豊郷北小学校 伊沙耶佳
ゲンボー先生こんにちは。二度目のお便りです。
この前はどうもありがとうございました。また質問なのですが、縄文人のアクセサリーについて、どのようなものがあったか教えてください。どうぞよろしくお願いします。
ゲンボー先生
おはよう!
縄文人のアクセサリーには
「たれかざり」(ペンダント)・「櫛」(くし)・「腕輪」(うでわ)・「耳飾り」(みみかざり)などがあります。
たれかざりは大小あって形も「円形」「楕円形」(だえんけい)「曲玉型」(まがたま、がた)など様々です。使われている石はおもに「硬玉」(こうぎょく)という石で、一般には「ヒスイ」と呼ばれています。ヒスイにはシロとミドリの二色があります。どちらもお日様にすかしてみるときれいです。
縄文人はミドリのヒスイを好んだように思われます。日本でヒスイがとれるのは新潟県と富山県のあいだを流れる糸魚川(いといがわ)だけです。北は北海道から、南は九州までひろくヒスイ製の玉が発見されているので、縄文時代にも広い範囲で交易があったことを物語っていますね・・・
たれ飾は男女がしていました。お守りのようなものかもしれませんね・・・
櫛は木製ですが、漆(うるし)をぬったものも数多く発見されています。縄文時代にはすでに漆塗りの技術があったということですね・・・これは女性のアクセサリーです。
腕輪には土器で作ったものと、貝で作ったものそれに漆を塗った木製のものとが発見されています。これも男女がつけていたものです。
耳飾りは「耳栓」(じせん)と呼ばれる、耳たぶに穴をあけてはめる円いものと、同じく耳たぶに穴をあけて差し込む石製の「けつ状耳飾り」があります。
ゲンボー先生
先生じょうもんのひとびとはどのような服装をしていたのですか?教えてください。できれば写真が あるとうれしいです。
ゲンボー先生
縄文時代と一言で言っても1万年間もつづいているので、はじめのころとあととではものすごく違っています。
共通して言えるのは、よく絵にかいてあるような毛皮を着てたり、コーヒー袋みたいなものをかぶっていたような遅れていたものではないということです。
縄文時代のはじめには骨や角で作ったりっぱな針がつくられていました。それも今の針のような細いものから、五寸釘(ごすんくぎ)くらいのまで、それは様々です・・・それほどの大小そろった針があるということは、ちゃんとした服があったことを表しています。
いまから約6千500年前くらいの縄文時代前期には地球全体があたたかくなって、農業が盛んになってきました。日本でもこの時代には畑で様々な作物が作られていたと思われます。
この時代の遺跡からは「組紐」(くみひも)が出ています。多分それは色がついていたと思われます。
残念ながら服が発見されていないので、「こうだ」とは言えませんが、ちゃんとした布をつくってそれをぬっていたのだと思います。
(左)長野県 栃原岩陰遺跡から発見された鹿角製のぬい針(約1万年前) (右)青森県山内丸山遺跡のぬい針(約6〜5千年前)
ゲンボー先生
メールをありがとう.縄文時代は約1万年間続きました・・その前の後期旧石器時代は5〜6万年続きました.そのもっと前の前期旧石器時代は4〜50万年も続きました.人間の進歩の歴史は中国や中東で,今から5千年前くらいから少しずつ速まり,18世紀の産業革命をきっかけに加速度的に進歩しました.
つまり人間の歴史は技術の歴史なのです.
縄文時代の技術は現代の基盤を作ったものばかりですが,とてもシンプルでした.戦争もないし,平和な時代が続いたのです.長い間には温かくなったり寒かなったりもしましたが,人口も少なかったため,食料に困ることもありませんでした(早期=いちばん古い時期,を除いて).
そんなわけで,社会の組織も上下関係はなく発達していません・・ですから,なが〜〜〜〜〜〜〜〜く続いたのです.
弥生時代になって本格的にお米の生産が始まると,貧富の差が出てきて急速に社会が変化します.戦争もおきるようになりました・・時代はどんどん早く変わるようになってきたのです.・・君はどっちがいいかな??
ところで泰幸君は何年生ですか?低学年だったらこの文章は難しいね・・その時は保護者の方に説明してもらってください.
