平成6年(1994年)の大干ばつは戦後最悪の「水不足」を香川県民にもたらしました.6月29日に始まった香川用水の取水制限(しゅすいせいげん)は11月14日の終息までに9回におよび,実に139日を記録しました.下のグラフは高松地方気象台の平年と平成6年度の降水量を比較したものです.平年の合計は1049mmですが,平成6年はわずか724mmしかありませんでした.ちなみに全国平均は年間1749mm(12ヶ月で)です.
もともと瀬戸内地方で降水量が少ないのは,その地形と季節風のためと言われています.特に香川県には大きな川がないために瀬戸内地方の中でも最も「水不足の県」といわれてきました.平成6年は,高松地方気象台102年間の観測のなかで,最も少ない降雨記録を出した年です.つまり今世紀最大の「大干ばつ」だったのです.平成6年は四国全体の降水量が少なく,四国の「水がめ」といわれる早明浦(さめうら)ダムも貯水量がいちじるしく低下し,とても香川県だけに水をおくれる状況ではなかったのです.目次に戻る
下の図を見ても分かるように,大平洋や日本海から湿った季節風が吹いても,それらは四国山地や中国山地などの高い山にさえぎられてしまい.そこで発生した雨雲(雪雲)によって殆ど雨(雪)になって降ってしまうのです.ですから季節風が瀬戸内海に入ってくる時には,とても乾燥した状態になってしまいます.この気候を「瀬戸内式気候」(せとうちしききこう)といいます.
年間を通して降水量の少なかった讃岐平野では明治の頃まで「讃岐三白」(さぬきさんぱく)といって,塩・砂糖・綿花が特産品と呼ばれていました.どれも乾燥気候)の産物です.こうしたことからも,本来,香川県は水を多く必要とする「稲作」にはあまり適していない土地だったということが分かりますね.長い年月と大変な努力の上に「ため池」や「用水」を作ったのも,讃岐の人々が一粒でも多くの米を作りたいという願いがあったからこそなのです.
1.早明浦(さめうら)ダムの貯水量が50%程度になってしまったため,早くも6月末に香川用水の取水制限(しゅすいせいげん=水を取り入れる量を少なくおさえること)がはじまり,7月には75%カットが行われました.
2.高松市では16時〜21時までの5時間足らずしか水が出なくなり(5時間給水制限).市民は風呂やトイレなどで,とても不便な生活をしいられました. 高松市内で何人かの人にこのことを聞きましたが「朝,顔を洗えなかった」「お風呂に入れなかった」「トイレの水はお風呂の残り湯で流した」「洗濯は3〜4日に一度になった」などの声を聞きました.今でもホテルや博物館,美術館などの公共施設の洗面所には,必ず「節水」の貼り紙が貼ってあります.
3.ため池の貯水量もみるみる減って,空っぽになる池も出てきました.
4.せっかく育てた農産物(果樹・茶・野菜)が枯れはじめた.農産物の被害は日をおって拡大し2ヶ月間で12億8760万円の損害が出ました.
5.なにより水を必要とする「米作り」に深刻なえいきょう(発育不全・枯死)(はついくふぜん・こし=育ちが悪くなったり枯れてしまうこと)が出はじめました.
讃岐農民の血のにじむような努力が「大干ばつ」から,県民を救った.
トイレの水にも困るような「水不足」から,市民生活をまもるにはギリギリのところまで農業用水を減らし,それを都市にまわすという選択しかありませんでした.しかし,それは農産物の死滅という紙一重の極限状態の選択でした.そのため,農民はかつての配水管理制度であった「鍬肩ぎ」(くわかたぎ)・「走り」と呼ばれる「水配」(すいはい)・「股守り」(またもり)を「池守り」(いけもり)という役割の下に復活させ,分水工での昼間や夜間の見回りをはじめ,耕地面積に応じた水の配分など徹底した水の管理を行いました.
