三浦義村

        2年アンデス N.O.

頼朝による「石橋山の合戦」依頼の御家人で,有名な一の谷のひよどり越えの場面で,おびえる 御家人を前に「なんのこれしき、この程度は三浦の馬場よ」と言い,真っ先に崖 を下っていったのはこの三浦氏です。

頼朝の信頼もあつく,有力な御家人でした。しかし北条氏が合議制の中心や執権になったりした為、北条氏に反発していました。駿河の守護で三浦一族を率いていて,弟に胤義がいます。北条氏と対立しており、なおかつ勢力も強かった為、北条氏に反発していた公暁や朝廷に頼られました。しかし、三浦義村は公暁を倒したり、承久の乱の際には幕府軍に加わる(くわしくは承久の乱に)など、たびたび北条氏に忠誠を誓っています。だけど,1274年には北条氏と対立し滅ぼされてしまうという運命にありました.

神奈川県三浦半島の地名の由来は,この三浦氏からきていて「横浜・横須賀道路」のインターチェンジのある衣笠に城をかまえていました.

 

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