またメールをくださいね・・
縄文の化粧をしりたいのですが、教えてくださいませんか?できれば「絵」があれば良いのですが、お願いします。
ゲンボー先生
メールをありがとう.縄文時代にどのような化粧があったか記録が残っていないので分かりません.しかし,発掘で出てきた資料をもとに推測することは可能です.
縄文時代の後期(今から3500年くらい前)の土偶に「いれずみ」と思われるものがあります.ですから顔に赤や青のスジや点々のいれずみがあったかもしれません.
また,植物からとった染料(せんりょう=色をつける材料)や石や岩や泥から作った「顔料」(がんりょう)はあったと思われるので,そうしたものでお化粧したかもしれません.
いずれにしても実物がないので絵もありません.
また,この時代のお化粧がいまのようにおしゃれでしているのではなくて,「成人したから」とか,「お祭りだから」という時にしたと考えるのが普通です.
縄文人はアクセサリーはしていましたよ.「うるしぬりのクシ」や「かんざし」「耳飾り」「首飾り」はたくさん発見されています.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう.
さて縄文時代のお米ですが「わからない」というのが答えです.それは「お米」そのものが縄文時代の遺跡から発見されていないからです.今見つかっているのは縄文時代前期(6千年以上前)の土器の中にあった「プラントオパール」という稲の細胞の一部と,縄文時代の一番最後の時期の炭になったお米しかありません.
ただ,推測すると「ジャポニカ型」といわれる短いお米(今と同じ)が中心だっただろうということだけなのです.
色は多分白や赤や紫がごちゃ混ぜだった・・と考えられています.いずれにしても水田で大々的に作られていたのではなく,畑で他の作物と一緒に作られていたというのがおおかたの見方です.
しかし,今後はあらたな発見があるかもしれません・・・
質問その1 縄文時代の人達は、どのようにしてお米を保存していたんですか?!
質問その2 とれたお米は、何処に保存していたんですか?!
答えてください.お願いします
ゲンボー先生
お米の保存方法は全く分かっていませんが,乾燥させてネズミなどの害獣や害虫に食べられないように工夫していたと思います.
縄文時代にも高床式の倉がありましたからおそらくそうしたところに保管していたと思います.三内丸山遺跡の倉の写真を送ります.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
もちろん縄文人も私たち同じように言葉をしゃべっていました.彼らはホモサピエンスですから我々と全く同じ人間なのです.ただし,文字が残っていないために具体的にどのような言葉を話していたかは定かではありません.しかし,いくつか・・多分・・このような発音でこのように話していただろうというものもあります.
http://www.capa.ne.jp/a-bank/maruyama/language/にその例があるので見てください.
現代語のHの発音はPだったようです.これは以前からわかっていたことで,縄文人の顔の骨格からみちびきだしたものです.
タイムマシーンがあったら先生も縄文人と会話したいと思います.
ゲンボー先生
横浜市立並木第四小学校 梨花子
ゲンボー先生
梨花子さん.メールをありがとう.縄文時代と弥生時代では食べるものはあまりかわりません.
シカやイノシシをとって食べたり.栗やトチの実などの木の実.海や川にいるお魚.畑で作ったイモ(サトイモ)やアワやヒエ,ソバにお米です.
しかし,弥生時代になると新しい食べ物が中国や朝鮮からわたってきたのと,お米の量が増えました.
新しい食べ物とは「にわとり」と「ぶた」です.つまり「家畜」(かちく)ですね,豚はもしかしたら縄文時代からイノシシを飼っていたかもしれないのですが,しょうこがみつかっていません.
お米の量が増えたのは水田を作るようになったからです.それまで畑で細々と作られていた稲は,水田の技術が入るととても盛んになりました.
やがて,村の力はお米のできる量によってきまるようになり,強い村が弱い村を支配して国ができていったのです.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう・・ディベートに間に合うかな・・・
弥生時代は水田による稲作が始まった時代です.村が大きくなり,となりむらとの争いなども九州や近畿地方を中心に行われました.
お米が出来る量によって貧富の差がうまれ「支配する人」と「支配される人」が生まれました.戦争に負けると「どれい」にされてしまいました.こうして書くと「良いことなんか無い」時代に思えちゃいますね・・・しかし,大きな戦争は東日本では起きなかったし,大部分の人は平和に暮らしていたのです.
