館蔵資料の紹介 1990年
玉川大学教育博物館 > 館蔵資料の紹介 > 1990年 > 金沢藩藩校『明倫堂・経武館御規則』写本
『明倫堂・経武館御規則』写本
天保10(1839)年
23.5×16.8cm
「明倫堂御規則」を記した頁
写真は、金沢藩の藩校、明倫堂(文学校)および経武館(武学校)の規則『明倫堂経武館御規則』の写本で、天保10(1839)年のものです。本書には寛政4(1792)年創建当時の建学の目的と規則、および天保10年の改革時の規則が記してあります。本書は当時の特色ある金沢藩の事情を伝えており、学校史研究の資料として大変貴重なものです。
金沢藩の前田家は、知将利家(としいえ)を藩祖にして14代に亘る歴代藩主はいずれも教養と格式が高いことで知られていますが、5代綱紀(つなのり)は最も学問を好み、藩の学芸を興隆しました。
藩校造営の構想は元禄4(1691)年に綱紀が「大願十事」の1つに揚げたのが始まりで、その願いを実現しようとした10代重教(しげみち)は果たさず死去し、11代治脩(はるなが)になってようやく、その実現を見ました。(寛政3年9月起工、翌4年2月竣立、3月開校)本書には、
為四民教導、泰雲院殿学校許可被仰付御内意之処、御逝去ニ付、今般右思召を継、文武之学校申付侯、依之新井白蛾儀学頭申付、其外諸芸師範人等、右用追々可申付侯条、諸士は勿論、町在之者迄モ、志次第学校エ罷出、習学可仕候。右之趣一統可被申渡侯事。
寛政4子閏2月
とあり、学校設立の目的は藩士教育のみならず四民(士農工商)教導のためであり、町在の者も志次第では入学させ、さらに同年6月27日の布達では、町在の貧乏人の子弟で才能と志のある者には給費生として藩の費用で入学させるとしており、当時これほど庶民の子弟を優遇した例は極めて希で、庶民教化に力を入れた金沢藩の大きな特徴がここにあります。
明倫堂の課業は、素読(個別授業・8歳入学、卒業14歳)、会読(講習・15歳入学、卒業23歳)、講読(公開講釈・一般士民の教化)の3課であり、学科目は和学、漢学、医学、算術、筆道、習礼、歴史、天文、暦学、詩文、法律、本草学等、多彩です。寛政期には、漢学のみ課す藩が多く、これも金沢藩の特色です。天保10年の改革では、素読の教科書である儒書が12、3種であったものを四書・五経に限定縮小したり、会読を身分、成績、年齢等を考慮し組分けするなど教導の効率化と一般成人教育の充実を図っています。
経武館に関しては、開校当初、穫古人の心得を掲げた定書と天保10年に師範および、門弟等の武術の鍛練を目的に制定した規則を示しています。因みに科業は、開校当初は剣、馬、居合、弓、鎗、軍螺、組打、柔、体の各武術で、天保10年に鎌玉術を加えています。