玉川大学図書館長 玉川大学農学部教授 片岡 勝美
目次 静岡はユニークだ お宅の食事 日本人の食い物 なぜ静岡なのか お雑煮から見る東西の接点 味噌にもある東西の違い あなたの家は「おむすび」?「おにぎり」? 山の文化海の文化 HOMEお米の学習ページにもどる
静岡はユニークだ・・・静岡県は日本のほぼ中央に位置し,海岸線から山岳地帯までと変化にとんだ地であり,また温暖地から寒冷地までといろいろな文化が混在しているという,とてもユニークな地でもあります.実をいいますと静岡は私の生まれ育った地でもあります.私は浜名湖の近くの新居町に生まれ,小学校から中学校までを天竜川をさかのぼった佐久間ダムに近い,山ぶかい山村の磐田郡山香村で暮らしました.その地は,信州の松本にも近く,愛知の三河にも近く,さらに平家の落人が住み着いていた磐田郡水窪にも近いところであります.いわゆる遠州の国の最北にあたります.
お宅の食事 目次
さて皆さんは,ご自宅での食事のスタィルが何風であるのか,どこにルーツがあるのかをお考えになったことがありますか.お父様も,お母様も同郷の人ならば,それは何の疑いもなく同じルーツどなるでしょうが,お父様が,東北出身で,お母様が,間西出身であったりしますと,食事の献立ゃ作り方にそれでれの個性が出て新しい食文化が誕生することになるのでしょう.それはそれで楽しい食事になることでしょうし,何の問題もありまでん.しかしお父様風にするか,お母様風にするかは,時間をかけて徐々にできあかって行くことになるでしょう.そんな時,それぞれの主張のベースになるのは,子供の頃に食べていたスタィルがもととなってお互いの主張がされていることに気付くことでしょう.それが,お袋の味ということになるのでしょうか.
今日のょうに日本人の食生活が安定したのは,皆様もご存じのょうに実ここ20年ほどのことでありまして,それ以前はと言いますと普通の庶民が,白いご飯をいつも食べていたわけではありません.お米の増産を国として本格的に始めたのは百年ほど前のことで,お米が安定供給されるょうになったのは,ゃっと昭和三十年の後半の頃からです.したがってごく最近のことであります.その頃になって高度経済成長の波に乗り,食卓が急激に華やかとなり,食事も多様化時代へとなりました.またその頃に日本人が今まで味わったことのないょうな食べ物も輸入されるょうになり,インスタント食品のような合成味付けの食品がでまわるようにもなりまして,伝統的な日本の味が忘れ去られ,あまつさえ無くなって行くようにもなりました.しかし量的な満足は,質的な欲求となって味にもこだわるようになりました.加工食品から自然食品への要求が高まって来ました.お米にしてもコシヒカリゃササシキに代表されるょうなうまい米が求められるょうになり,日本中の水田が,コシヒカリやササシキの一色になってしましました.コシヒカリやササシキで上手に炊いたご飯は,光沢があり,粘り強く,柔らかく本来持っていた繊細な日本人の味覚を呼び戻してくれたょうでもあります.では日本人は,本来どのような食文化を持っていたのでしょうか.
日本人の食い物(歴史編)サトイモがキーワード 目次
日本と言う国ができたのが今から1万年と仮定し,渡来人にょってもたらされた弥生文化の導入が約二千年前といたしますと,その前に八千年があるわけであります.この時期に東洋の外れの小さな島に日本という国が誕生したのであります.そこには,当然人の営みがあった訳でありますので,それなりの文北が存在していたことでありましょう.ところがこの国の西の方で新しい文化を持った弥生人が,徐々に勢力を蓄えて,やがて豪族となり,その豪族の中心的人物が天皇となって国家統一を成し遂げて行くことになります.その勢力は,東に移り大和国家の成立へとなって行きます.いわいる東遷であります.それは,渡来人にょってもたらせれたイネが北九州から瀬戸内に入り,太平洋沿岸を東に進んで行くのと同じくしています.この弥生文化人が,その後の日本文化を造りだして行くのでありますが,しかしこの勢カが,日本の総てを急速に新たな弥生文化圏にしたわけではなく,相変わらず東の方では,縄文文化のままで営みを続けていた地帯も多かった訳であります.今日的にも相変わらず西と東では文化が微妙に異なり,何から何まで総てが新しく取り変わった訳ではなく,この国の幾つかの文化が,混じり合い,新しい文化を造りだし,あるいは淘汰されながら今日の文化を造りあげたてきたのでありましょう.その東と西の接点を探ることが,この国の文化を知る道しるべになるかもしれません.