やがて古墳時代になると王があらわれ,大和朝廷の王が全国の王を従えました.それから飛鳥時代になって国の形ができあがり,奈良・平安・鎌倉・室町・戦国・江戸・明治・・・ときて今日があります.このうちのどれが欠けても,今の日本はありませんでした.
弥生時代はそのなかでも,本格的な農業が行われたという点からとても大切な時代だったということが出来ます.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう.
縄文時代には会社もないし,学校もないし,いつまでに何をしなくてはならないというものもありません.また,今のように温室もなければ,外国からの輸入もないので,季節に応じた生活をしていました.
春になれば,山野に植物の新しい芽が出てきます.食べられる野草をとってそれを料理して食べます.たくさんとれれば乾燥させたり塩漬けにして保存します.最近の研究では畑もあったらしいので,畑をたがやして野菜の種をまきます.サトイモはもっとも大切な作物ですからそのタネイモを畑にうめました.山ではシカやイノシシ,山鳥などの猟がおこなわれ,海や川では魚をとりました.
こうした生活は夏も続き,やがて秋になると冬を越すための保存食作りがさかんに行われます.捕れた魚や動物の肉はクンセイや干物,塩漬けにし,野菜も干したり漬け物にされました.
子供たちはこうした大人の仕事を手伝いながら,様々な技術を身につけていきました.収穫の時にはお祭りもあったでしょうね・・・人が死ねばお葬式もありました.
また,村の特産物を持って遠くの村へ行き「ぶつぶつこうかん」も行われていたと思います.もしかしたら男女ともにいれずみをしていたかもしれません.また,えらい人はヒスイというきれいな石で出来た首飾りをつけていました.
木でおわんやお皿を作ったり,それにウルシを塗ったり,舟を作ったり,家を造ったり・・生活に必要なことはみんなと協力しながら自分たちの手で行っていたのです.
ゲンボー先生
「縄文化粧」について教えてください。どのようなものを使って、どのような化粧をしていたのですか?男女ともしていたのでしょうか?身分の違いなどもあったのですか? 小学6年 男子
ゲンボー先生
メールをありがとう.
残念ながら縄文人の遺体はすべて骨になってしまっているのでどんなお化粧をしていたのかは分かりません.
しかし,土偶という土で出来たお人形や,次の時代の弥生時代の中国の書物に書かれていた日本人のお化粧のことから考えると,入れ墨をしていたらしいことが分かってきました.顔にたてながのすじを入れたり,口の周りを青黒くしていたのだと思います.
あとお化粧ではありませんが,歯をギザギザにしたり抜いちゃったり,耳に穴をあけて大きな耳飾りを入れたりもしていました.男女の違いはちょっと分かりませんが,歳をとった女の人で体中に飾りを付けていた例がありました.タイムマシーンがあったら先生も見たいなあと思います.
ゲンボー先生
ゲンボー先生
メールをありがとう.面白い質問ですね・・
まずね,縄文時代には戦争がありません.となりの村どうし仲良くやっていたということですね.それは貝塚やお墓から出てくる人の骨で分かります.ヤリや弓矢で殺された人の骨がないからです.ところが次の弥生時代になると矢がいっぱい刺さった骨や首がない骨など,戦争で死んだ人の骨がいくつも発見されているのです.
また,体の不自由な人を助けています.手足が動かない状態で成人まで生きた人や,足の骨が折れたままで生活していた人の骨が見つかっているからです.そうした人は狩りや漁が出来ないので人に頼るしかないからです.
縄文人は今より自然の中で生活しているので自然を大切にしています.たとえば狩りもメスや子供の動物は出来るだけとらないようにしています.それは取りすぎてその動物が減らないようにするためなのです.
今の人より寿命は短いのですが,ゆったりした時間の中で人間らしい生活を送っていたのではないかと先生は思います.
ゲンボー先生
弥生時代になって米作りが始まって人々の中には、どのような決まり(ルール)があったのだろうか?
ゲンボー先生
あゆみさん,メールをありがとう.
縄文時代にもルールはありました.しかしどんなルールかは文字がなかったので記録がないのです.貝塚などの遺物をみてみると,子供やメスの動物は少ないことから,とりすぎて減らないような工夫がされていたらしいことが分かります.
弥生時代になると身分の上下が出来て,下の者は目上の者がくるとひざまずいたりしたと魏志倭人伝(ぎしわじんでん)という本に書いてあります.
