平成13年4月20日〜
4月20日
佐江子/梨奈子
ホームページを見たのですが、一つ教えてもらいたい事があります。
質問・・・旧石器時代の人は食べ物がなくなった時、テントに住んで移住しながら暮らしていたけど、草創期になってからは、家が固定されているように見えたのですが、草創期の人達は、移住しなかったんですか?と、すれば草創期の人達は食べ物には恵まれていたのでしょうか?教えて下さい。
ゲンボー先生
メールをありがとう.旧石器時代の終わり頃に寒かった氷河期も終わり,地球の気候全体が暖かくなってきました.ちょうどこのころ,中国の長江やインドのインダス川,それにエジプトのナイル川やイラクのチグリス・ユーフラテス川の流域で農業が始まりました.暖かくなったので植物の栽培がしやすくなったのです.
日本では農業は行われていませんでしたが,植物の種類も大きく変わり,動物の種類も変わってきました.縄文時代も前期なると焼き畑農耕といって山を切り開いて,火をつけて草や木の灰を肥料にしながら作物をつくることが行われてきました.
主食は多分,里芋や山芋でそれにヒエとかアワとかお米が少々と言った感じでした.焼き畑は4〜5年で土地が痩せてしまうので,また別の山につくって,ローテーションしていたといわれています.
君たちが質問した草創期や早期はちょうど旧石器時代と前期の中間の時期です.最近の研究では南の暖かい地域では一定期間同じところに住んでいたことがわかっています.しかし,農業は行われてはいなかったようで,食べられる野草や木の実,それにイノシシや鹿,鳥の肉.それにお魚や貝を食べていたようです.
ですから,しばらくはそこにいて「食料が無くなったり」季節がかわったりして移り住んだのだと思われます.
それでも,長野県の遺跡からは立派な角製の縫い針や,ヘアーピン,それに魚をとる銛(もり)などが見つかっています.
教科書の絵で見ると縄文人は毛皮みたいなものをまとっていますが,本物の縄文人が見たら「このひとは乞食ですか?」って笑うに違いありません.だって旧石器時代から皮などをぬって服を作っていたからです.日本の最古の布は縄文時代前期に見つかっていますが,おそらく早期とか草創期にもあったと思います.
ようするに,後期旧石器時代や縄文時代の人は今の我々と同じ「ホモサピエンス」ですから,知能はまったくかわりません.電気や鉄製品はありませんでしたが,基本的には同じような道具を使っていました.彼等をばかにしちゃいけないということです.
どうです.おもしろいでしょ?君たちも先生もみ〜んな縄文人の子孫なんですよ.
ゲンボー先生より
縄文時代草創期のホームページで、2枚目の想像図で子供達が弓で狙っていた緑の丸いものは、
なんですか?教えて下さい。
ゲンボー先生
あれは草を丸めたもので,絵を書いた中西立太という先生が想像して書いたものです.
でも子供が弓矢の練習をしていたのは本当です.彼等は子供の時から狩りや魚釣り,それに畑仕事や,採集の技術をまなびました.学校へ行かなくてもいいから「うらやましい」と思いますか?
彼等の勉強は,ちゃんとやらないと生きていけない勉強ですから真剣勝負です.でも「宿題」がないから,やっぱり縄文時代のほうがいいかな・・・
ゲンボー先生より
縄文時代の人達は何年から家に住んでいたんですか。
ゲンボー先生
日本で一番古い家のあとは,相模原の向原遺跡(むかいはらいせき)から見つかりました.今から約1万4〜5千年前の旧石器時代の家です.直径4メートルくらいの円形で,柱の穴がぐるりとあいて,家のまん中には炉のあともありました.ですから当然それより新しい縄文時代のはじめから住居がありました.今から約1万年前の話です.
ゲンボー先生より
質問なんですけど、狩りを、するきっかけってあるんですか?教えて下さい!
私からも質問ですけど、縄文時代の頃は流行り物があったんですか??
ゲンボー先生
「きっかけ」の意味が良く分かりません?季節ですか?それとも,人間がいつごろからならったかということですか?もう一度質問してください.
狩りは,魚釣りや「わな」,それと畑仕事と,採集と,どれも生きていくために必要なことで,子供の時からみっちりしこまれました.
流行・・・ありましたとも・・・土器の模様は完全に流行です.おそらく女の人の髪型や,装身具にも流行はあったと思います.
今と違うのは「金もうけ」のために,原価数円の「カード」を高い値段で売るなどという,「作られた」流行は無かったということです.ははは・・・だまされちゃいけないよ・・
ゲンボー先生より
縄文時代の暮らしの事で質問があります。
僕が読んだ本には、弥生時代には環濠集落ができていたと書いてあったのですが、縄文時代にはそのような物はなかったのですか?
ゲンボー先生
すごいね,環濠集落をしっているなんて.
