党とは関係ありませんが学習を進めていく上で読んでおいた方が良い本として、講談社学術文庫「東と西の語る日本の歴史」があります。

悪党とは武士だけではなく一般庶民も含めて、朝廷や幕府などの権威に刃向かうモノのことを指します・・ですから楠木正成も悪党と呼ばれていました・・ですが武士だけではないのです・・・・この学習で大切なポイントは

1.西国武士の独立心の強さ

2.民衆の成長ということです

東国と西国はいろいろな点で異なっています。その一つに武士団のあり方があります。古くから経済的に発達していた西国では武士も荘園単位で独立する傾向が強く、東国のように一族の結束とか大武士団の形成という方向には進みませんでした。ですから新補地頭(東国から派遣された地頭)が守護との関係を深く持とうとするのに対して、守護も俺たちも同等と感じている武士が多かったのです。このような傾向をもつ西国では最後まで幕府の御家人にならなかった武士もいました。彼らは幕府にとっての「悪人」ということなります。※(九州は東国に近い形態をとっています。ですから尊氏が一旦敗れたあと九州で形成を立て直すことが出来たわけですね・・)

荘園内も西国では農業以外の諸産業が発達していて、経済的な活動も活発でした。ということで一般民衆の意識も東国の農民とははるかに異なっていたわけです・・ですから、早くから一揆が起こったというわけです・・ゆみ?さんは「阿弖川庄の農民訴状」をご存じですか?多分中学校の教科書に出ていると思いますが、「地頭の言うことを聞かないと耳を切り、鼻をそぎ落とす・・」という例のあれです・・あれも現在の和歌山県・・つまり西国ですね・・

つまり「悪党」をとおして西国の経済的、社会的な発達を浮き彫りにすればいいのです・・・と思いますよ・・・

分からないことがあったらまた質問してください。

ゲンボー先生


はじめまして!京都の大学に通っている、知恵といいます。ゲンボー先生のページはわかりやすく、貴重な情報源として活用させて頂いています。今日は、鎌倉時代のことについて質問があります。先日学校のスクーリングで、鎌倉に行きました。その中で銭洗い弁天に寄ったのですが、洞窟の中や階段を上った高い場所に3つの社が作られていました。そこで疑問に思ったのですが、なぜ銭洗い弁天の、弁天さまを祀る社は洞窟や高い場所に建てられているのでしょうか?

霊水が湧き出た場所が高地だったからではないかと父は言っているのですが他にも理由があるのでしょうか?また、その他に立ち寄った、東慶寺や江ノ島弁天の建物も階段を上った先の高地に建てられているのですが、寺社が高地に建てられているのには何か理由がありますか?鎌倉の地形的な要因とも関係があるのでしょうか?回答をいただけるようでしたら嬉しく思いますm(_ _)m

 

ゲンボー先生

知恵さん,おはようございます。名所旧跡や観光地を漫然と歩くのではなく,君のように「疑問」や「興味」を持って歩くという人は意外に少ないものです。「ものを見る目」を持つことの第一条件は「なぜ?」という心です。この心があれば君の未来は明るい・・(笑)

さて,神社やお寺というのは人々の心のよりどころですが,敬う人の立場からも,作り主の立場からも神仏の尊厳を知らしめたいということで内部をキラキラにしたり目立つ場所に立てました。これは古今東西共通ですね・・・

京都のように平らなところではなかなかそうもいきませんが,京都を取り巻く山の上にはお寺がありますね「鞍馬山」「比叡山」・・ちょっと高いところには必ずと言っていいほどお寺や神社があるのではないですか・・パリのサクレクール寺院や干潟の上に立つモンサンミッシェルも同様です。

知恵さんもたぶん行ったことと思いますが鶴岡八幡宮は当初浜辺にあったものを,鎌倉鎮護のために今の高台に移したものです。

私の住む川崎市北部は多摩丘陵と言って起伏のある地域です。ここでは神社やお寺はほとんどが丘陵地帯の中腹にあります。つまり多くの神社やお寺が山を背にして建てられているというわけです・・同様に鎌倉も起伏のある場所で主だったお寺のほとんどが鎌倉を取り巻く山を背にして建てられています。これは地形上のこともあるし,今述べたように村民からよく見える位置でもあるのです。

銭洗い弁天も源氏山の中腹にありますが,お父さんが言われるように湧水が出るところです。この水が弁天と深い関わりのある宇賀福神(蛇が化身)と結びついて弁財天が祀られたというわけです。

分かりやすく言うとこうなります。

古来より蛇は農業と深く結びついた信仰の対象でした。それは蛇が比較的湿ったところに棲息しているからで,農業に欠かすことの出来ない水と深い関わりを持った蛇がご神体の神社はほとんどが農業に由来しているものです。(ちなみに漁業は金比羅様)で,その蛇をご神体とするのが宇賀福神で,こちらは豊かな実りとともにお金も儲かるという一挙両得の神様です・・(笑)弁財天(七福神)は中国からきた神様ですが(そのおおもとはインドだそうです)同じように富と幸福をもたらす神様です。で,同じような御利益なら一緒にしちゃえ(笑)ということになったわけ・・・当時の日本は中国からきたものは物も文化も優れていると思われていた時代ですから(事実優れていたんだけれど・・)神様を一緒にしちゃうことにあまり抵抗感はなかったと思います。

銭洗い弁天の記録は古く,鎌倉時代に書かれた吾妻鏡にもときどき顔を出します。

いつのころからからか,この水でお金を洗うと何倍にも増えるという言いつたえが広まり,知恵さんのように今や日本中から人が集まってきて,せっせと水をお金にかけているというわけです・・(笑)・・どうですか,その後増えましたか?(笑)

ゲンボー先生

こんにちは。知恵です。

質問の回答をありがとうございます。とても解りやすかったです。今、スクーリングのレポートを書いていて、銭洗い弁天についてまとめているのですが、解らない事が出てきました。それは、銭洗い弁天は、当時の人々にどのような信仰を持って祀られてきたのか、ということです。庶民や武士は、銭洗い弁天をどのような気持ちで信仰していたのでしょうか?インターネットで調べたのですが、どこにも載っていなくて・・・。また、水でお金を清めると増える、という伝説はなぜあんなに庶民の間に浸透していったのでしょうか?当時は仏教が広まったようですが、そのことも銭洗い弁天の信仰に関係があるのでしょうか?

ゲンボー先生

知恵さん。おはようございます。

弁天信仰は平安時代の終わりごろから庶民に広まりました。一説によると頼朝の夢枕に立った宇賀福神のお告げによって湧水地に祀ったのが「銭洗い弁天」と言われていますが定かではありません。しかしその後執権が参っているところをみると,かなり多くの人に広まっていたことが分かります。それは前回のメールに書いたように,五穀豊穣や大漁祈願,商売繁盛を願う庶民の気持の表れで,それだけ庶民に力がついてきたことの証でもあります。

仏教が広まったと言うより「ご利益」を求めてという気持の方が強かったと思います。鎌倉時代に新仏教が庶民に広まるのも彼らの力がついいてきたことの証といえます・・つまり同時進行ですよね・・

ゲンボー先生


埼玉県の社会人、塚田と申します。以前より静御前に興味があり、鎌倉にもよく足を運びました。いろいろ調べていくうちに、静御前の周りに生きた人々にも関心が湧きました。有名な舞を舞ったあと、静御前の身の回りの世話をしたのはいったいだれなのでしょうか。静御前の後半生はいくつかの伝承がありますが、最後まで従ったのは誰なのか、最後を看とったのは誰なのか、具体的な名前が歴史に残されているのか、お教えください。よろしくお願いいたします。

ゲンボー先生

塚田様、メールをありがとうございました。

吾妻鏡:元治2年9月16日の記述には、静母子が京に返されるときに政子と娘が哀れに思い重宝をあげたと書いてあります。

静は義経と別れた後、従者の裏切りに会い山中を彷徨っているところを捕らえられ、鎌倉の北条氏に護送されますが、その際京にいた静の母「磯禅尼」もともに鎌倉に送られています。静の出産時にはこの尼が子供を取り上げたとあります。

しかし、ご存じのように静の産んだ子供は男子であったため、即座に由比ヶ浜に沈められてしまいました・・・失意の静母子が京に返された後どうなったかは諸説があり、埼玉でなくなったとか新潟とか・・・・

しかし、いずれの記録にも従者の具体的な名前は出てきません。それなりの人ですから従者はつけられていると思いますが、当時の記録には雑色とか所従などの身分低き者は記録に残らないのです・・とういことで残念ながらわかりません。歌舞伎や物語にはあるのですが・・それらはフィクションです・・・

最後がどうであったのか・・これも歴史の闇の中です・・・静は教養もあり美貌も兼ね備えていました。しかも悲劇の人でもあります・・義経の判官贔屓と対をなす形でいろいろな言い伝えや物語がその後に作られました・・・真実を明らかにすることが歴史学のベースですが、美しいままでそっとしておいた方がよいこともあるように思います。ですが、機会がありましたらもう少し私も詳しく調べてみたいと思います。

ゲンボー先生

お返事ありがとうございました。こんなに早くいただけるとは思っていませんでしたので、嬉しい驚きです。歴史に名を残す人とその人に従う人。私は明らかに後者なので、とても興味がありました。お返事をもとに、私も更に調べて行きたいと思っております。ありがとうございました。


現在大学入試に向けて勉強している高校三年生です。このサイトの荘園のところを拝見させていただきました。そこで、問題集を見ていて疑問になったのですが、大名田と(小名田と)と開発領主はいったい何がちがうのでしょうか?調べてみたのですが、分からないので解答よろしくおねがいします。

ゲンボー先生

メールをありがとう。受験生かあ・・我が家の長男もこの3月までそうだった・・大変なことはよく分かるよ(笑)がんばってください。

さて、名田ですが一概に「こう!」とは言えないのです。地域と時代によって大きく異なるからです。これからの説明は一般論です・・・

名田とは名の示すとおり名に属する田地のことです・・名は大別すると「国衙領の別名」と荘園制下の「百姓名」に分かれます。いずれについてもその名に属する田地を名田と呼んでいます。簡単に言うと「新しく開発された田地で開発者の名、あるいは地名を付けたもの」ということになります。