稲作に関するルールや戦争のルールなどもあったかもしれませんね・・・
ゲンボー先生
縄文人の、平均年齢は、だいたい、どれくらいだったのか教えてもらえませんか?よろしくお願いします。
ゲンボー先生
美景さん,メールをありがとう.
日本各地から縄文人のお墓が発見されて平均的な寿命が分かっています.それによると35歳から40歳くらいと言われています.現代から考えればずいぶん早死にですね.それは当時には病院や良き効く薬が無かったからです.けがも多かったし病気も多かった時代ですから,今なら助かる人も死んじゃったわけなんですね・・
しかし,中には60歳とか70歳くらいの人もいたり,けが人や病人をみんなで介護していたことも分かってきました.薬は薬草がありましたが,それ以外にお祈りもありました.縄文人も限られた範囲の中で精一杯人の命を守ろうとしていたのですよ.
ゲンボ−先生
メールをありがとう.同じしつもんをした人がいますので,いっしょにこたえます.
マッチやライターがはつ明されるまで,火のおこし方は世界に二つしかありませんでした. 一つは「打撃式」( だげきしき)といって火うち石をつかう方法.もう一つは「摩擦式」(まさつしき)で,木や竹をこすって火をおこす方法です.
日本では木のぼう板の上でをまわして火をつける,回転摩擦式(かいてんまさつしき)がいちばん古い方法と考えられています.じょうもん時代の人もそして火をおこしました.つまり「火きり木」と「火きり板」を使って火をおこす方法です.じょうもん時代より新しい, かまくら時代のものですが先生のホームページに実ぶつの写真があります.
火打ち石を使った打撃式は「なら時代」にはじまったと言われています.
かまくら時代ごろになると「火打ち石」を使った火のおこし方が広まります.この時代の絵の中にしばしば男の人がこしから「火打ちぶくろ」を下げているものがあるからです.火打ち袋の中には火をおこす道具が入っているものと思われます.つまり「火打ち石」と「火打ちがね」それに「火口」(ほぐち)の3点セットと,「うつし木」ですね.
火打ち石のしゅるいですが,日本ではチャートと呼ばれる石か石英(せきえい)と呼ばれる水晶(すいしょう)のなかまが多かったようです.この他にメノウやサヌカイトと呼ばれる石もあります.
これらの石と火打ち金をたたき合わせると火花が出ます.この火花を,ほぐすと綿のようになる「ガマのほ」などの火口に落とし火をおこすというわけですね. 「うつし木」にはうすくくけずった木を使います.こうして灯心やカマドに火を入れたわけです.
明治時代になるとマッチが輸入され,またたくまに日本中に広まりました.そのマッチも今ではほとんどがライターかになってしまいましたね.君たちはマッチをすったことがありますか?
ゲンボ−先生
ゲンボ−先生
彩華さん.メールをありがとうございました.ご返事が遅れて大変に申し訳ありません.
翡翠は玉ともいい中国では支配者の持つ神器や宝器の素材として有名です.特に中国ではホウタンの翡翠が珍重され,白いものが好まれました.
日本では縄文時代の後期ごろ(BC3500)から,糸魚川の支流である姫川産の翡翠製品が多く作られました.日本人のご先祖様は白より緑色に惹かれたようです.縄文時代における翡翠製品は石に穴を穿った「原始勾玉」や「大珠」などが有名です.
これらの製品は物々交換で日本中に広まりましたが,どこで加工されたかは不明です.全体の形は砥石で整形され,その後細かい目の石で磨かれたようです.
穴については諸説ありますが砂中にある石英末を使ったとか,同じ硬度の翡翠の粉を使ったとか言われています.金剛砂が使われるようになったのは弥生時代から古墳時代にかけてですから,それ以前の縄文時代では硬度の問題から石英や翡翠そのものが使われたと思います.
一カ所くぼみが出来てしまえば,あとは堅い粉末を入れながら木や竹の棒を回転させれば穴はあくと思います.しかしこれにはずいぶん根気がいりますね.
私も一つ持っていますが,太陽に透かしてみると白い雲のような部分に,美しい緑色がかかっています. これを持っていた縄文時代の人も同じように見ていただろうと想像すると胸がワクワクしてきます.そして穿たれた穴を見ると,これを作った人の思いが伝わってきます.
