館蔵資料の紹介 2002年
玉川大学教育博物館 > 館蔵資料の紹介 > 2002年 > 山陵志
蒲生君平著
写本 文化5(1808)年以降筆写カ
27.6×19.6×2.8cm
『山陵志(さんりょうし)』は、蒲生君平(がもうくんぺい 1768-1813)が、先祖の墓の祭祀が帝王の重要な役割のひとつであるにもかかわらず、天皇陵の位置が不明確なものや、荒廃しているものがあることを嘆き、調査の上で陵墓を特定することを目的とした書である。また、水戸藩の学者と親しかったこともあり、同藩編纂の『大日本史』に附随する「志」とすることをも意図していた。君平は寛政8(1796)年と同12年の2度にわたり調査のため畿内に赴き、享和元(1801)年頃には本書の原稿がほぼ完成したらしい。しかし経済的事情から出版されたのは文化5(1808)年のことで、本資料はその刊本を写したものとみられる。
本書は2巻構成で、巻一には大和31ヶ所・河内13ヶ所・和泉3ヶ所と、摂津・丹波・阿波・淡路・讃岐・隠岐・佐渡各1ヶ所の、巻二には京都近郊に所在する38ヶ所の天皇陵について記されている。古墳である古代の天皇陵については、『古事記』『日本書紀』『延喜式』をはじめとする文献等に記載された記事に考証を加え、さらに古墳の実地踏査をして、古墳の墳形や築造方法、地元の伝承も考慮に入れて、該当する古墳と被葬者の突き合わせをしていった。その際、墳形の形態的変遷に注目するという大変優れた考証手法を採用した点が特筆される。こうして君平が比定した墳墓の多くが、近代以降に天皇陵として宮内省の管理下に置かれた。その中には、墳丘の形態・修陵工事に伴う調査での出土遺物の年代観等、今日の考古学の学問水準から見ると疑問視されるものもある。しかし18世紀末の君平の調査と研究業績は、考古学史の上からも極めて重要なものといえる。
ちなみに古墳の墳形で最も有名なのは、前方後円墳であろう。この「前方後円」とは、本書の中の「必象宮車而使前方後円」という記述から命名されたものである。つまり当時は古代の陵墓の墳丘は帝王の車、特に霊柩車である宮車の形態になっていると考えられていたため、車の進行方向から墳丘方形部が前とされたのである。
本書編纂の目的にも表れるように、君平は尊王思想の持ち主であった。彼の著作群は幕末期の尊王運動にも影響を与え、その思想的先駆者として位置付けられている。