荘園とひと言に言っても田畑として開発されているところとそうでないところがあります。名田は力のある農民が領主に申し出て、開墾し農業用水を確保した新しい開発農地ですので、年貢は領主に納められます。

一般に近畿地方には小さい名田があちこちに散在し、それ以外の地域では一つの谷戸にまとまっている傾向が強いです。それは近畿地方の開発が進み広い面積の未開墾地が少なかったことと、個々の農民の力が他地域に比べて強く開発能力のある者が多かったということを表しています。

一方北陸や中部などの中間地では比較的広い未開墾地が残っていたこと、有力農民が集約されていたということもあって、まとまった広さの名田になったのです。名田という地名は各地に残っておりその多くが中世におこったものです。

一般的に開発領主とは荘園や国衙領を開発した領家のことを指します。後の寄進地形荘園の領主とは異なるもので初期荘園に多いものです。名田の場合は名主というのが一般的です。これでいいですか?わからないことがあったらまたメールをください。

ゲンボー先生


ゲンボー先生、はじめまして。神奈川在住の英雄(27才)です。僕が鎌倉時代(頼朝と実朝)に興味がわいたきっかけは小学校3年生の頃、土屋三郎のお墓に毎日行って、この石が本当に800年前の物か?と不思議な気分に成ったのがきっかけで、近所の寺の坊さんに聞いたところ、本を見せられ、その本に頼朝の絵が載っていて、その顔に魅了され、自分で(源氏)と書いた旗をつくり一人で田畑を走り回ったものです!それから、伝記を買い、読んだのですが当然、理解出来るはずもありません。それでも僕は頼朝に惹かれていました。理屈などありません。ただ僕には彼の存在が気になっていたのです。当時、親父が旅行に連れて行ってくれると言い、迷わず「蛭が島」と言った一寸ズレタ子供でした。それから物凄い不良で登山家というよく自分でも理解出来な青春生活を送り、今また彼の存在を勉強したくてたまりません。

と、まあ〜前置きはこれぐらいのして、質問です。彼の政治手腕 人間性 状況時の精神心理まで考えてしまっているぼくは、はたして一般社会人として一寸ズレテイルのでしょうか?今後の僕の人生の為にご指導願います!!

ゲンボー先生

英雄さん、メールをありがとう・・・「不良で登山好き」かあ・・・(笑)・・・そりゃ不良じゃないわ・・・・

何を隠そうこの私も学生時代は不良?でしたが登山好き・・岩手山・八甲田山・十和田山など東北の山と地元丹沢はかなりやりました・・・

若い頃の冒険(実体験)はあなたの今後の人生に必ず役に立ちます。それはどんなことでもです・・不良体験も山体験も・・大切なのは「体験から学ぶ」もしくは「学んでいること」なのです。古来「歴史に名を残す人」の100%はそういう人たちなのです。勉強だけの人は最初はよくても後は続きません・・なぜなら、独創性とか創造性が育っていないからです・・しかしそれだけではダメなんだなあ・・・それにプラス「人間通」でなくてはなりません・・

どういうことかというと、大業をなす人というのは、対人関係を良くも悪くもうまく構築できる人なのであって、相手の心を掴むためにはそれなりの才能と努力が必要です。

私のホームページにも書いてあるように頼朝はある意味で人間通です・・・それは彼が囚われの身という「逆境」に育ったことも関係あるし、それでもなおかつ「貴種」としての扱いもあったからでしょう・・・頼朝は実に人間的です

14歳で虜囚の身になったときは元服したとはいえ子供ですが、やがて伊豆や相模の武士たちから源氏の棟梁としてあがめられ、自分もそのように自覚していきます。しかし頼朝も男ですから女性との浮いた話も結構あって伊東の娘とできちゃって子供まで作っています。その後に北条氏の娘政子と結ばれますが、その最中にも「亀の前」という女性との関係も続いています・・・(笑)

平家を討てという宣司をもらったときも最初は「いやだなあ」・・という反応をあらわに示します・・・無理もない、娘も生まれ政子ともそれなりの平和な家庭生活をおくっているわけですからね・・・それでもついに自分の命がねらわれていることを知って立ち上がるのですが、最初の頃は心配で心配でしょうがないといった感じです・・・ビクビクしています・・・やがて石橋山の合戦で生死を分ける戦いをしたことや、安房にわたってからの地方豪族たちの彼に対する反応から少しずつ自信がついてきます。

たぶん頼朝が関東の豪族たちの代表と言うことを自覚するのは富士川の合戦あたりでしょう・・・義経をはじめ他の弟たちも全国から集まり、関東や中部の豪族のほとんどが頼朝の家臣になった・・つまり御家人ですね・・・頼朝は自分の経験から人を見抜く力をつけていきました。この時代「自分の味方」かそれとも「敵か」ということはとても大切なことでしたから、自然に身に付いていったのでしょう・・

また頼朝はご家人個人の性格や好みをよく知っていました。戦況報告でもその誤りを指摘して正当に働いた者に正当な恩賞を与えています。義経のように勝手に朝廷から官位をもらった者にたいしては「あいつは目がとろんとしていて実際には使えないやつだ」とか「ねずみのようにこそこそとして恥ずかしいやつだ」などと具体的にご家人たちの性格を書き連ねています・・・でも、これはやや感情的ですが(笑)・・・

木曽義仲から人質として預かった「清水の冠者義高」を殺してしまった後(義高は当時12歳・・これがきっかけで許婚の大姫は父頼朝への不信感から拒食症になる)・・・義高についてきた同年の従者をかわいがりご家人にもしています・・これはたぶん自分の子供の頃のことをオーバーラップしていたからでしょう・・・義高は人質の定めとして殺されなければならなかったが従者までは殺したくなかった・・子供のね・・・じぶんも殺されるべきところを助けられているわけですから・・・このように政治家頼朝と父親頼朝はかなり違っています・・それは、仕事は仕事・・しかし家族は家族と割り切っていたからです・・日本史上まれに見る政治家ですが・・父親としては実に平凡だった・・悩みも多かった・・酒を飲むことが多くなり結果として脳内出血?脳梗塞?で落馬して果ててしまいましたが私は好きですね・・・

頼朝だって秀吉だって一歩間違えば乞食かのたれ死にです(笑)そうならなかったのは彼らがそれぞれの体験を通して「自分で考え」「自分で判断して」「自分で行動した」からなのです・・・ようするに「自分の道」が見えていたからなのです・・英雄さんも自分の才能は何かを掴んで羽ばたいてください。ずれてなんかいませんよ・・・27歳というのは十分に若くて可能性も大きい年令です・・・いいなあ、私もそういう27歳になりたい・・・

ゲンボー先生


埼玉県の山本と申します。さて用件は、鎌倉時代の神奈川県、大変興味深く読み、鎌倉街道はこちらでは横6mほどはないが、かつてはどうだったのだろうと思いました。大変参考になりました。やはり現地を歩くのはおもしろいものですね。

質問は、その中で町田市の小野路町「鎌倉時代の道を歩く」の小野神社の件ですが、武蔵武士の中で横山党は鎌倉政権樹立に大きく貢献しましたが、八王子市を中心に拠点をはっていました。その小野神社は小野篁を祭る神社とのことですが、横山党の祖先は、この小野篁です。ですから多分その小野神社は横山党または小野氏の一族に関係する神社ではないでしょうか。

また、同じ文章の中に、小山田氏がその地を支配しており、五輪塔も見つかっているようですね。小山田氏は横山党ではありませんが、横山氏とも関係が深く、町田市大泉寺に小山田氏の供養塔があります。

ですから、小野神社は横山氏または小野氏に関係となるのですが、町田市八王子市は近場ですので、当然なのでしょうが、横山氏または小野氏の誰がいたかの伝承が残っていないでしょうか。大変お手数ですが、おわかりになりましたらお教えいただければと存じます。

武蔵武士は昔から研究されているようですが、その一族は全国に散っており、その研究はむしろ始まったというところです。地元に残っていない武士が多いのです。多分これは相模武士も同じではないでしょうか。相模国内の遺跡などは研究されているのでしょうが、それがどこへ行き、どんな活躍をしたり、その軌跡は意外になされていないのです。以上

ゲンボー先生

山本様、メールをありがとうございました。

ご存じのように小山田氏は桓武平氏秩父流、小野氏は横山党・猪俣党に分流を設けました。 八王子・町田は近隣ですが家系の上で両者が交わることは無かったようです。もっともこれは記録上のことなので何とも言えません。

(ここから訂正して加筆します)小山田有重の妻「一の御前」は横山党であり、そのために横山党の祖である小野篁を祀った神社を建立したものと思われます。一の御前は現在の山梨県都留市に領地を持っていいたため、有重の子「行重」が母の遺領を継いで甲斐小山田氏の祖になりました。以下を訂正します。(赤字部分)

小山田氏は有重の時に三郎重成が稲毛氏に分流します。稲毛氏は川崎市に勢力を持つ大豪族に発展しましたが、小野路は小山田領から稲毛領に抜ける道沿いの地域で、当時としては交通量の多い道沿いに小野神社を建てたのでしょう。

小山田城と称される砦跡には小町井戸と称する今も水を湧出する湧き水があります。これはおそらく城(砦)の生活用水として使われていたものでしょうが、目を患った小野小町がここに籠もり目を洗ったところ治ったという言いつたえが残っています。言いつたえ自体は小野神社に関連した江戸時代頃のものだと思いますが、小野氏に関する言い伝えがあるのもこうした理由からかと思われます。

私はホームページ上に篁が来たどうかは定かでないと書きましたが、それは東北地方にまで及ぶ篁と小町伝説にケチを付けたくなかったからで、実際にはあの時期に小町や篁が来るわけがない(笑)・・・しかし、おそらく小山田有重の妻「一の御前」が勧請したものであることは間違いないでしょう。

一つ思いだしたことがあったのですが・・川崎市麻生区の黒川には「汁守神社」という社があり、隣の町田市真光寺には「飯守神社」という社があります。現在の行政区分は川崎市と町田市に分かれていますが、それ以前は南多摩郡として同じ地域でした。土地の年寄りたちは「子供の頃は一緒の学校だった」と言っています。小野路は小山田庄のはずれに位置し、地勢的にはどちらかと言えば真光寺などの稲毛領に属するといってもおかしくない位置にあります。谷戸を抜け丘陵を一つ超えれば真光寺・黒川という旧稲毛庄です。

これは飯守神社の氏子が酒盛りしているときに聞いたのですが(笑)神社には言い伝えがあって、「汁守」「飯守」ともう一つ「菜守」という社がありこれらは大國魂神社祭神の「汁」「飯」「菜」だったいうのです。しかし菜守神社だけはどこにあったかが分かっていないとのことでした。私の感ですがこれら三つの社は地理的に稲毛氏と関連がありそうです。

武蔵国総社である府中市の大国魂神社には小野大神(小野路の)も祀られていることから、小野路の小野神社が大國魂神社と深く関わっていてもおかしくありません。「汁守」「飯守」「菜守」と小野神社との関係にも捨てがたいものがあります・・・なにか小説が書けそうな気配がしてきましたね(笑)・・山本様は稲毛氏と横山氏の関係についてなにかご存じのことはありますか?