彩華さんは実際に玉製品を作られるのですか?
ゲンボ−先生
味佳さん.メールをありがとう.
縄文時代と言っても1万年も続いた時代です.古い縄文時代のお米の形は分かっていませんが, 今から6千年前の縄文時代前期にお米があったらしいことは分かっています.ではなぜ,お米があったことが分かるのか・・と言いますと,プラントオパールという稲の仲間の植物が持っている特別な細胞(さいぼう)が,縄文時代前期の土器の中から発見されたからなのです.
はっきりとお米が残っているのは縄文時代晩期と言って一番新しい時期のものです.
そのお米の形は今の日本のお米の形とよく似ています.丸っこいジャポニカ種とよばれるおこめですが,ほんの少し今より小さかったようです.写真を送りますからよく見てくださいね・・
色が黒いのはこげて炭になっているからです.そうでないとお米は土の中で残ることはできないのです.
写真のお米は家が火事になって残っていたもので..今から約2千5百年前のものです.
ゲンボー先生
ゲンボ−先生
メールをありがとうございます.
ご質問の糸玉は新潟県の青田遺跡から出土したものです.糸に朱が塗ってありましたが,正確な用途は不明です.いくつか考えられることとして,矢羽の固定,弓の先端部,および握り部分の補強,その他装飾品や工芸品などがあります.
縄文時代のはじめからに糸があったことは,これまでにも貝塚から出土していた多量の骨角製の針などから分かっていたことですが,低湿地遺跡であるという点,漆がかかっていたという二つの偶然が重なって奇跡的に残っていたものです.
※貝塚ではありませんが,日本最古の針の例です.参考にどうぞ.
http://www1.ocn.ne.jp/~kitaaiki/museum/muse/mus.htm
青田遺跡にも通常の縫い物に使用された糸もあったでしょうが,それらは残っていませんでした.今後さらに発見が進めば,青田遺跡と同様な低湿地遺跡から発見される可能性はあります.
さて,糸の原料ですが「カラムシ」(苧麻)から作られる「麻糸」,シナノキの内皮などの樹皮があります.魏志倭人伝の記述や吉野ヶ里の遺物から,弥生時代にはかなり高度な絹織物が作られていたことが分かっていますので,縄文時代にも天蚕等から絹が作られていたことは容易に想像できることと思います.あとは「いつ」発見されるか・・です.
土器や石器というごく一部の遺物からでしか想像できなかった縄文時代は,鳥浜貝塚・真脇貝塚・三内丸山・御所野・青田・桜町といった相次ぐ遺跡の発見によって,かなり高度な技術を持っていたことが分かってきました.髭もじゃもじゃで毛皮をかぶっていた縄文人は,色とりどりの模様の服に着替えつつあります.
ゲンボ−先生
メールをありがとう。
今でも寒い地方と暖かい地方では生活が大きくちがうのとおなじように、縄文時代も生活に差がありました。ところで、縄文時代前期や中期、後期は今より暖かかったので、そのことを覚えていてください。
縄文時代の遺跡は日本中から出てきます。今より寒かった早期は九州など南の地方に大きな遺跡があります。ところが、今よりもず〜っと暖かかった前期には日本海側や東北地方に大きな遺跡がありました。中期には関東地方や中部地方が中心でした。このことから分かるように、年間の平均気温が18度前後の場所が暮らしやすかったことが分かります。
それは、落葉広葉樹林(らくようこうようじゅりん)という木の実をいっぱい実らせる森林があるところですし、農耕をするには都合の良い気温と言うことになります。(今では縄文時代に原始的な農耕があったと言われています)
しかし、いつの時代にもそうでないところに住む人はいるわけで、寒い地域では服だって防寒着があるし、雪深いところでは雪靴やそりなどが使われていました。食料の保存も冬の間は雪室(ゆきむろ)などを作っていたと思われます。
反対に暖かいところでは、防寒着はそんなに厚手でなくても良いし、雪室などありません。家の作り方も違っているはずです。それに、生えている植物も異なるしとれる動物も異なります。
しかし、人間はどんな環境にも慣れて生きていくことができる動物ですから、その地域にあった生活を行ってきたのです。これから、もっとたくさんの遺跡が発見されると、もっとくわしいことが分かるようになります。
ゲンボー先生