東南アジアから日本の神奈川県ぐらいまでを含む西南暖地を照葉樹林帯と言い,カシゃクスノキの木などを主体とした温帯性常緑森林帯を形成しています.この地帯は,基本的には似通った食文化を持っていることが知られています.日本の農業形態は,紀元前三百年頃のイネの伝来によって焼畑農業から水田農業へと変化していきます.こうした変遷の中で照葉樹林帯文化は,独自性を失い,今日では一部を残して殆どが消滅してしまいました.照葉樹林帯の中でワラビ,クズ,ヤマノイモや木の実の採集時代からサトイモ,コンニャクあるいはモロコシ,キビ,シコクビエ,ヒエ,アワ,ハトムギの栽培化の時代となり,焼畑農業または山岳農業が始まりだしたものと推定されます.いわいるイネ作以前の農業と言うことになります.その後,収量が高く,大粒で扱い易いイネ,オオムギ,コムギ,ソバ,ダイズ等が次々と大陸から,あるいは朝鮮半島から伝播され,農業は,焼畑農業から本格的な平地農業へと移っていきます.こうした作物の中で日本人が常食として選んだコメは,世界のコメの中でも一番粘り気の高く,むしろ「モチゴメ」に近い「ウルチマイ」でありました.もともと中国でも初期にはモチゴメを食べていたょうでありますが,後漢以後に北方民族が入り込んできてから生育期間の短い早生で,収量性の高いウルチマイになったとされています.モチゴメは,収量が低いが,味が良く,腹持ちも良いところから好まれたのかも知れません.最初に粘りのあるモチゴメを選んだのは,焼畑農業の主体であったサトイモの粘りに慣れていたからかも知れません.イモの仲問の中でサトイモだけが,湯がいても粘りが残るイモであります.こうして縄文文化の名残を残したコメを選んだ訳でありますが,コメは,それ自体味が良く,栄養的にも優れており,単独食品としても優れていますので,ともすると食文化を単調にしがちであります.こんなことがカロリー重視の西洋料理と此べて日本料理は,目でも楽しむことかできる料理に発達したのではないでしょうか.イネを中心とした弥生文化は,鉄器も導入され,それまでの縄文文化を塗り替えて行くことになります.イネが,青森までたどり着いたのは鎌倉時代の頃であります.その間,東日本では,相変わらず縄文文化圏であった訳であります.ドングリやシイ等の木の実,ワラビ等の山菜あるいはクズ等が豊富にとれたこの地帯は,むしろ西日本に負けないくらい豊かな食糧に恵まれていたていたかもしれません.さらになによりも秋になると,どの川にも大きなサケが上ってきて容易に捕獲でき,食生活を安定させていたことが想像されます.イネを伴った弥生文化は,次第に縄文文化と同化しながら東に進んで行くわけでありますが,しかし縄文文化の名残は,今になるまで厳然と残されていますし,それは,東日本に多く残されているょうにも思われます.では,どこまでが西日本風なの,どこからが東日本風なのか,その接点を探ることは容易なことではありませんが,大正期から昭和初期の時代の食事の形態から幾つかの事例を断片的ではありますが,指摘してみたいと思います.
なぜ静岡なのか 目次
そこで取り上げたのが,静岡であります.太平洋浴岸の中心地帯は,静両の長い海岸線であります.海上は,船による東西交流の要路であり,伊豆半島の最南端の下田は,古くから船の風待ち港としてて知られ,志摩半島とともに東西文化の中継点として重要な拠点でもありました.当然陸路としての海岸線,すなち東海道は,文化の行き交うシルクロードでもありました.したがってこの地が,東西文化の接点となるべき地として浮かんできます.静岡県は,背中に南アルプス,さらに富士山を背負う山岳地帯,その裾野を形成する中山間地帯,さらにその下に平野地帯が広がります.その長い海岸線には,登呂遺跡に代表されるょうに古くからイネが栽培されていた水田地帯があります.まさしく山岳農業と平地農業が存在しています.また伊豆半鳥の海岸線や浜名湖では,早くから漁業が発達していました.このことからも温暖な地に早くから取り入れられた水田農業と厳しい寒冷地での山岳農業,言い換えれば弥生文化と縄文文化が,近年まで共存していた地域ということになります.また静岡県には,天竜川,大井川、安倍川そして富士川といった大きな河があり,河川に伴う文化が育つことにもなりますが,一方では,この河が,東西文化交流の大きな障害にもなっていました.有名な越すに越されぬ大井川の川支えであります.旅人は,川支えのため長い逗留を余儀なくされたり,また路銀を使い果たして,仕方なくこの地に住み着いた者も居たことでしょう.この地で西の文化と東の文化が入り混じったことが想像されます.東の背開き鰻と関西の腹開きまむし,関東の濃い味と関西の薄い味等あげれば限りがありません.
