関東地方には多くの御家人がいたため,鎌倉へつながる道が多く作られました.東京都にもそうした道がいくつか残されています.中にはズバリ「鎌倉街道」と名付けられた道もあります.
東京都町田市にある小野路は鎌倉街道沿いにある町ですが,市街化調整区域に指定されている山林が多く,鎌倉街道やその支道が当時の面影を残したまま尾根筋や谷戸をぬっています.師走のある晴れた日にそんな鎌倉古道(支道)を歩いてみました.※鎌倉古街道はこちら
小野篁(たかむら)を祭る小野神社です.篁は平安中期の書家「小野道風」の祖父にあたる人で現在の滋賀県小野志賀町の南部を支配していた貴族です.その人を祭る神社が,なんで町田にあるのか不思議ですが,栃木県にある足利学校の創始者が小野篁になっていることから,東国とも深く関係を持っていたようです.他に小野氏に関る有名人として「美人」の代名詞「小野小町」がいます.今回のルート上にも「小町井戸」があり,小野小町がその水で顔を洗ったという伝説が残っています.今でも水が湧いて,その水で顔を洗うと「美人」になるとのことでした.
こうした小野篁や小町に関する神社や遺跡は日本各地にありますが,実際に彼等がその地に足を運んだかどうかには大きな?があります.しかし,伝説は伝説として大切に残していきたいと思います.
とにかくこうした話しが残っているほどですから,今回歩いたルートはかなり古い道であることには間違いありません.
万松寺(ばんしょうじ).臨済宗のお寺で鎌倉時代元徳二年(1330年)につくられた由緒あるお寺です.本山は鎌倉にある建長寺ですから幕府とも深い関係にありました.現在「図師小野路歴史環境保全地域」として残されている山林の多くは元々このお寺の領地でした.
かつて「万松寺」の領地だった山林.この中に鎌倉時代の道や城跡,あるいは井戸やお墓があります.「さあ.出発!」
谷戸から尾根に進む道です.今は鋪装されていますが,かつてここを多くの旅人や武士が歩きました.道は右へカーブして山中の分岐点に向かいます.
道端にできた霜柱.最近まで町の中にも見られましたが,今はこうした自然環境のところでしかお目にかかれません.同行した若いゲンボー先生は,このあとしきりに霜を踏んでいました.「サクッ,サクッ」という懐かしい音がしました.
日当たりのよい南向き斜面には「水仙」が咲いていました.小野路は東京近郊でもしっかり里山が残っている貴重な地域でもあるのです.
尾根上の十字路わきにあった「五輪塔」.この道が「鎌倉時代」からあったことを裏付けています.当時このあたりは一帯は幕府の有力御家人であった「小山田氏」の支配を受けていました.五輪塔に供養された人もおそらく小山田氏にゆかりのあった人なのでしょう.ここを左に向かうと「小山田城」の副城「小野路城」(別名,結道城)の趾に至ります.(※五輪等塔=鎌倉時代の供養塔)
このあたり一帯の古道の特徴として,このような「凹道」があげられます.「馬に乗った武士の移動が他から見えないようにした.」といわれていますが,おそらく小山田氏や北条氏が城を守る戦を想定してこのような形にしたのでしょう.一番深いところで,高さ2.7メートル.幅3.5メートルありました.しかし,これは本来の鎌倉街道ではありません.
林の中に続く道.右側写真の奥に見える高まりが「小野路城趾」です.透き通るような青空と枯れ葉のにおいが印象的な道でした.
真っすぐな道を上り詰めると鳥居と小さな社が祭ってありました.かつてここが鎌倉武士の城であったことがウソのような静けさです.
不自然に平らな丘の頂上.社の裏側が城のあった平地です.今は建物のかわりに「なら」や「くぬぎ」の林になっています.いったい何人の人がここで城を守っていたのでしょう.
城をおりると道のわきに「湧き水」を発見.これが伝説の「小町井戸」です.この井戸は「小野路城」の一部で,城の生活用水だったと思われます.訪れた日は何日も雨が降らず,異常乾燥が続いていましたが,「どんなに日照りが続いても涸れることはない」という伝説の通りに水が湧いていました.この回りを発掘調査すれば,何らかの遺構か遺物が発見されることと思います.「さあ顔でも洗うか!美人(男)になるぞ・・・」
道の端に静かに眠る野のほとけ.だれかがお花をあげています.年代を調べようと思いましたが風化が激しく読み取れませんでした.(江戸時代です)
もっと詳しく「小野路」を知りたい人はここ!「鎌倉街道上道」多摩丘陵編 「海の道・陸の道」に行く