じょうべのま遺跡は北陸本線の「入善」から徒歩15分ほどの日本海に面した水田地帯の中にありました.西は海,東は山ですが,豊かな平野が広がっています.ここに平安時代から鎌倉時代まで続いた「荘園管理所」つまり庄所遺跡があります.
遠くに日本海が見えます.この遺跡が河口の近くにあるのは,川で運搬されてきた租・庸・調を集めて,さらに京都に近い港まで船を利用して運んだからです.写真左には正殿跡が見えます.右の写真は休憩所ですが昔風に作ってあります.
遺跡の周辺は美味しい「富山米」を作る水田です.昔もこんな風景だったのでしょうか.遺跡の脇を現在の水路がとおっています.昔と少し川すじが変わっていますが距離にして数十メートルというところでしょうか.
高瀬遺跡は富山県の高岡から「城端線」(じょうはなせん)の福野駅からバスで行きます.遺跡は現在公園となり,資料館もあります.ここからは木簡や土器,お金や柱跡などが見つかりました.じょうべのま遺跡と同じように正殿と倉庫がコの字型になっています.おそらく当時の管理所は同じようなスタイルだったのでしょう.そしてこの遺跡にも運河跡が出てきました.下の写真(左)がそうです.
左上は現在の水路です,ほとんど同じ場所に水路があったようです.右は遺跡周辺の様子です.遠く五箇山方面がのぞめます.ここいら一帯は記録により「東大寺」の荘園だったことがわかっています.
上荒屋遺跡は石川県金沢市のとなり「野々市」というところにあります.やや海よりの平野の中にあります.上の写真は庄所跡です.ここは「綾庄」とよばれていましたが,後に東大寺領になっています.東大寺って沢山荘園を持っていたんですね〜.今回いった荘園遺跡は全部東大寺領でした・・・
左上が正殿の復元家屋.キャッチボールをしている子供がいます.右は運河(水路)のあとです.ここでも船が大きな運搬手段であったことを物語っています.沢山の荷物を安く運ぶにはやはり「船」なんですね.ここから様々な木簡を付けた租・庸・調が運ばれたのです.
もう日が落ちかけています.千年前の夕日もこんなだったのでしょうか?鉄塔はありませんでしたが水田の風景は変わらないような気がします.この田んぼの中にも水路が縦横に巡っていて,ところどころに石碑が立っていました.
まとめ
今回訪れた荘園遺跡は,いずれも平安時代〜鎌倉時代頃のものでした.それはちょうど自墾地系荘園が寄進地系荘園に変わっていく時です.遺跡の中には必ず水路が引かれており,租税の集積や運搬に便利なようになっていました.今も昔も労力を減らし効率よく物を運ぶということに人々は工夫し努力をしたのです.特に自墾地系荘園の場合は収益をあげるためにかなり努力していたようです.文中にもあるように初期荘園の場合,遠隔地では荘園経営がかなり大変だったということが肌で感じられました.
遺跡周辺は,今となっては平和な田園風景ですが,当時は荒地を開墾し水路を開き,様々な税負担に耐えながら人々が必死に生きていた息使いが聞こえてくるようです.それでも秋の収穫期には祭りも行われ,それなりに楽しい生活もあったのだと思います.そんな人々の姿も見えるような遺跡の訪問となりました.本だけでは分からないことが実体験を通して感じることが出来ました. (平成11年11月・ゲンボー記)目次