それにしても菜守神社どこにあったのか?面白いですね・・・・探してみたいですね・・・(笑)

山本様も書かれているように東国武士は「さすらいの武士」です・・地頭に任命されて西国に単身赴任したり、地元武士や庄司との軋轢もあったし・・大変でしたね・・・今と大して変わらない・・(笑)答えがヘンな方向になってしまって申し訳ありません・・・

ゲンボー先生


こんにちわ。大学生の深佳です。メールに答えていくというやり方が、ピンポイントで学習できるからとてもいいですね。

私は詩吟をしているのですが、静御前のうたを吟じることになっています。それで静御前について調べているのですが、より彼女を知るためには時代背景を知ることも大切だと思っています。それで、当時の女性や白拍子の基本的な性格や、女性がどのような立場に立っていたのかということを調べています。静の強さは、当時の人々にどのように思われていたのか。そういったことについて何かご存知でしたら、ぜひ解答をお願いします。

ゲンボー先生

深佳さんメールをありがとう。

政治や戦が男性中心だったために女性の名前はさほど残っていませんが、当時男女は同等の立場にありました。このことは後に作られた「御成敗式目」を読めばすぐに分かります。また、婚姻形態が「婿入り婚」ですから、男性は女性の家で養ってもらっていたというわけです・・・あの藤原道長だって奥さんの家に住んでいたのですよ・・・

さてそうした時代の白拍子ですが、実は静の母「磯禅師」が、男装した女性の舞を始めて殿中で披露した最初の白拍子と言われています。唄や舞は必須ですが打てば響くような受け答えも出来なくてはなりません。もちろん美貌も・・・つまり静の母は美貌と教養を身につけていた女流文化人というわけです。

静はその母の美貌と教養と舞の技を受けつぎ、後白河法皇の前で雨乞いの舞を披露し「日本一」の賞賛を受けています。

鶴岡八幡宮での舞は、居並ぶ板東武者がその優雅さに驚嘆し賞賛したと吾妻鏡に書かれています。美しかったのでしょう・・・また、頼朝の前で義経を思う気持ちを舞に託すなど「意志の強さ」も感じ取れます。彼女は白拍子という自分の地位に誇りを持っていたと思います。そこいらの男よりはるかに頭も良く教養もあったからです・・・

今日でしたら名舞踊家・文化人として生きていくことは出来たのでしょう・・しかし謀反人となった義経の庇護もなく財産もなくなった静は、一庶民として命を果てました・・・だからいまだに語り継がれているのですが・・・

白拍子のその後ですが・・というより白拍子が広まったころから男性の酌をしたり売春を主にする者も現れたため、白拍子そのものの社会的地位は低くなりました・・・今で言うところの酌婦です・・・


大学1年生の陽子です。

今「雨月物語」について勉強していて、その講義で“「すれ違う心」をテーマに怪談を創作しなさい(800字程度)”という課題が出ました。雨月物語について調べてみると、雨月物語(読本)は舞台が必ず過去で、読み手の知識を試すかのように時代背景もきちんとしている、ということがわかりました。

そこで私は時代を鎌倉に設定して、庶民の女と位の高い武士か貴族の男が許されぬ恋をしている⇒女は夜待ち合わせ場所(桃の木の側)で男を待っているが男がやってこない⇒男は丁度1年前、同じ場所で女を待っていたが女はついに来なかった⇒男は自分が振られたのだと悲しみにくれるがやがて別の女を愛するようになる⇒実は女は1年前に死んでいた⇒つまり女は死んでもなお、男に会いたい思いが強かったので会いに行ってしまったというストーリーにしようと思っています。(場所は鎌倉にしようとはあまり思っていません)

前置きが長くなりましたがここで質問です。

1、庶民の女と位の高い武士か貴族の男の恋は可能でしょうか?(接点を持つことがあったのでしょうか?)

2、平安時代の貴族は男が女の家に通っていますが、鎌倉時代もやはり通いだったのでしょうか?「待ち合わせ」というのはありですか?

おもいっきり課題のための質問で申し訳ないのですが、調べてみてもあまり細かいところまでは分からず、でも物語を作るうえでどうしても知っておきたかったので「ここならきっと答えを得られるはず!!」と思い質問してしまいました。すいません(^−^;)よろしければ回答お願いします。

ゲンボー先生

陽子さんメールをありがとう・・もう寝ようと思ったのですが面白い質問なので目が覚めました(笑)

1.今昔物語にも身分低き女性と高位の男性との恋が語られているように、どの時代にもそれは「あり」です。しかしこの場合条件として女性が「美人」であることは絶対にはずせません・・(苦笑)そうでないと物語として残らない(笑)

ちょっと下卑た表現に「一盗二卑」というのがあるのをご存じですか?「他人の女を横取りする・・当然人妻も」が一番スリルがあってイイ・・(笑)次に身分卑しき女を「もの」にするのもイイ・・というちょっと身勝手な男の願望です・・ところがこれは世界共通・・ 男と女の関係には「立場や身分なんか関係ない・・・」というのが本音でしかも現実です。義経の側室だった静御前なんかも身分卑しきものの範疇に属します・・が、静はその母とともに「教養」「舞の技」が抜群でしかも「美貌」だったために、ちょっと別格かもしれません。

2.鎌倉時代も京都あたりでは「婿入り婚」もしくは「妻問婚」です・・つまり女性の家で養ってもらうか通い婚ですね・・しかし、関東あたりでは嫁入り婚が増えています。先生のホームページにもあるように北条政子は嫁入り婚です・・しかし旦那の頼朝は妻問婚を実践していた(笑)彼はやはり京都育ちのお坊ちゃんなのです。

男と女の待ち合わせ・・ありますよ・・吾妻鏡にも似たようなことが書かれている・・それどころか御成敗式目の第三四条には「不義密通の禁止」だって書かれている。法律になるくらいだから「た〜〜〜くさん、あった」ということに他なりません。密通以外に身分を超えた恋も当然あった・・・上にも書いたように男女の関係は立場や身分なんか超えちゃうんだなあ・・これが・・(笑)(御成敗式目のページ)

なんてことを書くと「ゲンボー先生というのは不謹慎なヤツ」と思われるでしょうが、事実なんだから許してもらう以外しょうがありません。・・ようするに今と同じなんです・・(笑)人間は生きている時代や話す言葉や着ているものが違っても行動のパターンは同じ・・・・進歩が無いと言えばそれまでですが、それがパワーになって人類が繁栄している訳なんですね・・文化だってそういうものからたくさん生まれているでしょ・・源氏物語なんてその最たるものです。

君の質問は高位の男性と身分卑しき女性との「かなわぬ恋」・・というどちらかというと「清純」な感じだったのに、ゲンボー先生はオジサンなもんだからついつい「不義密通」などという赤裸々方向に話がいってしまいました。(苦笑)

君が構想を練ったお話、 結末はどうなるのですか?・・お話ができたら先生にもぜひ送ってください。

ゲンボー先生


中学校社会科教師をしている青谷と申します。「地頭」のひらがな表記について、質問です。教科書、各種参考書など、文献を確認したのですが、みな、「じとう」というひらがな表記になっております。しかしながら、地=ち、と考えると「ぢとう」の方が納得いくのですが、なぜ「じどう」なのでしょうか?歴史的仮名遣いということで、生徒には「覚えろ」で、終わらせてしまいたくないので、教えていただけると助かります。

ゲンボー先生

青谷先生、メールをありがとうございました。

先生のおっしゃるとおり(地=ち)ですから本来は「ぢとう」が正しい表記です・・が昭和31年の国語審議会報告「正書法について」では、 「じ・ぢ」「ず・づ」の使い分けのうち、現代語の意識で二語に分解しにくい語については「じ」「ず」を用いることを本則としているため、現代では「じとう」が正しい表記と言うことになっています。ちなみに、国史大事典でも「じとう」となっています。

しかし、本によっては「じとう」(ぢとう)と二つの表記を並べているところもあります・・歴史的仮名遣いは本来の表記「ぢとう」でいくべきと私も思います。・・・難しい問題ですね・・

ゲンボー先生

ゲンボー先生 こんにちは。青谷です。丁寧な回答をいただきましてありがとうございます。

この件については、教科書会社にメール確認をさせてもらっておりました。その返信が、以下のようになっております。

・・・・・・・・教科書会社見解(部分)・・・・・・・・

さて,ご質問をいただきました「地頭」の読みについて,ご回答申し上げます。社会科をふくむ,弊社の教科書の表記につきましては,公用文の表記に準じております。

この公用文の表記につきましては,昭和61年7月1日の内閣告示(および内閣訓令)で「現代仮名遣い」の基準が示され,そのなかでは,「ぢ」「づ」の音につきましては, 原則として「じ」「ず」で表記をするとされ,以下の二つの場合は,例外的に「ぢ」「づ」の表記をすることとしております。

