館蔵資料の紹介 1991年
玉川大学教育博物館 > 館蔵資料の紹介 > 1991年 > 近世儒学の祖藤原惺窩の消息
藤原惺窩消息
林羅山宛
紙本墨書
29.2×43.2cm
写真は藤原惺窩(せいか)(永禄4-元和5・1561-1619)晩年の消息で、彼の門人林羅山(らざん)(1583-1657)宛のものです。文中の「妙」の署名は惺窩の居所「妙寿院」の妙をとっています。また、宛名の「羅浮洞」は羅山の別号です。
羅山が惺窩の門人となったのは、惺窩44歳、羅山22歳の時でした。二人は師弟の関係にありながら学風を異にし、学問上の論争をしております。惺窩は禅僧の修行を積んだ後、儒学に転じ、やがて近世初期の重大な事業といわれた四書五経の訓点をなし遂げます。これは羅山によって後世に伝えられ、漢学発展の基礎を作ったとして、惺窩は現在では近世儒学の祖と評価されています。彼は家康に直接、「貞観政要」(じょうかんせいよう)の講義をしていますが、淡泊な性格で家康に仕えることはしませんでした。一方、羅山は早くから仏教を嫌い、専ら儒学に打ち込みました。彼の博学ぶりは、惺窩を介して、家康の認めるところとなり、やがて家康に仕え、府学の基礎を築いていきます。二人の学問上の違いは、惺窩が朱子学を尊崇しながら陸象山(りくしょうざん)・王陽明(おうようめい)の学(象山の学は王陽明が継承し陸王学派・陽明学派となる)に寛容であるのに対し、羅山は朱子学を信奉し、陸王学を排撃しました。惺窩は羅山の過度な論をたしなめましたが、この違いは容易に解消しませんでした。しかし、羅山は惺窩の学識を尊敬し、惺窩は羅山の才を愛し、死ぬまで親交を続けました。本消息はこの親交ぶりをよく物語っています。
本消息の追伸文に「又請借象山集」とあり、羅山が自分で排した象山学に関する『象山集』(28巻)を持っており、惺窩がその借用を請うている点は興味をひきます。これは羅山が書物の収集に力を入れ、晩年には一万余の蔵書を持つに至った(江戸の大火で消失)といわれている点からうなずけます。
本文には、「近頃、示される詩文を見るに、賈生(かせい)のように学芸の大意に通ずる者も、司馬相如(しばしょうじょ)のような学芸の奥義に達した者も未だ見ず、あゝ。行く先測るべくもない。仲間にして頑張ってくれ、自分は年老いたが燭之部(しょくのぶ)(中国の春鄭の大夫)にならって実行するよ。ハハ」と書いています。惺窩自身は33歳の時、儒学の勉強のため良師を探し求めたが見当たらず、明国に渡ろうとして嵐に遭って果せなかった経験をもっているだけに、将来の人材の必要性と育成を切実に願っていたことが、この文から一層よく伝わってきます。