館蔵資料の紹介 1997年
玉川大学教育博物館 > 館蔵資料の紹介 > 1997年 > 佐久間象山の『省けん録』(せいけんろく)
佐久間象山著 勝海舟校
『省諐録』明治4年
25.5×17.2cm
18世紀から19世紀にかけて、ロシア、イギリス、アメリカなどの、いわゆる異国船があいついで琉球および日本海岸に押し寄せた。
通商、薪水の供与を求めての行動であった。当時、幕府は長崎に入港するオランダ船や中国船からの「風説書」をとおして、外国情報を独占的に入手していた。1839年6月の「風説書」は、中国の広東でイギリス人などの「阿片密売」を禁じる旨を伝えている。翌年7月には、ついにアヘン戦争が勃発した。「唐山(中国)しきりに利を失い、福建、寧波(にんぽう)等の地方すでにイギリスのために陥没つかまつり侯」(「海防に関する藩主宛上書」1842年)と佐久間象山はその戦況を伝えきいている。
この衝撃的ニュースは、象山の意識を根底から揺さぶり、その世界観を大きく転換させるショックを与えた。
今回ここに紹介する『省諐録』は、幕末期の一大開明思想家で、開国論、海防論の先覚者として活躍した佐久間象山の代表的著書のひとつである。『省諐録』とは、あやまちをかえりみる記録という意味である。
象山は、文化8(1811)年に信州松代藩士の下級武士の家に生まれた。名は啓、幼名は啓之助、通称は修理、象山は号である。
天保4(1833)年江戸に遊学して、佐藤一斉に学び、同10(1839)年の再遊に際しては、神田お玉ケ池に塾を開いて象山書院と称した。ついで天保12(1841)年、藩主真田幸貫が老中海防係に就任すると、アヘン戦争に揺れ動く海外事情の調査を命じられた。象山は、江川塾に入門して西洋兵学を修め、また黒川長安についてオランダ語を学んだ。
その洋学知識を生かして、西洋式火器の大量製造と海軍の創設育成を提案する上書「海防八策」をまとめた。しかし、この意見書は、幕府の天保改革が失敗して、結局日の目を見なかった。安改元(1854)年、象山の門人であった吉田松陰が再来したペリーの軍艦で密航し、海外事情を探索しょうと企画した、いわゆる下田密航の失敗で背後に象山がいたことがあらわれた。本書は、この事件で安改元年4月より9月まで、江戸伝馬町の獄につながれていた獄中での感懐を出獄後筆録したものである。象山がその生涯を賭して提唱し、実践した「東洋道徳・西洋芸術」という理念は、開かれた新しい国際社会への日本国民の対応指針であったが、これは本書の「キーワード」でもある。象山に衝撃を与えたアヘン戦争でイギリスの植民地になった香港が、本年7月中国に返還される。またアジアに新しい風が吹きはじめた。