(1)同音の連呼によって生じた「ぢ」「づ」

 【例】ちぢみ(縮),つづみ(鼓),つづく(続く),つづる(綴る) など

(2)二語の連合によって,あとの語が濁ることによって生じた「ぢ」「づ」

 【例】はなぢ(鼻血=鼻+血),たけづつ(竹筒=竹+筒),こづれ(子連れ=子+連れ) など

なお,上記のAの原則では,「稲妻(稲+妻)」,「杯(酒+坏)」のように,語源的な面では二語の連合ではあるが,現代語の意識では一般に二語に分解しにくいものについては,「じ」「ず」を用いることを本則とし,「ぢ」「づ」の表記も許容するとされております。一方で,小・中学校で学習する漢字(常用漢字)につきましては,昭和56年10月1日の内閣告示で,常用漢字の読み(音訓)が示されており,このなかでは,「地」の読みとして,「ち」と並んで「じ」という読みが示されております。

ご質問をいただきました「地頭」につきましては,現代仮名遣いに則るという点,加えて上記の(1),(2)の条件には該当しないという点,また,常用漢字の音訓に準じるという点から,「ぢとう」ではなく,「じとう」と表記しております。以上,簡単ではございますが,ご質問につきましての回答とさせていただきます。

ゲンボー先生

青谷先生、教科書会社の見解ありがとうございました。私にも参考になりました(笑)

私のページには年齢を超えて質問がやってきます。大人の場合はむずかしい言い回しや漢字をそのまま使うことができますが、小学生となるとそうもいきません・・・「歴史的用語」については本来使用されている漢字や仮名を使うのが好ましいと私も思っていますが、そのような場合は簡単な用語に換えて説明してあります。中学生というとちょうどその中間ぐらい・・漢字も比較的自由に使えるし理解も出来る・・

受験勉強の必要がなくなった大学生ならどんどん使えるのですが・・(笑)

でも、私は思うのですが青谷先生の思いは子供達のどこかにしまわれて、形は変わってもいつか必ず実を結ぶと思います。私も以前中学校で歴史を教えていましたが、卒業生とたまに会うと「あのとき先生はこう言った」とか「今になって言っていることが分かった」などということもしばしばあります。自信を持って正しい表記も教えてあげたらいかがでしょうか。ご活躍お祈りいたしております。

ゲンボー先生


ホームページを非常に興味を持って拝見しています。社会人の目黒と申します。逗子に生まれ育ったもので鎌倉時代に興味があります。

質問は、北条氏や三浦氏が最初に動員できる兵力というのはせいぜい数百人だったようですが、頼朝公に地頭などに任命されることで実力を養っていき、承久の乱の頃には万単位の兵力を持つに至ったのだと想像します。しかし、最初に(本領とは別の場所の)地頭に任命されたといっても、全国各地の現地の人間はそんな簡単に承服するものなのでしょうか?鎌倉殿から派遣された守護、地頭に対する反乱のようなものは生じなかったのでしょうか?また、全国に散らばる自分の領地の人間を兵として召集するにしても非常に時間がかかるように思うのですが、承久の乱のときのように短時間で何十万の大軍を組織することはどのようにして可能だったのでしょうか?

ゲンボー先生

目黒様、メールをありがとうございました。

そのとおりです・・・東国はもともと頼朝の基盤ですが新しく手に入れた西国は朝廷側の影響力が強く、しかも庄司や下司(武士)の独立心が非常に強い地域でもありました。そのために新たに任命された地頭や守護との摩擦も多く、六波羅探題には「守護が横暴だ」とか「地頭をかえろ」などの訴訟が多く持ち込まれています。

この傾向は後々まで続き、楠木正成に代表されるような畿内勢力が幕府打倒の大きな力になっていくのです。承久の乱で動員された武士のほとんどは「東国・東北武士団」でそれに中部・北陸の武士が進軍と供に加わり大きくなりました。このことをより理解するためには地域による武士団の特色と違いを把握する必要がありますが、それはとりもなおさず「社会の成熟度」や「経済のあり方」の反映でもあるわけです。開拓地の東国とすでに開発が済み農業技術や経済の発達した近畿・中国地方とでは農民や武士のあり方も大きく異なっています。比較的独立心の強い近畿・中国の武士にくらべて主従関係の結束が堅かった東国武士団は幕府(侍所)の命令系統も伝達経路も効率的で早く動員することが可能でした。(※九州には東国と同じように比較的大きな武士団が存在しています。一度は敗れた足利尊氏が九州で体制を整え直すことができたのはそうした理由です。)

畿内・北陸の一部・中国の一部は水利も発達し、農機具の改良や肥料の使用など農業の発達が進み二毛作もおこなわれています。しかも人口が多く都市も発達しているため、農作物は商品化しやすく、農民自身にも商人的素養が身に付いていました。(もちろん一定以上の農民ですよ)ですから武士化した彼らは「自らの権利」を守る意識が強く独立心も強かったのです。そこに字も満足に読めないような野蛮?(笑)な東国武士が守護や地頭としてくれば、排除しようとするのは当然の成り行きです。幕府もこうした在地武士の存在を無視するわけにも行かず、しばしば彼ら関西の武士が勝訴しています。

ゲンボー先生


高瀬と申します。子どもの質問コーナーに教員である私が質問することはルール違反かもしれません。申し訳ありません。不勉強なもので,教えてもらいたいことがありメールを送らせていただきました。

元寇のことなのですが,文永の役後,元軍の強さを知った九州地方の御家人の中には,恩賞が少なかったり,もらえなかったりして戦意を喪失し,その後の幕府からの命令に従わず,防塁を造らなかったり,公安の役にも参加しなかった者もいたのではないかと思います。幕府への忠誠心よりも自分の領地を守ることに重点を置いていたならば,リスクを冒して戦うことよりも,力を温存しようと思う武士もいたのではないかと思います。

いろいろと調べているのですが,そのような根拠を示す史料を見付けられず,困っていたらこのホームページを見付けました。とてもわかりやすくてためになる史料の数々に先生の教材研究の深さがうかがえ,社会科を中心に研修させていただいている一人としてただただ尊敬するばかりです。そこで,先生ならもしかしてご存じかもしれないと思い,メールを送った次第です。お忙しいとは思いますが,もしお時間に余裕がございましたらおしえてください。どうぞ,よろしくお願いします。

ゲンボー先生

高瀬先生、メールをありがとうございます。

学校の先生はもちろん、予備校の先生からも質問がきます。「いつでも」「どこでも」「だれでも」がコンセプトの学習ページです。

当時の武士たちには「国益」とか「国難」といった感覚は持っていませんでした。あるのは「一所懸命の地を守る」または「得る」です。

ですから文永の役では戦況不利にもかかわらず武士は勇猛果敢に戦いました・・組織的に動く大軍に単身一騎でつっこんでいったのです。蒙古襲来絵図で有名な竹崎季長もそうした武士の一人でした。彼の場合は「無足御家人」と言って土地を持たない御家人と言うことになります。元寇の頃にはすでに分割相続が進行しており、季長のような武士は日本中至るところにいました・・

蒙古からの攻撃はそんな彼らにとって千載一遇のチャンスでもあったわけです。軍令を無視したということで恩賞がなかった季長にとって鎌倉行きは元軍との戦いと同じレベルの戦いでもあったわけです。

さて弘安の役ですが先生がおっしゃるように、武士はだいぶ客観的に次の元寇を受け止めています。敵の戦法が自分たちと大きく違うこと、そのために防塁を築かなければならないこと、ある程度の組織的な動きをしなくてはならないこと(もっとも違反者続出で単騎でつっこむ者、夜襲をかける者・・数限りなくあったようです)。そしてそれと同時に「見返り」との天秤もかけました。

土地をやるぞと言えば元側にもつきかねない考えを持つ当時の武士ですから、中にはリスクを回避したり分散した者も当然いたはずです。もっともこのころになると「残忍なムクリ」(ムクリ=蒙古のこと)に対しての敵愾心を募らせる者や、敵国降伏を祈る者も多く現れましたから全体としては元に対して戦うテンションをあげていたと思います。

石築地役は逃れられない課役ですから、これを行わないご家人はいなかったと思います。なぜなら「やる」「やらない」の証拠が残ってしまうからで、戦の時に手を抜くのとはチョットちがいますね(笑)もっとも弘安の役ではあまり戦う場面がなかったと思います。なにせ暴風雨のあと目が覚めたら海面に死屍累々の状態ですから・・・

鎌倉時代の武士は独立心が強く、客観的に情勢判断を行っている形跡が随所に受け止められます。親子兄弟で分かれて戦うのもその一例です。生き残った方が助命嘆願をするのは常識で、そうならなくても家は残る・・・領地は安堵されるわけです。頼朝を追いつめた大庭景親ですら兄貴は頼朝側だった・・

「昨日の友は今日の敵」という言葉は戦国時代まで続きますが、鎌倉時代のある有力豪族などは「恩こそ主君よ」と豪語しています。本領安堵・新恩給与さえあれば主人は誰でも良い・・また、自分の命と家をあずけるのに「能力のない」あるいは「勝ち目のない」大将につくのは下の下の行いだとも言っています。

これらのことは江戸時代を通過した現代人にとっては違和感があるものですが、一歩外に出れば今日でも世界の常識ともいえるものです。

サラリーマン化し、しがらみにがんじがらめになった江戸時代の武士が日本の武士の姿を正しく現しているかと言えばそうではありません。主君に忠誠を尽くす姿は美しいかもしれませんが、それらは徳川家や徳川家の作った封建制度に都合良く乗っかった諸大名のご都合の結果ともいえるものです。

女性の権利が狭められ低い地位になったのも、主人に対して絶対の忠誠を尽くさなければならなくなったのも江戸時代の産物で、長い日本の歴史の上では実はマイナーです。今日の我々はその影響を今だに受けている存在ともいえます。最もそれがよいか悪いかは価値観の受け止め方の問題ですが・・・少なくとも鎌倉武士の感覚を持っていれば第二次大戦であんな無様な負け方はしていなかったと思います。「うちてしやまん」「一億玉砕」など鎌倉武士にはとうてい受け入れられない思想だったでしょう・・・もちろん現代サラリーマンの「サービス残業」も「過労死」もあり得ません(苦笑)

我々はもっと鎌倉時代、あるいは戦国時代の武士の生き様に学ばなければならいと思っています・・・

本題に戻りますが、ご質問のように「手を抜く」武士、あるいは「客観的判断」で行動する武士は当然のこととしていたでしょうね・・特に西日本ではそうした傾向は強かったと思います。また、そうした人間の記録がないと言うのも古今東西おなじですなあ・・・(笑)

