館蔵資料の紹介 1995年
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『東北遊日記』
吉田松陰著
松下村塾蔵版
慶応4(1868)年
22.5×15.9cm
松陰吉田寅次郎(1830-59)という人物は、非常に筆まめで、手紙や日記をよく書き、自分の読んだ書物の名前とか、あるいは抜き書きをよくやっている。「本を読む者は、その精力の半分を筆記に費やせ」と門下生に教えて、若い頃より彼自身これを実行している。たとえば松陰は21歳の時、学問修業のため、藩主に従って江戸に出て、安積艮斎、古賀茶渓、山鹿素水、佐久間象山らについて本格的な学問を始めるが、今日の活字になった書物とは違い、文字は大きいし、1冊の分量はそれほどでないにしても、1年に500種類ないし少なくとも、350種類くらいの本を読んでいたことがその記録からわかる。一方彼は修学時代よく旅行をしており、大きな旅行だけでも8回を数える。その中でも松陰20歳のときの嘉永3年8月25日から12月29日まで萩-長崎-平戸-長崎-熊本-萩を旅し『西遊日記』を残している。この遊学の第一の目的は、佐藤一斉の門人であり、兵学にもつうじた葉山佐内について教えをこうことにあったようで、彼は葉山宅を足しげくたずね、むさぼるように本を読んでいる。『西遊日記』中の平戸の50日間の記録は、さながら読書目録の観を呈している。また現在当館に展示されている『東北遊日記』は、松陰が江戸遊学中の嘉永4年の12月14日から翌年4月5日まで、江戸-水戸-白河-若松-新潟-佐渡-弘前-今別-青森-小湊-盛岡-仙台-米沢-若松-日光-足利-江戸と東北亡命旅行といわれる冬の旅の見聞記である。ではこの東北遊歴は松陰にとってどういう意味をもっていたのだろうか。願書には「水戸・仙台・米沢・会津など文武盛んの由」とあり、各地の名士をたずね、また佐渡にわたり、青森まで足をのばしているのをみれば、東北の実地踏査、そして各地にいる経世家の意見をたたくことも大きなねらいであったようだが、直接の動機は水戸の改革派をたずねることではなかったろうか。わずか4カ月の日程のなかで、彼は1カ月も水戸に滞在し、会沢正志斎などとひんぱんにあっている。
『東北遊日記』には「17日 晴 会沢を訪ふ。会沢を訪ふこと数次なるに率(おおむ)ね酒を設く。水府の風、他邦の人に接するに歓待甚だ渥く、歓然として欣び交へ、心胸を吐露して隠匿する所なし。会々談論の聴くべきものあらば、必ず筆を把りて之を記す。是れ其の天下の事に通じ、天下の力を得る所以か」と記している。
わずか1カ月の水戸滞在が松陰にあたえた影響は強烈であった。帰国した彼は、『日本書紀』『続日本紀』など、日本の歴史を学ぶことに全力を投入している。