玉川大学教育博物館 館蔵資料の紹介(デジタルアーカイブ)

教育博物館では、近世・近代の日本教育史関係資料を主体とし、広く芸術資料、民俗資料、考古資料、シュヴァイツァー関係資料、玉川学園史及び創立者小原國芳関係資料などを収蔵しております。3万点以上におよぶ資料の中から、月刊誌「全人」にてご紹介した記事を掲載しています。
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館蔵資料の紹介 1996年

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四度目御調辯書草稿

四度目御調辯書草稿

江戸幕府直轄学問所〔長崎聖堂〕における
『四度目御調辯書草稿』
23.3×17.3cm

学園の創立者小原國芳生誕100年を記念して、昭和62年に開館した教育博物館では、只今、開館10周年特別展「江戸時代の学校 ─藩校」展が開催されている。

ところで“今なぜ江戸時代の学校なのか”とよく質問を受く。私は、200年前に戻って考え直すことが大事だと思っている。そこには我々日本人が久しく忘れていた、ゆたかな老成した智が秘蔵されている。

今回の展示資料の中には、寛政異学の禁で有名な松平定信(楽翁)の「筆蹟 和歌 三行書」と同筆の巻子装「大学」一巻と楽翁自筆下絵指図集「平家物語絵巻」や『美類免能奈見(みるめのなみ)』等が出品されている。これらの展示資料をみる限り、寛政異学の禁を強行した定信像とは異なる花を愛で、月を賞し、詩歌を嗜み、『源氏物語』を書写し、『平家物語』の略画を描く当代きっての風流人のイメージが立ち現れてくる。では江戸後期学問上の最大の事件といわれる寛政異学の禁とは、どのようなものであったのか。寛政2(1790)年5月24日、老中松平定信は林大学頭信敬に対して、次の旨の通達を発布した。朱子学は慶長以来の代々「御信用」の「正学」であり、その「学風維持」を林家代々に命じてきた。しかるに世上では近年「種々新規の説」を唱え、「風俗」を破る者が出てきた。その方の門人の内にも「学術純正ならざるもの」があると聞く、したがってこのたび「聖堂御取締」を厳重にするよう申しつける。ついては、柴野彦輔(栗山)と岡田清助(寒泉)にも御用を仰せ付けたので、よく相談して、「門人共」の「異学」講究を「相禁」じ、「正学講究」につとめ「人材取立」を心がけるように(『徳川禁令考』参照)。これが、いわゆる寛政異学の禁と呼ばれる「示諭」の要点である。通達書に示されているように、これはあくまでも聖堂内部の教学統制を命じたものにすぎず、強権を発動して諸藩の教学政策にまで介入しようとする積極的な事実のなかったこと、文武を奨励し「芸術見分」や「学問吟味」と称して科挙制にならって人材登用試験を実施していった事実などを考えあわせると、幕府の本来の意図はたしかに教学、思想統制というよりは政治改革の一環としての臣僚養成、人材登用の教育振興策と理解すべきである。しかし、幕府役人の登用に際して異学を排して朱子学のみを選考基準にするということは、結果として学問、思想統制上の効果を発揮した。諸藩でもこれにならって、藩学を朱子学に一本化していくところが少なくなかった。

「全人」1996年12月号(No.582)より

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