ご不審な点があればまたメールをください。

ゲンボー先生

ゲンボー先生へ

高瀬です。

元寇時に戦わないことを選択した鎌倉武士について質問した者です。膨大な質問にお答えしている先生の,迅速かつ詳細なご回答にただただ感謝です。本当にありがとうございました。

鎌倉武士と江戸時代の武士の違いがよく分かりました。私自身,今の学校では江戸時代の武士のように,過ごしています。(笑)独立心と判断力を鎌倉武士から学ばねばなりません。同時に,子ども達にも,種々の情報を選択し,何が大切かを判断する力を身に付けさせなくてはいけないと思いました。そのような授業をこれからもめざしていきたいと思います。これからも,先生のホームページを参考に授業づくりをがんばっていきたいと思います。お忙しい毎日でしょうが,どうぞお体に気をつけてお気を付けください。


はじめまして。私は茨城在住の会社員・なちこともうします。大河の「義経」で鎌倉時代(頼朝の時代)に興味を持ち、よく先生のHPを参考にさせていただいてます。どの参考書よりも分かりやすくてとても勉強になります。

しかし、先生のHPや本などで調べてもどうしても分からない事があるので、質問させていただきました。まず、お寺などを作る宮大工について教えてください。

(1)当時の大工の服装はどのようなものだったのでしょうか?やはり褌一丁なんですか(笑)

(2)鎌倉時代に有名だった大工など、名前が残っている方などいるのでしょうか?

あと、大工とは関係ないのですが、

(1)鎌倉時代にもだんご屋のような茶屋(?)はあったのでしょうか?調べてみると室町まで串だんごの歴史は遡る事が出来たのですが、鎌倉時代にはどんな『だんご』があったのか気になりました。(2)また『お茶』も鎌倉時代の頃は貴重なものとありました。庶民が飲む飲み物は『水』『酒』以外なかったのでしょうか?

お忙しいと思いますがよろしくお願いします。

ゲンボー先生

 

なちこ様 メールをありがとうございました。さて、ご質問にお答えしますが資料が少ないので曖昧な部分もあります・・ご容赦ください

1.宮大工の服装ですが、今も昔も誇り高き大工ですから褌一丁と言うことはありません。ちゃんと着ていましたよ・・・松崎天神縁起絵巻(鎌倉時代後期)の絵を見ますと、総監督として役人が描かれ、かれは水干に袴をはいて図面を見ながら建築状況を確認しています。ちかくに大工(棟梁)がいて曲尺(かねじゃく、鎌倉時代はまがりじゃく=現代のものと同じ曲尺)と間尺(けんじゃく=一間をはかる木製の物差し」を持って指図をしています。それ以外の者は上半身をはだけたり、袴をたくし上げて動きやすくしています。さらに下等の運搬人は・・これは褌一丁です・・(笑)今日言う大工は番匠(ばんしょう)とよばれ、大工・小工・引頭・連と分かれています。当然大工とは棟梁のことでもあるのです・・今のプレハブ住宅をノリとくぎで組み立てる大工とは技術も地位もず〜っと上です(笑)宮大工の名前・・ゴメンナサイこれは分かりません・・

2.おっしゃるとおり団子は室町時代から見られるものです・・では、その前はといいますと「月見団子」のようなものはありました。つまり串に刺す前のバラバラ状態・・原料は「うるち米」です・・皿に盛り上げる形の絵が残っています。・・それとは別に小麦粉を原料とする饅頭もありました。これは「むしもち」とよばれています。

時代は少し新しくなりますが女性が道ばたで餅とむしもちを売っている図があります。餅は白い丸餅、原料はもち米・・これは現代とほぼ同じ。むしもちは頭の部分に紅が塗ってあり、十字の切り込みや線が描かれています。よって「むしもち」のことを漢字で書くと「十字」になります。これは発酵促進や魔よけのためです。味付けはどうしていたのでしょうね・・砂糖は貴重品だし・・・饅頭の中にあんこが入るのはず〜〜〜っとあとの江戸時代になってからですし・・・

3.庶民の飲み物は「水」もしくは「白湯」です・・病気や暑気払いの時には白湯にショウガを入れたりもしたようですが一般的ではありません・・・また、お茶が飲めるようになるのは江戸時代です・・お茶は高級な飲み物でしたが、江戸時代には急速に庶民に広まりました。それは農家での茶の栽培が増えたからです。一昔前の田園風景にお茶はつきものでした。畑と畑の間とか垣根とか・・・江戸時代の農民を縛り付けた「慶安の触書」には「農民は茶を飲むな」と書いてありますが、書かなければならないほど飲んでいたということです(笑)元に戻ります。それまでにも茶に触れる機会のあった人は飲むことがあったという程度で、中世ではごくごく一部でしか飲まれていないものです。だから、戦国時代に茶の湯がもてはやされたとも言えるのです、たった一杯のお茶を飲むのにあれだけの作法を取り入れて、精神世界の飲み物にしてしまった利休はスゴイ男だと思います。

4.茶屋ではありませんが、街道沿いや市中に団子や餅、あるいはとれた魚などを調理して出す店はありました。東海道五十三次の原型は鎌倉時代にできますが、旅籠や料理店は早速できます・・しかもその半分は遊女をおいていたと言うからスゴイ!・・鎌倉時代といえども人間のやることは同じなんだなあと思います・・(笑)義朝の長男、悪源太義平は三浦氏との間にできた子とも、そうした遊女との間にできた子とも言われています・・

ゲンボー先生


始めまして、大学生の片山というものです。大変わかりやすいホームページで、いつも楽しく拝見してます。鎌倉時代の武士の、和田義盛に興味を持ちまして、和田一族について少し調べてみたんですが、和田氏について教えてください。

1.義盛の子の、常盛はどういった人物だったのでしょうか。義経討伐に参加しているんでしょうか。常盛の息子の方が資料が多くて彼に関してはあまり見つかりません。

2.朝比奈三郎義秀の出生はいつごろなんでしょう。

お返事いただけたらとても助かります。

ゲンボー先生

片山さん、メールをありがとうございます。学会準備のため返事が遅くなりました。

常盛は義盛の嫡男で奥さんは多摩の横山党(八王子の豪族、小野氏)の娘です。和田合戦の時に和田氏側に援軍として参加する横山氏ですが、そのような結びつきがあったからというわけです。しかし、常盛さん自身のエピソードはあまり残っていません。弟の朝比奈三郎義秀や息子の朝盛に比べてやや影の薄い存在です。弟三郎義秀と馬をあらそったエピソードからは力のある大男で、しかも相手の機先を制する剛胆な性格が読み取れます。それは父義盛から受けついだものでしょう。しかも、和田氏の武人らしく弓の腕は確かで、将軍家の信頼も厚かったようです。また息子の朝盛は和歌を詠むのがうまく実朝からも信頼されていたとのことですから、常盛の家系は文武両道であったと言えます。和田合戦では父義盛討ち死にの後正面突破を試み、見事逃亡しますが甲斐の国で自害しました。常盛42歳

将軍実朝の寵愛を受けていた朝盛は和田合戦の際には父と将軍との板挟みに悩み出家し京に向かいます・・しかし、その後すぐに父義盛に引き戻され和田軍に組み込まれます。彼は法衣のまま戦ったと言われていますが、吾妻鏡を読む限り積極的に戦った様子が見られません。父常盛と同時に逃亡しますがその後一時行方が分からなくなります。吾妻鏡では貞應3年10月28日の記述で、阿波の国におきた領地争いの際に、片方の者が相手方は承久の乱の時に上皇側につき、あまつさえ和田新兵衛朝盛法師とともに戦ったと記されているところから、どうやら承久の乱で三浦胤義の陣中にいたらしいことが分かります。その後嘉禄3年6月14日に生け捕りにしたと記されています。

朝比奈三郎義秀の出生は定かではありませんが健保元年(1213)に38歳とありますので逆算すると安元2年(1176年)の生まれと考えられます。安房の朝夷郡に生まれ育ったので朝夷名三郎と称しました。なお、伝説によると母は木曽義仲の妾巴と言われていますが、木曽義仲が討たれ、巴が行方をくらますのが1184年ですからありえないことになります。

和田合戦の後安房へ渡って行方をくらませていますので、没年も不明です。

泳ぎが達者で力もあった好男子で、和田合戦の時は北条義時の息子朝時に手負いを負わせ、足利義氏を追い、武田五郎信光に戦いを挑んだが信光の息子(信忠)が父に代わって戦おうとしたのに感じ、信光を見逃したというエピソードが残っています。最後は五百騎の仲間と船で三浦氏の勢力圏である安房に逃げました。

権謀術数に長けた北条氏と、相模の大豪族三浦氏の狭間にあった実直な和田氏という感じがありありとわかる3人の結末です。

ゲンボー先生


社会人で、50歳を過ぎました。偶然見つけた先生のページ(回答)を楽しく読ませていただいております。歴史に興味を持っています。学校の授業より小さいころ祖父や父から寝物語で聞かされた英雄譚できっと好きになったのだと思います。

さて、質問ですが武家(武士)で従6位下右衛門少尉など、いわゆる官位を朝廷からもらった場合、実際に衛門府で仕事をしていたのですか?それとも名ばかりの名誉職だったのでしょうか?手当ては出たのでしょうか?「大河ドラマ」などで登場人物の名乗りを聞いているとカッコイイィと思うのですが、……さいたま市南区 小石

ゲンボー先生

小石様、メールをありがとうございます。

律令制が完全に崩壊した戦国期には武士が権威付けのために官位・官職をつけました。朝廷も自らの権威を守るために、武家の求めに応じて官位:官職を授与していましたが、実際上の支配権はなく全くの格付けでしかありません。したがって中には勝手に自分で官職を付ける者も出る始末で、信長の上総介はその良い例です。(笑)江戸時代になると官位・官職は幕府の推挙によって朝廷から授与されるように一元化されました。もちろん完全な名誉織です。