答から先に言うと「ありません」
なぜなら, 環濠集落は稲作が始まって,強者と弱者がうまれ,村どおしの争いや,国ごとの争いがおきた弥生時代の中期から後期のものだからです.
つまり戦争から村を守るための堀なんですね.
横浜市都筑区にある横浜私立博物館の横にある「大塚歳勝土遺跡」にはこの環濠が残っています.しかし関東地方では九州や近畿地方のような戦は無かったといわれています.
やがて次の時期には小さな国ができて,支配者の大きなお墓が作られるようになります.古墳時代です.
横浜私立博物館=横浜市営地下鉄「センター北駅」下車.徒歩7分.
ゲンボー先生より
縄文時代の家の形はなぜかわってきたのですか??
ゲンボー先生
メールをありがとう.良くそのことに気がつきました.
結論からいうと「わかりません」
円形-四角-円形-円形-四角?と変わっています.四角い家が円くなったり,円い家が四角くなると言うのは,劇的(げきてき=すごい)な変化です・・・
だって,現代の日本に円形の家に住んでいる人っていますか?それがぜ〜んぶ円形になっちゃうんだから,「謎」です?
君たちがその謎を解いてください.
ゲンボー先生より
注=ミクロネシアに行くと円形の家があります.なぜ家の形が円形になのか様々な理由がありますが,嵐に強いと言うことがあげられます.南洋は風も雨もはげしいのでそうなったという説があります.
食べ物のヒエなんですか
ゲンボー先生
鳥の餌にある,丸くて小さな黄色の粒々.あれです.
日本では明治時代,いや場所によっては昭和の初め頃までヒエを食べていた人がいました.ヒエはお米にまぜたり,お餅にして食べたようです.もちろん縄文時代の人もたべていましたよ.
ホームページの写真は穂についているところだから,ちょっと分かりにくいね.
ゲンボー先生より
質問なんですけど、家は何でできているんですか??
縄文時代には乗り物があったんですか??
ゲンボー先生
メールをありがとう.
家は木と木の皮や萱(かや=すすき)で作られていました.もちろん木で板も作っています.のこぎりも無い時代に板ですよ・・・それに柱と柱もみぞを掘って組み合わせていました.復元された住居ではナワで柱を縛っていますが,あんな原始的なものではありません.もっとちゃんとした家に住んでいたのです.
乗り物ね〜???多分無いでしょう.馬が日本に入ってくるのは古墳時代になってからです.でももしかしたら輿(こし)という人がかつぐ乗り物はあったかも知れない?
君たちが考古学者になって見つけてくれ!
ゲンボー先生より
旧石器時代で動物を食べていたそうですけど、どんな動物を食べてたんですか?
ゲンボー先生
日本では食べた動物の骨が見つかっていませんが,ヨーロッパでは,
野牛.鹿.熊.馬.象.サイなどです.もちろん植物も食べていましたよ.
日本の場合,多分,象.鹿.イノシシ.などです.というより世界中どこでも「食べられるもの」は何でも食べていたと思います.魚だってイルカだって鯨だってなんでもです.
ゲンボー先生より
縄文時代の人の食べ物は何種類ぐらいあったんですか?
ゲンボー先生
そりゃあ,今日本でとれる野生の草や魚,動物全てですから何万種類?先生のホームページに書いてあるのはホンのわずかだと思ってください.
それをどうやって食べたんだろうね?知りたいね・・・
ゲンボー先生より
縄文人は、どうやって寝ていたんですか?
ゲンボー先生
面白い質問だなあ.そうだよね,まっすぐ寝たのか,ひざを抱いて寝たのか・・・分かりません・・・というのも,住居はそんなに大きくは無いからです.
普通に考えたら今と同じ姿勢だと思います.なぜなら,死んだ人をお墓にうめた状態も,真直ぐに寝た姿勢が多いからです.でも中にはひざを抱いて座っている姿勢もありますから,地域や時期によってはひざ抱き寝のところもあったかもしれません.
はふとんは無かったので毛皮や布をかけて寝ていたと思います.
ゲンボー先生より
縄文人は、どうやって赤ちゃんを産んでいたんですか?
ゲンボー先生
産科のような病院のない時代です,さぞかし大変だったんでしょうね.でも多分お産婆さん(おさんばさん=お産を手伝う人)のような,出産を助ける女性がいたと思います.その人たちが「へその緒」を切ったり,お母さんや赤ちゃんの身体をきれいにしたりしたと思いますよ.
でも,出血や異常な出産の場合は,薬も輸血も手術も無い時代ですから,赤ちゃんやお母さんの死亡率も高かったと思います.大変な時代です.
それでも中には1人で生んで1人で処理した人もいたのでは,とも思います.ニューギニアというところでは今でも妊婦が自分で産屋(うぶや)という小屋を作って,1人で出産するという風習が残っています.すごいですね.えらいですね.
先生は男ですが,女の人が子供を産むということだけで尊敬しちゃいます.
