館蔵資料の紹介 1993年
玉川大学教育博物館 > 館蔵資料の紹介 > 1993年 > 明治初期の学校教育
(左)生徒勉強図
作者不詳
明治11(1878)年
36×24cm
(下)訓童小学校導之図
肉亭夏良
明治7(1874)年
34.5×72cm
わが国の小学校は明治元年より京都や各地に設けられており、明治5年の「学制」頒布以降、急速に全国的に普及しました。それに比べ就学率は明治10年代までで50%前後(女児はその半数以下)に留まり、校舎も貧弱なものが多く、寺院や豪邸を間借りしたりしました。ただし、町村によっては、貧困財政の中で校舎を建て、庶民の教育に力を注いだところも各地にみられました。
訓童小学校教導之図(明治7年・写真下)
立派な洋風建築であることから、豪邸の一部を教場にしたものでしょう。だが、この絵の授業風景では隣の声が邪魔で授業にならないはずです。恐らく、子ども達が学校生活を楽しんでいる様子を一括して描こうとしたものでしょう。ただし、一部に柱と柱を竹の棒で応急に仕切ってあるのが見られ、複数の授業が同時進行したことは考えられます。
掛図は米国からもたらされたもので、直観教育の補助教具的性格のものでしたが、日本では単語を絵で示す「単語図」として普及させ、結果は、指導の便利さから本旨を忘れ、掛図に頼り過ぎる憤向を強めました。黒板も米国から学びましたが、これは効率的指導に必需だとして普及しました。これらは、生徒が教師に対座する一斉授業形態を一層強化させました。腰掛と机の使用は子どもの発育成長の問題を考えるよい契機ともなりました。
生徒勉強図(明治11年・写真左上)
生徒列ヲ整エ教場ニ進ム図や卒業の図、洋服姿の体操風景、右手(左手でなく)を上げて答える様子などから画一的形式化の進展がよく窺えます。また、地球儀が目を引きますが、実物教授の一貫として、十年代に本格的普及が図られました。次いでは、理科の実物標本や模型が備えられるようになります。