館蔵資料の紹介 1997年
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今回紹介するのは、千葉県銚子市余山(よやま)貝塚で採集された、縄文時代後・晩期の貝輪(かいわ)(貝穀製の腕輪)である。本館所蔵資料以外にも、余山貝塚からは夥しい量の貝輪が出土しており、同貝塚が交易品としの貝輪の製作拠点であったとみるべきかもしれない。
貝輪はやや大ぶりの2枚貝や巻貝で作るが、本例はいずれも輪脈が美しい同心円状をなすベンケイガイ製である。製作法はまず殻頂部に穿孔し、次に孔を徐々に拡張し、最後に磨いて形を整えるが、余山貝塚からは砥石も採集されている。写真下段中・左は、いずれも製作途中の未完成品である(ただしこれらは、腕輪以外の用途に使用した製品である可能性もある)。
貝輪は素材の貝が割れやすいため、製作中に力の入れ加減を誤ったり、装着中に腕が何かにぶつかれば破損してしまう(写真上段左・下段右)。日常生活を営むには極めて不都合であることから、特別な場合のみ装着し、普段は外していたものかもしれない。自由に着脱するためには、手を通す孔がある程度大きくなければならないが、写真上段右の孔径は6×5.3cm、同中は6.2×4.3cmと、手の大きさが人それぞれであるように、孔の大きさもまちまちになっている。
貝輪を装着した人骨の出土例は、成人女性の場合が殆どであることから、貝輪は専ら女性が着ける装身具であったのであろう。縄文後期の福岡県山鹿(やまが)貝塚出土の女性の例では、右腕に11個、左腕に15個もの貝輪を装着していた。この他にも、複数の貝輪を装着した例がしばしば認められる。これらは死後に装着されたものかもしれないが、かくも多くの貝輪を普段から着けて生活していたとすれば、あまり手を動かさなくてもよかったのであろう。つまり飾り立てて普通の労働をせず、代わりの者にしてもらえるような、特別な立場の人物であった可能性を考えるべきである。想像をたくましくすれば、呪術者のような特殊な職能を持った者や、集団の長或いはその配偶者等であったのかもしれない。
従来の教科書的縄文時代観では、この時代には身分差は無く、平等な社会であったといわれてきた。貝輪等の装身具の装着例ばかりでなく、他の資料と共に慎重な検討を要する問題であるが、最近では縄文社会の中にも、ある程度の階層が存在していたのではないかと考えられるようになってきている。