ご質問の右衛門府も同様です。

官位・官職の授与を一元化するといえば、その大もとは頼朝です。頼朝は武士が勝手に官位・官職をもらうことを禁じ、勝手にもらった者を処分しています。その中には弟義経も入っていて、このことが後に義経追討につながっていくわけです。

頼朝には東国武士の自立ということが大目的でしたから、こうした行為は到底許されるものではなかったわけです・・ということは、この時代の武家官位は名目ではなかったということになります。事実義経は「伊予守」に任じられ扶持されているのです。その上官位によっては免税の特典もあるわけで、武士にとっても大きなことがらでした。ただし、右衛門府のような京都における役職については代理を立てて「行ったときに顔を出す」程度で実務は行っていません。ただし・・・・ただしが続きますが訴訟とか戦のような場合は格付けがあったほうが後々有利なこともあるので、そういうときには皆さん自分の官位・官職をことさら強調しています・・何かの時に肩書きをちらつかすのは今も同じですね・・・・(笑)

官位官職は名誉職かという質問に対し、早速のご返事ありがとうございました。

先生のご回答を拝読しながら、頼朝が義経の任官程度のことになぜあれほど怒ったのか今まで疑問に感じていましたが、後白河法皇に擦り寄る勢力を一掃し、武士の世界をひとつにまとめたいという狙いがわかった気がします。やはり、義経は頼朝の敵ではなかったですね。さいたま市南区 小石 


はじめまして、千乃といいます。みんなの広場をはじめ、鎌倉時代の人物や生活の事など、すごく勉強になります。又、目を通していると、更なる興味が湧いてしまい、我慢できず質問メールを送らせて頂きました。

先生に質問したいのは、現代のちょっとした生活用品の事です。例えば、耳掻きや爪切り、歯磨きのブラシや鏡など。現代では当たり前にあって、でも、ないとちょっと不便かな?という生活小物。鎌倉時代ではどういったものが代用品(というか現代品のルーツと言うべきでしょうか?)だったのでしょうか? 歯ブラシなら指とか小枝かな?くらいの想像は付くのですが、あくまで想像に過ぎないので、実際はどうだったのか、とても気になります。爪切りは特に気になってしまって…ハサミの様な道具があったとは思えないので…。

くだらない質問かもしれませんが、ご存知でしたら是非教えて下さい。宜しくお願いします。

ゲンボー先生

千乃さん、メールをありがとうございます。

・歯ブラシは「柳の枝」ですね・・先端をたたいてそれで磨く。現在でも皇室が使っていると聞いています。塩をペースト替わりにするそうですが、鎌倉時代の庶民がそこまでやったかは不明です。

・爪切りは「はさみ」ですね・・和ばさみは奈良時代からあり、各地の遺跡から出土しています。私も小さいころお婆ちゃんが握り鋏(和ばさみ)で爪を切ってくれました。

・耳かきは・・・・平安時代の末期からあったようなのですが、一般に広まったのはおそらく鎌倉時代後期からだと思われます。戦国期ですが越前朝倉城址からは耳掻き付きの簪(かんざし)が出土しています。

おまけ・・・それ以外の生活用品

毛抜き・・ありますねえ・・かなり使っていたようで、日本各地から多くの出土例が報告されています。博多から発見された木棺内の化粧箱からは「毛抜き」の他「刷毛(はけ)」「筆」「櫛」「櫛払い(くしの汚れやシラミをこそぐための道具)」「鏡」「お歯黒壺」が納められていました。

トイレットペーパーはもちろんありません(笑)・・・・籌木(ちゅうぎ)という木のへらでこそぎとっていました。しかし籌木のない地域もあって、そそうしたところでは「縄」とか「葉っぱ」とか「手洗い」などがあったのではないかと考えられています。紙は貴重品でしたからそのようなことには使われませんでした。ですから、もしこの時代の人が現代のトイレに入っても紙は絶対に使わないでしょうね・・・ウオシュレットなら使うかなあ(笑)

履き物関係では、「下駄」「草履」「板金剛(芯板の入った草履」が見つかっています。扇子なども日常的に使われていたようです。

ゲンボー先生、こんばんは。先日標記の質問(耳掻きとか爪切りの)をしました、千乃です。

早いお返事ありがとうございました!道具に関しては、もちろん精度は違うかもしれませんが、現代とあまり変わらないものなのだな、と驚きました。逆に、現代では安価で簡単に手に入るトイレットペーパー代用品の実態が鎌倉時代でもそんなものとは……。TVか何かで、「昔は手だった」という様な内容を聞いた覚えはあったのですが、改めて知ると……ちょっと笑ってしまいます。

時代、時代の生活ぶりを調べるのにはまってしまいそうです!また何か知りたい事ができた際には、教えて頂ければ嬉しいです。楽しくてためになるお返事、本当にありがとうございました。千乃

日本の歴史教科書は政治が中心で庶民の生活はとても小さい扱いですね・・・本当はとても大切なことで、こうしたことが分かると時代が立体的に見えてくるのです。そういうことが分からない人たちがみんなでよってたかって歴史をのっぺらぼうの暗記科目にしてしまったのです・・・千乃さんの歴史に対する感覚と姿勢はとても大切です。いつでも質問してください。待っています。ゲンボー先生


こんにちは、北部高校に通っている永守と申します。個人的な好奇心からの質問なので、学校などの勉強とは一切関係ないのですが、鎌倉時代の「重陽の節句」はどのようにして行われていたのでしょうか?

調べてみると、日本で「重陽の節句」が栄えたのは平安初期から江戸時代だそうで、平安時代の貴族は、詩歌文章を作り、菊酒を下賜たり、また、菊の露と香りを吸わせたという着せ綿で身体を拭ったりしたということがわかりました。また一般大衆は栗のご飯を食べたりしたとわかりました。これだけのことがわかっても、その時代時代によっていくつか違いもあると思うのですが、よくわかりません。

無病息災を願う大切な行事だったと思うので、武士や農民もこの行事に参加していたと思うのですが…鎌倉時代の武士や農民も「重陽の節句」をどう過ごしたのでしょうか?一般大衆として、栗のご飯を食べただけだったのでしょうか? 何か他にも特別なことをしたのでしょうか?

先生の知っていることを教えていただけると嬉しいです。どうぞよろしくお願いします。

ゲンボー先生

永守さん、メールをありがとう。高校生というわりには随分と面白いことを質問してきますね(笑)

君も知っての通り重陽の節句は古代中国で始まった五節句の一つで、九という一番大きな陽の数字が重なることから最も重要な節句ということになっています。実際には太陰暦の初秋にあたりますので収穫の秋を祝う行事といえるでしょう。

日本に伝わってきたのは奈良時代ですが、宮中においては「宴」として行われていたようです。菊花の露をうつした真綿で顔を洗うとか、菊花を散らした酒杯を飲み干すなどの優雅な宴だったようです。

しかし、質実剛健を旨とする武士社会への浸透は今イチで鎌倉幕府では将軍に菊を献上する程度に簡素化されていたようです。武家社会ではどちらかというと「尚武」と同音の「菖蒲」の花を愛でることのほうが性に合っていたらしく、五月五日の端午の節句に菖蒲を浸したお酒を飲んだり、軒先に柊や菖蒲、あるいは蓬(よもぎ)の葉や魚の頭をかざって邪気を払い、子供の健やかな成長を祈りました。この風習は庶民にもだいぶ浸透していたようです。

吾妻鏡では重陽の節句を行ったことについては以下の4例しかありません。それ以外の年は鶴岡八幡宮の神事で鏑流馬などを催している記述になります。吾妻鏡には記載されていない年もありますが、140年間続いた鎌倉幕府の公式な記録に記載が4例しかないという事は「特別な日」ではないことを表しています。

吾妻鏡文治二年九月九日(1186)

重陽節を迎え、籐判官代邦通菊花を献る。(頼朝に)則ち南縣の流れを移し、北面の壺に栽えらる。芬芳(芳香のこと)境を得て、艶色籬に満つ。毎秋必ずこの花を進すべきの由、邦通に仰せらる。 また一紙を花枝に結び付く。御披覧の処、絶句の詩を載すと。

同文治三年九月九日(1187)

比企の尼の家の南庭に白菊開敷す。外に於いて未だこの事有らず。仍(も)って今日重陽を迎え、二品(政子のこと)並びに御台所彼の所に渡御す。義澄・遠元以下宿老の類御共に候す。御酒 宴終日に及び、剰え御贈物を献ると。

建仁元年 九月九日(1201)

廣元朝臣(大江広元)始めて行景を相具し御所に参る。行景(花田の狩衣、襖袴)先ず侍所に候ず。次いで召しに依って石壺に廻り、廂御所の簀子に参る。頃之左金吾(烏帽子、直衣)出御す。その後勧盃の儀有り。御盃を行景に給う。この間仰せられて云く、蹴鞠師範として召請するの処、適々重陽の日を迎え、始めて対面を遂ぐ。故に猶前庭の籬菊を以て盃に浮かべ、永く万年を契るべし。てえれば、行景盃に跪く。金吾(頼家)自ら銀劔を取りこれを與えしめ給う。

宝治元年九月九日(1247)

仰せに依って諸人菊を献ず。各々一首の和歌を副える所なり。悉く幕府北面の小庭に植えらると。 ?

