牧(まき)と厩(うまや)
玉川学園・玉川大学
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鎌倉時代には諸国の街道が整備されましたが,道幅も狭く交通機関も平安時代とたいして変わらず,あまり発達していませんでした.ですから人の移動は徒歩がほとんどで,荷物の運搬も人力にたよっていたのです.
しかし,上級の武士にとっての戦は大切な働きの場所ですから,歩いていったのでは話しになりません.そこで戦のときには馬に乗って戦場に出向いたのです.いざ戦闘のときは速い馬・利口な馬・強い馬でなければ相手に負けてしまいます.この時代に負けるということは首をとられてしまうことですから大変です.良い馬を持つことはそれほど武士にとって大切で真剣なことでした.
だから上級の武士の領地には良い馬を訓練したり運動するための牧があったのです.晴れた日の日中には馬を牧に出して,夜には厩で休ませませました.
厩は屋敷内にあり,馬はいつも大切に扱われていました.よく見ると男の人の後ろの杭に猿がつながれていますが,これは馬の魔よけとして必ず飼われていたものです.この絵では見えませんが,厩にたまったわら屑や糞は大切な肥料として厩の後ろに掘られた穴に溜められていました.
そのころの馬の子孫の写真を見てください.(資料/開田村開発課許諾済)
鎌倉時代の馬は,今日,皆さんが競馬のシーンなどで見ている,あのスマートなサラブレッドとは違います.写真でみてのとおり体高125Cmの胴長・短足の「ずんぐり馬」でした.しかし,この馬は走るのはそれほど速くありませんでしたが,力がとても強かったのです.特に坂道の上り下りに強く,山の多い日本には最適の馬でした.
現在,この種の馬はわずかに宮崎県と長野県,北海道にしか残っていないそうです.写真の馬は長野県開田村の木曽馬で,木曽義仲の軍勢はこの馬の祖先に乗って京都の平氏と戦ったのです.
上浜田遺跡(上の絵の元になった遺跡の馬屋のあと)
馬屋は二棟ありました.1区画に1頭入れていたとすると1棟で8頭入ります.2棟ですからその倍の16頭の馬がいたことになります.しかし,当時の馬は今よりずっと小さいから1区画に2頭入れていたとすると32頭ということになります.もしかしたらこの館の主は「牧」の管理をしていたかもしれません.いずれにせよ面積では主屋より広いですから,馬を大切にしていたことが分かります.
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