言葉の意味
(水配=田に入れる水の量をきめ,管理する人)(股守り=分水工の管理をする人.特に水不足の時に盗水を防ぐための見張り役.1日8時間の3交代制)(池守り=配水管理の最高責任者)さらに節水を行うために「走り水」「かけ流し」といった「かんがい方式」(かんがい=水を管理し調節すること)を復活させました.「走り水」とは田の土の上を水が走る程度で給水を止めるという「かんがい方式」で,地域によっては田の一番高いところに旗をたて,そこに水がいったら給水をとめてしまいます.「かけ流し」は「走り水」よりさらにきびしい「かんがい方法」で,「走り水」で「かんがい」された田にたまったわずかな水をさらに次の田に流す,というやりかたです.この方法ですと田んぼは「湿った程度」になるだけで「究極のかんがい」と呼ばれています.以下の文章は香川用水土地改良区の報告書に書かれたものです.
「かけ流し」灌漑(かんがい)の行われた中讃地域の一例として土器川(どきがわ)東岸にある大窪池(206ha)では全地区を3分割し、溜池の放水は各地区1日(6:00〜18:00)づつとして配水し、4日目、5日目は休日とする5日に1回の配水として、田子全員での「かけ流し」配水を行った。池の放水(ゆる抜き)が停止される午後6時までに、全圃地への配水を終らないとかけ残し田が出ることになるので、配水時間の終りが迫るにつれて配水は緊追したものになり、「入ったぞ(水が)」という呼び声が大きく響き、配水が次の水田に移る光景が見られた。なお、大窪池の水掛りでは配水日に欠席すると配水が受けられない厳しい取り決めになっている。このため組合員は渇水の続いた7月初旬から9月末頃まで配水に追われる毎日であった。
(「平成6年夏期渇水とその対応」香川用水土地改良区刊より抜粋)
その他に,干害応急工事(かんがいおうきゅうこうじ)として「井戸」が掘られたりパイプをひきました.この時にはポンプ業者はすでに手一杯の状態で,殆どが農民自身の手で行われました.こうした工事がこの期間に8200ケ所もあったそうです.しかも,掘られた井戸から出る水は全て「水配」という,管理責任者のもとで管理され,危機的な水田に配水しました.「自分が掘った井戸だから自分の水」という考え方ではなく,地下水はみんなのものとして分配されました.やがて,この井戸水も底をつき「犠牲田」(ぎせいでん)という,周りの水田をまもるために給水をとめてしまう田も出てきました.
救援水のこと
救援水(きゅうえんすい)とは文字どおり,枯れる寸前の田んぼに水を送ることで,比較的状況が切迫(せっぱく=あとわずかで最悪の状態になること)していない地域から水を回し救援することです.しかし,いくら最悪ではないといっても,自分のところさえ,いつ水が無くなるか分からない状況です.普通でしたら「共倒れ」を恐れて一滴の水も他の地域にまわすことなど出来ないことですが,平成6年の大渇水のときは「香川用水土地改良区」の主導でこれが行われました.以下はその時の状況を語ったものです.
平成6年の大干ばつは飯野山の頂上部の自然木が枯れ出すという、大変な渇水であった。管内7か所の溜池は貯水を減らし、8月の中旬には底をついて失った。飯野地区は昔から浅井戸が多く、池の水が枯渇に近づくにつれ、既設の井戸91か所の上に、新たに34か所の井戸を掘削(くっさく)し、138台のポンプがフル運転された。
この時期緊急(きんきゅう)に招集(しょうしゅう=集めること)された総代会では異常干ばつへの対応として、(1)飯野地区水田170へクタールのうち3分の1を犠牲田として潅水を中止する。(2)井戸から揚水された水は個人井戸といえども地区水利組合長の管理のもとに、「水引き」が配水し個人の潅水は認めない。(3)香川用水の配水は理事長に一任し、理事2名を加えての合議による傾斜配分を行う。(4)盗水のあった場合、その者の氏名を公表し以後の配水を停止する。等の厳しい掟を定めた。
この事情を察知された香川用水土地改良区長町事務局長は、飯野地区の現地の見分をした上で、8月18日から3日問、2日おいて、23日から27日までの8日間にわたって、本格的な救援送水をしていただいた。半ばあきらめていた農家の皆さんは、地下を埋管されている香川用水の支線水路(川西幹線)から湧き出る水をみて、一様に驚き「理事長どんな忍術使うたんや」と手を打って喜んだ。
第1次の救援水を融通してくれた三豊郡の豊稔池は時計を使っての時間給水をしており、身を切るような融通であったに違いない。また第2次の救援水は東部幹線揚水機掛かりの大川郡東部4町の御協力のお陰と聞いている。さらにまた川西幹線の上流側に位置する道池土地改良区の格別の御協力をいただいた。香川用水の偉大な恩恵と御協力をくださった関係の皆様に改めて感謝を申し上げる。
(「丸亀市飯野土地改良区理事長の回想」 香川用水土地改良区30年史より抜粋)
こうした農民の血のにじむような努力と互いの助け合いがあって,はじめて香川県民の生活が守られたのです.しかし,このことを知る人は案外少なく,都市に住む人のなかには「農業用水があまっていたからだ」というあやまった認識をする人さえいました.
