館蔵資料の紹介 1992年
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広瀬淡窓筆
漢詩屏風(六曲一双)
天保13(1842)年
109.3×139.2cm
写真は広瀬淡窓(1782~1856)の書で、その内容は1842年9月26日、淡窓が61歳の時、大村藩(長崎)の藩主大村純煕(すみひろ)侯(1825~82)の命により、侯の別荘「華林軒(かりんけん)」で侯とお供の下臣を前に『宋名臣言行録』を講じた時の印象と、更にその数日後に参勤交代で江戸に出発の侯から歌を賜った時の別れの感慨とを合わせて詩にしたものです。この詩は自著『遠思楼詩鈔二編』に収録されています。
〔解説〕館のしとやかさ、すがすがしい講義の席、好学で謙遜の美徳を備えた侯の姿、飾り気ない堂内に香炉の煙の立ちのぼるさま、園の清らかさなどをうたい、侯に接する淡窓の気持をよく表しています。また、侯との別れを惜しみつつ、侯の明君の道を歩む姿を喜びとし、身分の違いはあれども正道を歩む契を忘れないでほしいとの願いをうたっています。尚、淡窓が別れの時、侯に賜った歌は「いざさらば 雲井にさえよ郭公(ほととぎす)鳴く音(ね)にさむる夢のあるまで」というものでした。
淡窓は豊後国(大分県)日田に生まれ、16歳で筑前の亀井南瞑(かめいなんめい)、昭陽(しょうよう)父子に師事し、24歳で郷里に帰って私塾を開きました。数度転居しましたが、26歳以後のものを「咸宜園(かんぎえん)」といい、近世最大の漢学塾に育てました。門弟は入門簿によれば3,081人に及び高野長英、大村益次郎ら多数の英傑が出ました。学派一派に偏せず、身分を問わず、広く門人を受け入れ、「休道他郷多苦辛(ゆうをやめよ たきょうくんしんおおしと)。同袍有友自相親(どうほうともあり おのずからあいしたしむ)。柴扉暁出霜如雪(さいひあかつきにいずれば しもゆきのごとし)。君汲川流我拾薪(きみはせんりゅうをくめ われはたきぎをひろわん)。と塾生に論し、師弟、塾生間に温情、相親の舎風を実践しました。同時に厳しい規約で節度を保たせ、「鋭きも鈍きも共に捨てがたし、錐(きり)と鎚(つち)とに使い分けなば」と個性尊重と能力主義教育を行いました。その淡窓は生涯病弱で目をも患いましたが、「敬天」の信念でこれを克己し、一生を教育に捧げました。
高舘何窈窕(こうかんなんぞようちょうたる)
修廊連曲房(しゅうろうきょくぼうにつらなる)
君子出戸至(くんしとをいでていたる)
雑偑響鏘鏘(ざっぱらひびきしょうしょうたり)講筵既前席(こうえんすでにせきをすすむ)
陪坐亦対床(ばいざまたしょうにたいす)
固有好文美(もとよりこうぶんのびあり)
兼存撝謙光(かねてぎけんのひかりをそんす)虚堂不彫鏤(きょどうにちょうるせず)
素琴唯一張(そきんただいっちょうあり)
銅鐸風聾静(どうたくふうせいしずかなり)
篆盤烟穂長(てんばんえんすいをうかべ)園林更清絶(えんりんさらにせいぜつなり)
緑水澹池塘(りょくすいちとうにしずかなり)
閑雲浮淡影(かんうんたんえいをうかべ)
落蕋漾幽芳(らくすいゆうほうをただよわす)軒車将有往(けんしゃまさにゆくあらんとす)
乃顧贍東方(すなわちかえりみてとうほうをみる)
深惜河梁別(ふかくかりょうのわかれをおしみ)
重投雲漢章(かさねてうんかんのしょうをとうず)我亦思猿鶴(われまたえんかくをおもい)
帰兮有草堂(かえりなんそうどうあり)
天壌雖異路(てんじょうみちをことにすといえども)
斯契庶不忘(このちぎりこいねがわくばわすれざらん)