お雑煮から見る東西の接点 目次
祭事ゃ祝い事のしきたりには,比較的に古い習慣が残されています.例えば,晴れ食でありますが,お正月のお雑煮に使うお餅の形には地方にょってその特徴を残しています.代表的なものには,関東の切り餅と関西の丸餅であります.静岡は,切り餅圏でありますので,関東風であります.ただし,面白いことに大井川の下流の一部の地帯に丸餅を食べているところがあります.川支えで関西風が残ってしまったのでしょうか.お雑煮の作り方ですが,聞東風は,お餅を焼いて入れますから,汁は,お澄ましです.関西風は,そのままお餅を人れて煮てしまいますから,汁は,濁りです.太井川を越えてかなり東部までの海岸線でそのまま煮てしまう問西風がほとんどであります.餅の形片は関東風でありますが,お雑煮の作り方は,関西風であるところが興味深いところです.伊豆では,ほとんどが焼いて入れる関東風であります.山間部ゃ中山間地帯では,焼いて入れる,そのまま入れて煮るが混在しているょうであります.イネが遅れて入ったこれらの地帯は,関東風と関西風が入り混じっているのでしょうか.
またお雑煮の具でありますが,主に京菜を使う地帯とサトイモを使う地帯があります.海岸線地帯は,大方京菜を使っています.サトイモを主としている地帯は,山間部で,京菜とサトイモの両方を使うのは,中山間地帯であります.山間部では,サトイモの方がお餅より重要視される傾向も見られ,サトイモが,お正月料理の主役をなしていることもあります.まさしく伝統的な照葉樹林帯の食文北が残されていることになります.例えば,各々の家では,一年中常にサトイモが煮てあり,醤油ゃ味噌で味付けしながら食べていたりして,近年まで食生活の中心的な食べ物とての地位を占めていました.
味噌にもある東西の違い 目次
味噌は,コメ味噌,ムギ味措,コメ・ムギ味噌とダイズ味噌に分かれますが,海岸線は,ほとんどがコメ味噌であります.山間部ゃ中山間部は,畑作中心ですのでムギ味噌かコメ・ムギ味噌であります.ところうがダイズ味噌は,有名な八丁味噌がありますが,これは,西部の愛知県ょりの地帯でしか食べいなかったょうであります.少々渋みのある赤味嗜であります.こうした普通の味噌の他になめ味噌の類いで金山寺味噌あるいは納豆があり,いまだに観光地などでお土産として売られています.金山寺味噌は,大井川より東部での呼び名であり,西部では金山寺納豆と呼んでいます.静岡では,ほどんどの地帯で食べられていますが,東部では,やや少なくなる傾向が見られます.このなめ味噌あるいは納豆は,暖かいご飯に添えて食べるとか,冷たいご飯に添えて熱いお茶をかけてお茶債けとして日常的に食べています.製法は,ダイズ,コムギまたはオオムギが材料で,コメ麹を使います.これにショウガ,トウガン,ナス,シソの実等を加えることががあります.またさらにコメを入れたり,入れなかったりするのは海岸部と山間部との違いであります.おコメを入れますと味がまろやかになります.これとは別にこちらの方が正統派と言ってもいいのかもしれないのが,浜名納豆であります.これは,静岡でも金山寺味噌のょうには広がりませんでしたが,ダイズ材料にしでダイズ麹で作るものです.関東の糸引き納豆と同じであります.ただし糸引き納豆のょうに粘つくことない乾燥納豆であります.子供の頃に食べた記憶では,やたらに塩辛くて,まずかったような気がいたしました.静両で糸引き納豆を食べていたのは,大井川以東でありまして,むしろ神奈川県よりの地帯だけであります.中部,西部ではほとんど食べていなかったようです.私も東京へ出て来て下宿の初日の朝食の食卓に出され初めて食することになり,何と奇妙なものであろうかと思ったものでした.しかし関東の人達は,これを喜々として食しており,内心びっくりしたことをいまだに覚えています.これだけは,食べるには食べますが,苦手の一つであります.浜名湖の付近で食べていたところがあるようですが,これは,後に住み着いた人達によって持ち込まれたようであります.金山寺味噌,浜名納豆と糸引き納豆の分布が,東西食文化の接点を表すのによく用いられますが,この食品ほど東西食文化を明確にしているものはありません.
あなたの家は「おむすび」?「おにぎり」? 目次
関西と関東の違いにもう一つ特徴的なものがあります.「おむすび」と呼ぶのか「おにぎり」と呼ぶのか,三角型なのか,丸型なのか,俵型なのかでありまず.小学校の頃の遠足のお弁当を思い出して見て下さい.静岡では,天竜川以東ではほとんどが「おむすび」で関東風でありますが,天竜川以西では「おにぎり」と言ったり,焼っ飯と言ったり,焼き飯とか言ったりして,関西風であります.形は,大井川以西で三角型が多く,以東では,丸型が多いょうです.天竜川の上流の県北で俵型の所もあります.