以上ですが、分からないことがあったらまたメールをください。ゲンボー先生


いつだったか忘れましたが、鎌倉時代や室町時代ばかりではなく、その昔、貧しい人々の中には、人糞を食べて暮らさざるを得なかった人々が居たというNHKの歴史番組を見たことがあります。その様な有名な絵が残っていて、番組でも放送していましたが、なんと言う絵だったか忘れてしまいました。

昔は勿論トイレはなく、人々は通りの隅で用を足していたそうですが、特に飢饉のときは、乞食になってしまった人は、人が用を足すのを待っていて、脱糞するや否や食べたという記録が残っていると番組で説明していました。これらの絵や説明は何という絵や文書かお分かりでしたら教えて頂けると大変あり難いのですが。 鈴木 

ゲンボー先生

鈴木さん、メールをありがとうございました。

人糞を食べるですか・・・・・・・(苦笑)・・・明日をもしれぬ飢餓状態の時にもあったかどうか?江戸時代の記録には東北地方の飢饉の際に子供や屍肉を食べたという記録は残っていますが、そのような状況下ではウンチも出ないでしょう・・(笑)

しかも、鎌倉時代にも厠のように便所はありましたから、乞食が河原とか林の中ですることはあっても、道ばたでするというようなことはあまりないことです。私はその番組を見ていないので何とも言えませんが、随分と乱暴なお話しのように聞こえます。

本田勝一の「カナダエスキモー」の本の中では、常に飢えている状態のエスキモー犬が、あらそって人間のウンコを食べるというシーンが書いてありましたが・・

また、中国をはじめとするアジアの多くでは養豚の際に人糞をえさにしているということがありますが、日本に於いては仏教の普及によって明治時代になるまで本格的な養豚は行われていません。

日本のばあいは鎌倉時代後期から糞尿は肥料として使われるようになり、これによって生産性が飛躍的に向上しました。室町期になりますが、朝鮮の使者がそれを見聞し、大変優れた技術であると本国での普及にも努めるべきとの報告を行っています。これ以後我が国では糞尿は捨てるものではなく、貴重な肥料となるわけです。こうしたことから川に流す方式は衰退し、便所の糞壺に溜める方式が普及していきます。肥料として使われるようになってからは、糞尿が売買の対象になり、江戸時代には広く普及し農民が農産物との物々交換をしたりお金で買うようになりました。都市部では糞尿を専門に扱う業者も現れました。そうしたシステムは長く続き昭和20年代まで続いたのです。東京の西武線は東京市民の糞尿を近郊農村に運ぶという役割も担って作られた鉄道であることをご存じでしょうか・・・

ところが糞尿肥料には寄生虫や病原菌もあるため、不衛生であるということから昭和20年代後半より徐々に減り始め、都市部における糞尿売買も徐々になくなっていきました。逆に都市部に於いては糞尿はお金を払って処理してもらう厄介者になってしまったわけですね。今では水洗トイレが普及したために清掃車による汲み取りはあまり見られなくなりました。もっとも農村では昭和30年代まで自家制の糞尿肥料を用いていたところもあります。

人糞を食べている絵はあります。添付した餓鬼草子(草紙)です・・これは「現世で良い行いをすれば極楽、でなければこのように地獄」と庶民に分かりやすく説くために描かれた地獄草子とともに、餓鬼道を分かりやすく説明するために描かれたものです。つまり、餓鬼道に堕ちればこうなるぞ・・という脅しです・・ですからそこに描かれていると言うことは、一般の人々が「ありえないこと」と思うことなのであって、日常の・・いや、飢餓状態にあってもあり得ない事柄なのです。

このように、糞尿を肥料とすることや、餓鬼草子の意味合いから考えても人糞を食べると言うことは大変に非日常的なことがらであると言えます。


            人糞を食べている餓鬼(餓鬼草子より)

ところで、大変に面白いご質問でしたが、鈴木さんはどうしてこのようなことに興味を持たれたのですか?

ゲンボー先生


菅江真澄の「奥が浜・・・」や柳田国男氏の著書に、文治の頃津軽から神木を伐りだして都へ運んだとあります。未だ補のない時代かと思うのですが、製材して船の底へ積み込んだのでしょうか、それとも筏を組んで曳航したのでしょうか。また、どんな船を使ったのでしょうか。今で云う出稼ぎのようですが、季節風など利用して沿岸沿いを運行したのでしょうか。ご面倒でしょうが是非ご教授くださいますようお願い致します。(西田)

ゲンボー先生

西田様、メールをありがとうございました。

当時木材は南宋(後に元)への重要な輸出品にもなっており、日本各地で木が伐採されていました。有名な阿弖河庄(あてがわのしょう)の農民が領家である高野山に対して「私たちが領家のために山で木を伐採していると、地頭がやってきて畑に麦を蒔け・・さもなくば女子供の耳を切り落とし鼻を削ぐぞと脅します・・」という訴え状に見るとおり、農民が農閑期に山に入り木を伐採していることがよく分かります。これらの木は国内での需要をまかなうばかりか、木材が極端に不足していた南宋に大量輸出されていました。

1975年に発見された新安沈船は全長34メートルですから、南宋〜元の船では船内に積み込むことが十分に可能です。製材に関しては、もちろん当時も製材は行われていましたし、その方が商品的にも利益は大きいのですが、日本と南宋の長さの単位が異なっていますので、おそらく製材は南宋でされたと思われます。このことは国内においても言えることで、都市によって時代によって微妙に長さが異なるため、製材は買い主のいる土地で行われたと考えるのが常識的な判断です。

新安沈船は日本に向かう船でしたから船底にはバラストにもなる大量の銭(800万枚)が積まれていました。重たい木もそのように積まれたかもしれませんね・・場合によっては甲板にも積んだかもしれません。

しかし、国内の船はさほど大きくありません。しかもキールのない平底の船がほとんどですから船に積むことは危険です。当時の絵を見ますと、切り出された木材は筏に組んで河口まで運び出されていますから、海では波の状態や季節風を考慮して、そのまま船に曳航されて津々浦々に送られたと考えられます。

ゲンボー先生


福岡の高等学校 国語科 原

感心しながら中世に引き込まれるサイトです。ありがとうございます。敬服しながら拝見いたしました。

質問です。

「徒然草」第215段の時頼のエピソードについてです。使いの者が最明寺から、宣時の屋敷まで2度やってくるわけですが、現在の感覚ではどの道をどれ位の時間をかけてきたのでしょう。夜道をどのようにやってきたのでしょう。よろしくお願いいたします。

ゲンボー先生

原先生、メールをありがとうございました。皿についた味噌を舐めて酒を酌み交わしたという例のエピソードですね・・私も時頼の人柄が偲ばれるこの場面が好きです。

宣時が「最明寺入道」と読んでいるところから時頼の出家以後の話しでしょうね・・出家前ですと時頼の館は現在の宝戒寺あたりということになりますが、出家後ですから時頼の館は山ノ内ということになります。

問題は宣時の屋敷ですが、武蔵守になる前の若かりしころの話しですから、大仏氏の館があった小町付近と言うことになりそうです。宣時は歌人としても有名だった人ですから若いころからインテリジェンスがあった・・そのあたりが時頼のお気に入りだったのでしょう・・寂しさを紛らわすために彼と語り合いたかった・・・

小町口から最明寺までは約2キロ離れていますから徒歩ですと30分ほどでしょうか。吾妻鏡に記載されていればその日の天候や月齢が分かるのですが、徒然草の記述ではそれも不明です。したがって月明かりの状態は不明です。

しかし通常、夜間の往来には提灯が使われますのでこの時もおそらく提灯が使われたと推測されます。(鎌倉時代には既に提灯があります)

宣時の足取りとしては、大仏氏亭の目の前に幕府の役所があります(旧宇都宮辻子幕府跡)から、門を出たらすぐその左脇の辻子を通って若宮大路に出て、右に曲がり鶴岡八幡宮の入り口まで出たと思います。当時、若宮大路に面して館の門を作ることは禁止されており、両側には長い塀が続いていたと言われています。右側の壁が左側に比べて低く作られているのは、幕府の重要な建物を守るという軍事上の意味合いがあります。(ちなみに和田合戦の折和田氏が不利だったのはそのためとも言われています)

八幡宮の大鳥居にぶつかれば左に折れて巨福呂坂切り通しに向かいます。今も当時も寂しい道です・・・やがて建立されたばかりの建長寺山門を右手に見ながら坂を下れば、時頼の待つ山ノ内最明寺ということになります。

時頼の使いや宣時はそういう場面を往復したのだと思います。ちなみに使いは二人別々かもしれません・・・でないと最初の使いが戻ってからまた行くとなれば1時間半以上かかってしまうからです・・お酒を飲む人はそんなに長い時間は待てないものですから・・自分に置き換えた場合の話しですが・・(笑)

ゲンボー先生

原です。迅速詳細なご指導に深く敬服しております。研究授業にて参考にさせていただきます。

ありがとうございました。・・・・・本校地理歴史の職員にも自慢しておきます。今後ともよろしくお願い申しあげます。


兵庫県の小学校で教員をしています久後と申します。
質問内容
鎌倉時代の元服の条件・武士 ・農民にももしあったとしたら

現在、道徳で「大人の条件」という授業を作っています。
現在は20歳になると無条件に社会の中で大人として認められます。
フリーター・ニート、荒れる成人式などに視点をあて現代に必要な条件を考えさせたいと考えています。

その導入として、古代から日本には年齢に達しても元服するためには条件を提示していきたいのですが
鎌倉時代の元服の条件が分かりません。

元服の年齢は、10歳から16歳で平均は、13歳程度であったと調べています。
確かでしょうか?具体的な資料などがありましたら教えていただきたいです。

よろしくお願いいたします。

 

ゲンボー先生

久後先生
メールをありがとうございます。
元服は武士にも農民にもありました。というより武士の前身が農民ですから農民にあって当然と言うことになります。
先生がお調べになったように概ね13歳前後が多いようですが、皇族や貴族などでは即位など様々な要因から早めに行われることが多かったようです。
中世における元服は 前髪をそり落とし帽子をかぶります。これを加冠といい、鎌倉期は庶民武士を問わず「烏帽子」をつけました。一旦烏帽子を付けたら人前で外すことはまずありません。寝るときと風呂にはいるときぐらいでしょうか・・人前で烏帽子をはずすと言うことは今ならパンツを脱ぐことに匹敵します。烏帽子は成人の証というわけですね・・そういうわけで成人した男子のことを「冠者」とよびます。能や狂言に出てくるアレですね(笑)それ以前の子供は「童」です。

したがって烏帽子を付ける儀式は大変に重要で、皇室では式は必ず1月5日以前に行われ、その後の吉日に宴会が催されました。これが今日1月に行われる成人式のもとになっているわけです。
加冠役は「烏帽子親」といい、実の親以上に大切にされます。一般的に烏帽子親は高位のものが行い、鎌倉時代ですと多くの御家人が北条氏を烏帽子親にしています。
また、元服と同時に「諱」(いみな)が付けられます。これが本名になるわけですね・・それ以前は幼名です(〜丸とか〜郎)諱は目上の者だけがよべる名ですが、記録上に残る正式名称で、同時に位階が与えられます。多くのばあい名付け親は烏帽子親でもあるわけです。