ゲンボー先生より
トリカブトについておしえてください。
ゲンボー先生
おお,トリカブトかあ.トリカブトは写真のとおり紫色のとてもきれいな花を咲かせます.丹沢にある桧洞丸(ひのきのぼらまる)という山の山頂に沢山咲いていたのを見たことがあります.
トリカブトはその姿からは想像も出来ないほどの猛毒の植物です.毒のアルカロイドは根っこの丸い玉の部分にあります.これを食べたらイチコロです.アルカロイドは直接神経にきいて心臓をとめてしまうのです・・・おおこわ・・
縄文人はこの毒を矢にぬって狩りをしました.これは北海道のアイヌの人たちも同じです.彼等はこれで牛より大きなヒグマを殺してしまうのです.
これも生きていく上での縄文人の知恵なんですね.
ゲンボー先生より
縄文人の洋服は、どうやってうずまきなどの模様をつけたんですか?筆で模様を描いたんですか?それとも木の枝などの棒のようなもので描いたんですか?
ゲンボー先生
実物が残っていないので全く分かりません.あの絵は土偶(人形)から推測したものです.ただ布はありましたから,草木染めのように糸から染めて模様を織ったり,布に直接色つけたりということはあったはずですね.その時には木の枝の先をたたいてブラシのようにしたものや,ヘラのようなもので描いたと思います.
弥生人の脳も残っているくらいですから,そのうちきっと縄文時代の色のついた布が発見されると思います.
ゲンボー先生より
縄文人は馬鹿だとよく言いますが、僕は、頭の使い方(発想)が違うだけだと思います。本当のところはどうなんですか?教えて下さい。
ゲンボー先生
縄文人も現代人もともにホモサピエンスと言う同じ種類の人間です.確かに文字が無い,電気も無い,金属製品もありません.しかし, 木造建築の基本.漆塗り,織物,などなど彼等の技術は現代にも生かされています.というより今日の生活の基本に彼等の技術があるといってよいのです.もういちど ホームページを良く見てごらん.そのことが分かると思いますよ.
友だちと仲良くできたら嬉しいし,喧嘩したら腹も立つし.同じようなことで悲しみ,喜び,日々の生活を送っていました.
縄文人が馬鹿だと思っている人のほうがよっぽど遅れている人なのです.
ゲンボー先生より
あおい
ゆみ
Q1人が最初に火を使えるようになったのは、縄文時代からですか?
Q2どうやって火をおこしていたんですか?
へんじください
ゲンボー先生
メールをありがとう.
人が最初に火を使うようになったのは,今から50万年も前の事です.当時のヒトは今の我々とは種類が違います.私たちは新人といい学名をホモサピエンス.サピエンスといいます.
50万年前のヒトは原人といいます.学名はホモエレクタス(立って歩くヒトという意味)です.化石が発見された場所から,北京原人やジャワ原人とも呼ばれています.
この人達は火を使って肉を焼いていました.そのために口を動かす筋肉が退化して反対に話すための筋肉が発達してきました.ですから人類は火を使うようになってより一層,言葉を話すようになったといわれているのです.
火を使って料理すれば,食中毒にもなりにくいし食べ物も柔らかくなります.それに火をたいていれば恐い猛獣もおそってきません.
火が無ければ人類はこれほど早く進化しなかったと言われています.
ところで縄文人は私たちと同じ「新人」ですから,当然火を使っていました.火は木と木をこすり合わせたり,回転させたりしてその摩擦熱でつけていたようです.一度起こした火は消さないように大事にしてたんですよ.
縄文時代前期になると家の中には炉が作られました.こうすると暖房にもなるし,煙が出てその煙が虫を追い出したり,煙の成分に含まれているタールが防腐剤の役割をして家が長持ちするのです.
君も火をおこしてみてごらん.
ゲンボー先生より
縄文人は、髪の毛はどうやって切るんですか?
ゲンボー先生
黒曜石というガラスのような黒い石です.割りたての黒耀石はカミソリのようによく切れます.でも他にも竹の裂いたのや,鋭く研いだ磨製石器でも切れます.
ゲンボー先生より
1つの家に何人住んでいましたか?教えて下さい!
ゲンボー先生
色々な大きさがありますが,平均すると4〜5人といわれています.ちょっと窮屈でした.だから学者の中には横になって寝たのではなくて,ひざを抱えて座るようにして眠ったという説を唱える人もいます.
ゲンボー先生より
トリカブトで、獲物を殺して食べると、毒が体にまわって自分も死んでしまうのでは?
だ〜いじょうぶ.その動物を丸々食べたら分かりませんが,普通に食べる分には問題無いのです.自然の毒はダイオキシンやカドミウムのような人間が人工につくり出した毒とはそこが違うのです.
ちなみにトリカブトに含まれるアルカロイドは,少量だと心臓の薬になります.
ゲンボー先生より