館蔵資料の紹介 1990年
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『聖堂之畫圖』
元禄4(1961)年
木版墨刷
95.6×87.6cm
写真は、元禄4(1691)年建立の湯島の『聖堂之畫圖(えず)』で、この絵図の序に元禄4年閏(うるう)8月21日の日付が載っていますので、聖堂ができた年の刊行のものといえます。絵は菱川師宣(ひしかわもろのぶ)の筆と思われ、当時の風俗や堂内の様子をよく伝えている貴重な資料です。
聖堂の起源は幕府儒宮林羅山(はやしらざん)が寛永9(1632)年上野忍岡(しのぶがおか)の邸内に孔子廟(こうしびょう)を創建したことにはじまります。名古屋藩主徳川義直が建廟の事業を助け、孔子の聖像と顔子(がんし)・曽子(そし)・子思(しし)・孟子(もうし)の四賢の像や祭器などを寄附しています。なおこの地は3代将軍家光が羅山に与えたもので、ここにつくった林家塾は半官半民の性格をもって出発しました。
やがて元禄4(1691)年5代将軍綱吉の発意によって、孔子像は上野から湯島に移され、それを祀る聖堂は「大成殿(たいせいでん)」と名づけられて規模は著しく拡張されました。絵図は「聖堂区域」を描いており、画面上部(北)の建物が当時の「大成殿」です。その聖堂内の孔子及び十哲、七十二賢の座位については絵図の上部に示されており、当時の好学の風尚を知る上で参酌に価します。なお聖堂区域外の西側には、聖堂附属の学舎や将軍専用の御成御殿(おなりごてん)や寄宿生の学寮など「聖堂学舎(せいどうがくしゃ)」と称された建物群があり、両域合わせた面積は約7,600坪です。これらの総称は、将軍家の儒教崇敬を象徴する聖堂の建築に力が入れられたため、湯島聖堂または、孔子生誕の地「昌平」に因んで昌平坂(しょうへいざか)聖堂と呼ばれました。
聖堂の新築間もない元禄4年2月11日の釈菜(せきさい)(孔子祭)には綱吉自ら臨み、国家的儀礼の観を呈し、聖堂の最盛期を迎えます。また大学頭(だいがくのかみ)は林家3代目の鳳岡(ほうこう)(信篤)(のぶあつ)が任命され、幕府の文治政治の展開によって聖堂の官学化は急速に進みます。
元禄4年鳳岡は仰高門(ぎょうこうもん)(絵図の入口)内の東舎で経書(けいしょ)を講義しましたが、聴く者300余人の多きに上り、舎内に入れない人たちは地上にむしろを敷いて聴いたといいます。絵図からは、この頃より講書があったことが明らかであり、また講釈の途中に出退している者の姿からは、公開講釈が元禄4年の昔から時折り開かれ、士庶一般に開放されていたことが推知されます。この制度は享保2(1717)年からは日講制になって、毎日午前10時から12時まで無休で講義が行われ、授講者は都合の良い日に聴きたい講釈だけを受ければよいように仕組が改良され、その後幕末までの150年にわたって続いたとされています。
なお、聖堂落成に伴う関係諸侯よりの寄贈品を記した『奉納聖堂品々目録』(元禄4年)を付属資料として当館で収蔵しています。