つまり、元服して名と冠が与えられてはじめて人として一人前になるわけで、同時に大人としてのあらゆる権利を得ることになります。と、同時に義務も生じます。御家人でしたら家を継ぎ家来を養い、戦に出たり役所で働くわけですね・・戦に負ければ首も切り落とされるわけです・・・人質となった木曽義仲の息子「清水の冠者義高」が殺されたのは元服していたからです。頼朝の命が助かったのは異例中の異例・・・

先生の意と微妙に異なるようで申し訳ありませんが、昔は形から成人になっていったと言ってよいでしょう。しかし、元服したその瞬間から権利と義務が重くのしかかってきたというところが現代との一番の違いでしょうか・・ですから親は一所懸命に子供の教育や訓練をしたわけです。人前に出ても恥ずかしくない「礼儀・作法」戦に出れば殺されないよう、殺すようにの訓練・・・農民でしたら、土地を相続されたその時から耕し、種をまき育てて収穫するその技術・・・今より「生きていく」ことがもっと大変で真剣な時代だったと言えます。
このことを今の子供に分からせるのは大変です・・私は4人の子持ちで一番上が先日ようやく成人式を迎えました・・・しかし、どいつもこいつも「のほほ〜ん」としています・・(苦笑)

ご授業の成功をお祈りいたしております。

ゲンボー先生


栗原と申します。

日蓮大聖人のご遺文英訳にあたり、鎌倉時代に一般に栽培された芋、あるいは自然採取された芋はどのようなものか、知識がなく困っています。

日蓮大聖人が弘安5年あるいは弘安元年に身延山からご信者である静岡の上野郷の領主、南条七郎時光にあてて認められたとする
上野殿御返事(通称「春初御消息」)に御供養頂いた品々の明細があり「八木一俵・白塩一俵・十字三十枚・いも一俵給候了」とあります。
このなかの「いも」は今日のサトイモではないかと推測し、taroと訳そうと思いますが、確かなことがわかりません。
なにとぞ御指導を賜りたく、宜しくお願い申し上げます。   合掌

ゲンボー先生

栗原様、メールをありがとうございます。

御上人がおっしゃるとおり日本古来(縄文時代)からある芋には今日私達が「里芋」あるいは「海老芋」とよぶタロイモ系の芋と、「山芋」あるいは「自然薯」と呼ばれるヤムイモ系の二種があります。日蓮聖人が供養にいただいた芋がどちらであるかは季節や前後のいきさつ、あるいは原文を考察することによってこのどちらかに確定できるものと思います。

原文では「十字六十枚・清酒一筒・薯蕷五十本・柑子二十・串柿一連送り給び候ひ畢んぬ。法華経の御宝前にかざり進らせ候。」と「いも」の字が「薯」となっています。現代では里芋も山芋も馬鈴薯も薩摩芋も「芋」と「薯」を混用していますが、正確には「薯」は今日言うところの「山芋」(自然薯=じねんじょ)を指し、「芋」は里芋を指します。
供養された日にちが旧暦の正月3日というところも、一般的な収穫時期から考えると里芋の十月よりあとの山芋(自然薯)の収穫時期に近く山芋(自然薯)の可能性が高い。またリストの中にある「十字」(蒸し餅)は、私が以前考察した限りでは発酵に酒麹、もしくは山芋を使った可能性があり、この点からも山芋(自然薯)の可能性が高いと言えます。

更に決定的なのは上記の通り「薯蕷五十本」と書いてあることです。個ではなく本です・・
これらのことから日蓮聖人が供養されたのは「里芋」ではなく「山芋」(自然薯)つまり、TaroではなくYamであったと考えられます。

これでよろしいでしょうか?ご不明な点がありましたらまたメールをください。

ゲンボー先生

玉川学園 Genbow先生

さっそく詳細なご返事を賜り、感激致しております。
yamの可能性が高いとのご指摘、衷心より感謝申し上げます。
更に重ねて日蓮大聖人が御供養を受けたイモについてお尋ね申し上げます。

先生が引かれました明細は、弘安三年の正月に南条時光氏が供養した品々と
拝察します。小生が当面している御遺文は昭和定本で弘安5年1282の正月と
される(他の目録では弘安元年との説も・真蹟は現存しません)上野殿御返事で、
通称「春初御消息」と呼ばれるものです。

上野郷は身延山に近いこともあってか、南条氏はしばしば御供養を
届けた記録がありますが、そのなかでイモが多いことは既に指摘され、
身延山御隠棲当時の大聖人様の食生活が想像されます。

日蓮大聖人が南条氏にあてた御遺文は、正篇収録50篇
(真蹟25篇、曾存1篇、日興写本12篇、写本12篇)あるそうで、
50篇中のイモの表記を拾うと以下のとおりです。
文永11年11月 薯蕷一籠
建治元年5月   ほし芋一駄
建治2年正月   芋一駄
同        山芋七本
同   3月   芋頭
同   9月   芋頭一駄
同  12月   芋頭一駄
建治3年5月   芋頭一駄
建治4年2月   芋頭
弘安元年4月   芋一駄
同 閏10月   芋頭一駄
弘安2年正月   薯蕷五本
同   8月   芋頭一俵
弘安3年正月   薯蕷五十本
同   9月   芋一駄
同  12月   芋一駄
同   同月   芋一駄
弘安4年3月   芋一駄
同   同月  芋頭一駄
同  11月  洗芋一俵
弘安5年正月   芋一俵
以上合計21回のうち、薯蕷3回、ほし芋1回、洗芋1回、山芋1回、
芋頭8回、芋7回となります。ここで容器(あるいは分量?)として
籠、駄、俵の字が眼をひきます。

「春初御消息」には、小生は写本を参照することができませんが、
手元にある御遺文全集で見る限り、昭和定本と霊艮閣版はともに
「いも一俵」とひらがな表記であり、昭和新修は「芋一俵」と漢字が
あてられています。平成新修にはこの御遺文は収録されていません。

以上を考慮して「いも一俵」の訳語としてone straw bag of yam
かと思いますが、「俵」に入れていることと、サトイモが圧倒的に
多いようなので、ここはやはりtaroの可能性も捨てきれないものか
と思案します。また、籠、駄、俵といった単位の相違がわかりません。
「俵」とは今日我々が眼にするような俵でしょうか。以上、なにとぞ
御教示頂くださいますよう、お願い申し上げます。     合掌

栗原

ゲンボー先生

栗原様

こんばんは。今日は良い天気でしたので小田原城下の発掘現場を見に行ってきました。家老の屋敷跡の下から後北條時代の道や家並みが出てきています。江戸期の大震災の痕も残っており興味深い調査でした。

さて、申し訳ありません。弘安5年正月の御遺文の表記が「芋一俵」と書いてあるとすれば、それは紛れもなく「里芋」です。里芋は東南アジアを原産とし、古くは毒があった芋ですが、長い間の人々の努力によって広く食用にされてきた芋です。台湾ヤミ族の村にはまだその名残の芋が残っているそうです。その里芋ですが日本にやってきたのはいつのころか分かっていませんが、おそらく縄文時代の前期にはあったのではないかと考えられています。山の薯(yam)は自然薯で、里の栽培種(taro)は里芋とよばれるようになりました。薯・芋は長い間日本人の主食だったというわけです。今日でもなお「お雑煮」のなかに里芋が入るのはその名残といわれています。

さて、度量衡ですが近世以前は時期や地域によってまちまちで、室町時代の東大寺では油を量る升が30種類ありました。量を量る「升」の単位を全国一律に決めたのはご存じのように豊臣秀吉で、「一升」は1.79Lでした、これが江戸時代になりますと1.804Lとなり今日に至っています。
さて問題の鎌倉時代ですが、平安時代の律令制下では以下のように決められていました。

「小升」0.24L
「大升」0.72L
「合」0.1升※大升のことです
「斗」10升

これを一応の基準にいたしましょう。律令制下(延喜式)では一俵が五斗と定められています。つまり今日的には約72リッター(米換算で)ですから約60キログラムということになります。ということは今とそうかわらなかったということです。実際に鎌倉時代の絵を見ていますと馬に載せたり車に積んである俵を見ると、今とさほどかわってはいません。60キロという重さは人間が持てる重さです。これにあわせてあるのでしょう。もっとも、芋の場合はもう少し軽かったと思われます。

「一駄」とは俵二表のことを指します。つまり約120キロということになります。これは馬の背に左右に分けて載せるからです。これ以上だと馬にも負担がかかるという重さですね・・合理的な単位だと思います。

さて「籠」ですが、入れるモノの形状によって俵を使ったり籠を使い分けたと思われ、平安時代から単位として顕れます。もちろん吾妻鏡にも時々登場する単位です。久安6年(1150年)国衙留守所が伊予の国弓削島荘から「塩百四十二籠」を責め取ったと記録にありますので、塩の場合は籠が使われていたということが分かります。さてその弓削島荘ですが延応元年(1239年)に「籠」から「俵」への単位切り替えが行われました。その時の記録に「小古の塩」とよばれる塩だけは「籠別一斗」部分的に「籠別一斗五升」と書かれているところから、籠の単位が10〜15升であったことが分かります。「小古の塩」がどのようなものかは定かではありませんが、おそらく塩の形状や状態が異なっていたのでしょう。
関東の籠がこれにあたるかどうか定かではありませんが、7〜8キロのものが入る大きさと見て良いのではないでしょうか。

玉川学園 Genbow先生

「いも一俵」について、小生の質問にひとつづつ
懇切丁寧に御教示くださいまして、ほんとうに
ありがとうございました。

翻訳者ともども感激し、喜び合っております。

ところでGenbow先生は、HPによると、貴学園に営巣する
チョウゲンボウ君であることを知りました。

当山は稲城市の山林に囲まれた一軒屋です。
周囲はオオタカ君の狩場となっているようで、良く見かけます。
しかし営巣は取り沙汰されるばかりで、確認されません。

人間への信頼を築くのは、夢のような話しかもしれませんが、
一歩近づいているのかと、実にうらやましく感じます。     合掌

栗原


次のページに行く

ホームにもどる

注意 目次や項目のフレームが表示されていない人は,ここをクリックしてください.