どうやら静岡の食文化の中には,関西風と関東風が幾つかの点で接点を持っていることか明らかなようです.しかも僅かに残る照葉樹林帯の名残も伺われるようであります.ここには,山間農業と平地農業,さらには漁業があり,変化に富んだ生活様式が存在していたところに西の文化と東の文化が人為的に入り交じり,日本の食文化発展の推移の縮図を呈示したことになります.
もう少し静岡の食文化を見てみたいと思います.
山の文化・海の文化 目次
標高三千メートル級の南アルプスの赤石岳の南端に位置する県北の山間部は,苛酷の条件の中に早くから人が住み着き,山菜取りをしながら焼畑農業でサトイモ,コンニャクあるいはムギ類,ソバ,ダイズ等を細々と栽培しながら生活をしていたょうであります.またこの地帯は,古くから信州や三河に抜ける交流地点でもあり,戦略的にも重要視され人の交流かなされているところから,その影響をうけて独特な山間食文化を作り出すと同時に近年まで照葉樹林帯文化をかなり強く残して来た地帯でもあります.
同じ山間部の富士出麓でも山菜取りと焼畑農業を営んでいましたが,こちらは比較的海に近いこともあって霧がかかり易く農業生産力がかなり抵く,本格的な農業は,明治以後の入植者にょってなされたのが現状です.この地帯は甲府の影響をかなり受けているようであります.甲府から入った「ほうとう」と言う煮込みうどんは,鉄鍋を使ってサトイモ,ダイコン,ニンジン,ネギ,青菜,油揚等の具をたっぷり入れて味噌ゃ醤油で味付けをする独特のものであります.太めのうどんをあらかじめ湯がかないで直接鍋に入れて煮込みます.そのため汁は,関西のうどんが薄味の澄ましであるのに対して,こちらは濁りとなり,独特なうどんとなります.これも関東風のうどんとして興味あることです.この地帯の人々は,「ほうとう」ほどうまいものはないと信じ,各家で味を自慢しあっています.静岡のお茶は,実はこの山間部から始まって,次第に平地部へと広がって行きました.静岡のお茶は,古くから「万民のもの」であり,上下の隔たりなく飲むものとされていました.他の藩とは,違って庶民の食生活の中に「お茶の子」,「お茶漬け」として取り入れられていました.中山間部の農業もまた山間部と同様でありましたが,収量的には抵かったもののイネ栽培ができ,山間部と異なった食文化が生まれました.しかしここでは,いかにコメを食いつなぐかが問題であり,そのためには焼畑でのサトイモや雑穀が頼りであったようであります.山間部から始まったお茶が近世から栽培されるようになって,ゃがて特産地となってやっと生活が落ち着きだしたとされています.
ミカンの栽培は,明治の初めの頃にこの地帯の清水市庵原郡から始まり特産地となり,昭和十年頃には,紀州を上回る生産高になり,ますます生活が豊かになりました.平野部での農業は,温暖な気候のもとでイネ栽培が中心となりますが,海岸線の漁業も発達してかなり豊かな食文化を持っことができました.しかしイネ栽培にとって温暖ではあるが,必ずしも好条件ではなく,海洋性気候のため夜温が高く,高収量を得るところまでにはなりませんでした.そこで暖かいことを利用していろいろな野菜栽培がされるようになり,それがまた豊かな食文化を持つことになりました.海岸の日照を利用しての石垣イチゴは,有名で,まさしく施設園芸の発祥地となりました.これが,野菜作りの伝統となり,日本でも有数な施設園芸地帯となって今日に引き継がれていることはご存じのとうりであります.伊豆は,温暖であるけれども,険しい岩山の小さな入り江での生活であり,近年まで決して豊かな食生活ではなかったようであります.海洋交通の拠点であったところから志摩半島からテングサや伊勢エビの漁業技術が伝わり,それが広かったことで人々の生活がどうやらできるょうになったょうです.山間での小さな面積の段々畑を耕してキヌザヤエンドウなどを栽培する生活をしていましたけれども,とても一年間を食いつなげるょうな食糧は得られない状況でした.漁業も遠洋に出るょうなこともなかったょうです.しかし集落の人達は共同体意識が進んでおり,集落の人達が総出でイルカ漁ゃクジラ漁をする漁法が発達しました.
私達日本人が現在のような飽食の時代となったのは歴史的見ればここ三十年程のことで,長い歴史的なことからみればわずかな時間であります.最近の地球環境の変化からすると,いつまた食料危機の時代になるかもしれません.現在を大切にすると同時に,未来にもこの幸いを伝えて行く努力をしたいものです.これは私達の責任でもあります.若い皆さんにお願いしてお話しを終わりたいと思います.ありがとうございました.
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