さて,農家が農業用水を都市にまわすためには,よほど足並みをそろえて節水をしなくてはなりません.こうしたことができたのは昔からの配水ルールがあったからだといわれています.目次に戻る
水の少ない讃岐地方には昔ながらの独特の取り決めやルールがありました.そのなかで最も特徴的なものが「線香水」(せんこうみず)です.
線香水
田ごとに水の量が決められていることを「水ブニ」といいます.ため池や水路作りにどれだけ貢献したか,また,長い間に生じた力関係によって田に取り込む「水の量」が決められていました.まだ,時計のなかった時代に水量を計るため考え出されたのが「線香水」です.線香の燃えている間だけ水を田に入れても良いという取り決めで,「水ブニ」が多い田は線香が長いというわけです.線香水は田んぼに水が入ったその瞬間に拍子木(ひょうしぎ)をたたき線香に火をつけ,線香が燃えつきると今度は太鼓をたたいて次の田んぼに移ります.これらは,全て配水台帳にしたがって線香番が合図します.線香番は昼夜を問わずの作業ですから,蚊に刺されないように蚊帳の中で行いました.この合図を聞いて水引という役柄の人が田に水を入れるのです.しかし,線香水の慣行は満濃池の改修工事が完成した昭和30年の半ば頃から見られなくなりました.
満濃池の改修や香川用水の完成で「水ブニ」の不公平はなくなりました.しかし,時間により水を給水していく「番水」(次々と水田にうまく給水するタイムスケジュール)は立派に受継がれていたため,平成6年の渇水の際は線香に変わって時計による給水が行われたのです.こうした,先人から受継いだ知恵をうまく使うことによって,24時間体制の厳しい水管理が大きな混乱もなく行われました.
平成6年の大渇水はこうした農民の努力によって克服されました.余談ですが,吉野川の大部分を管理する徳島県は『讃岐は水に余裕があるようだ』と視察団を送ってきました.しかし,現実を目の当たりにして,皆さんはおどろき感心して帰っていったとのことです.
「究極のかんがい」とよばれる「かけ流し」は,田んぼの表面がわずかに湿るというものでしたが,昭和14年の大干ばつのときには救援水も無く,「かけ流し」さえ出来ないところが続出しました.しかし,それでも人々は目の前で次々と枯れていく稲を必死になって守ろうとしました.その一つの方法が「どびん水」です.「どびん水」は読んで字のごとく,枯死寸前の稲の株元に「どびん」に入った水をちょろちょろとまくことです.田んぼ全体の稲に水をやることはとても不可能で,努力の甲斐も無くほとんどの稲は次々と枯れていきました.
「どびん水」は讃岐農民の「米」にたいする執念(しゅうねん=深くこだわること)の代名詞(だいめいし=言いかえると)です.しかし,この言葉は今日では死語になろうとしています.平成6年の大干ばつのときには「どびん水」は行われませんでした.いくつかの犠牲田はでましたが,大部分の水田は守られたからです.それはなぜでしょう.香川用水ができたことはもちろん最大の理由です.しかし,大部分の日本人,いや高松市民の多くですら知らないところで,讃岐の農民が受ついできた「水」を管理する立派なシステムや協力があったからなのです.どうですか?皆さんは「米作り」なんてみんな同じようなもので「水」と「土地」と「種もみ」さえあれば,かんたんにできると思ってはいませんか?実さいにはその土地々々にこうした,歴史や努力があることを知って下さい.きっと皆さんが住む町の「田んぼ」にもその土地ならではの歴史があるはずです.