6月2日開始 このページは玉川学園小学部6年生が取り組んでいる「頼朝はなぜ鎌倉に幕府を開いたのか」の学習をやりとりする場です。児童や父母や先生はもちろん、他の学校からの参加も歓迎します。
誰が書いているかを鉛筆アイコンの色で分けました.みんなの質問 みんなのアドバイス 父母のアドバイス 葛西先生 ゲンボー先生 他校の先生や子供たち
目次段葛の道が細くなるのはなぜ? 銭洗い弁天でお金を洗うと増えると言われるのはなぜ? どうして、頼朝の墓は上に移されたか? どうやって山をきりひらいたか?(切り通しのこと)
質問.だんかつらの道がどうしてどんどん細くなっているのか?鶴岡八幡宮より,欅組 奈央 2003.6.2
奈央さん。今日はよく歩きましたね・・・・
段葛(だんかずら )は妻の政子さんの安産をお祈りして頼朝が作った、といわれています。
段葛は君たちが歩いたように、八幡宮側と駅側では道の幅が大きくちがっています。これは作られたときからそうでした。
今日みんなで歩いて分かったと思うのですが、駅の方から歩くと八幡宮が遠くにあるように見えますね・・・反対に八幡宮側から見ると、道は平行に見えます。
段葛にて・・・駅側の道幅を測る(左)・・・・ところが八幡宮の近くでは・・狭い!(右)
京都から鎌倉に来た使者は 段葛を通って、八幡宮方面(幕府のある方角)にきました・・・ここまでがヒントです。あとは皆さんで考えてください。
ゲンボー先生 2003.6.2
なんで銭洗弁天でお金を洗うとお金がふえるのですか?鶴岡八幡宮より,欅組 恵 2003.6.2
恵さんへ・・・
銭洗い弁天の正式な呼び名は「銭洗い弁天宇賀福神社」(ぜにあらいうがふくじんじゃ)といいます。もともと弁天様と宇賀福神は別々の神様でしたが、どちらも「冨」とか「豊作」の神と言うことで、どこかの時代に合体したのでしょうね。
今日皆さんが訪れた「銭洗い弁天」は、「宇賀福神」(うがふくじん)が頼朝の夢の中に現れたので、その頼朝が泉のわく現在の地に作ったのが始まりといわれています。のちに鎌倉幕府の実際の権力者となる北條氏も信仰していました。
宇賀福神は蛇の姿で現れるといわれていますが、それは多分、蛇が農業に必要な水辺に多くすんでいるところからきているからです。
銭洗い弁天で・・・ 一方、弁天様はもともとインドの神様の一人で、その化身や使者も蛇(へび)といわれています。宇賀福神に似ていますが、これは偶然ではなく、弁天様の信仰とどこかで一緒になったのでしょう。
いずれにしても、宇賀福神も弁天様も豊かな実りを約束する神様と言うところから、お金も増える・・ということになったといわれています。
しかし、もともとはお金が増えるというより、豊かな実りがありますように・・とか、天下が平和であるように。と祈る場所だったようです・・・それがいつのころからか「泉の水をかければお金が増える」といわれるようになって、多くの人が訪れるようになりました。
君は今日いくら洗ったのですか???・・言い伝えによると「洗ったお金は早く使う方が御利益がある」とのことです・・・笑
ゲンボー先生 2003.6.2
どうして、頼朝の墓は上に移されたか? 柳組 裕樹
裕樹君 なんでだろうね・・・・もともと頼朝のお墓は、現在お墓といわれている場所の下にあった「法華堂」にありました。じつはそれ以前には「勝長寿院」というお寺にありました。つまり頼朝さんのお墓は二回引っ越したことになります。
遺骨は勝長寿院に埋まったままのようですが・・今となってはどこにあるのか分かりません・・というのも勝長寿院は火事でなくなってしまったからです。勝長寿院のあった場所は滑川をすぎて「釈迦堂切通」に行く途中だそうです。
当時の偉い人のお墓は現在のような、石で作った墓石ではなく、お堂でした。法華堂はまさにそれなのです。一般の武士は君たちも見たでしょう・・五つの石を重ねて作った五輪塔(ごりんとう)ですが、こちらもお墓というより死んだ人の霊をなぐさめる「供養塔」(くようとう)として作られたものが多いようです・・しかし、中には本当にお墓として作られたものもあります。ややこしいですね・・・
江戸時代に作られた頼朝の供養塔(左) みんなで見てるその証拠・・「島津家家紋」・・(右)
さて、君たちが見たお墓には島津氏の家紋である○に十の字がついていたでしょう・・つまりあのお墓は江戸時代の終わり頃に作られたもので、本当の頼朝のお墓ではないのです・・・なあんだ、ガッカリ・・と思うよね・・・
しかし、島津氏もお墓としてたてたのではなく、あくまでも供養塔としてたてたものなのです。じゃあなんで、鹿児島の大名が頼朝の供養をするのよ・・・ということになりますよね・・実はここが一番大切な部分なのです・・・
さあ、なんででしょう???これはチョットむずかしいけど、幕府のことを調べていく上でけっこう大切なことが含まれているのです・・・皆さんで考えてみてください。
ヒント・・「薩摩」(さつま=現在の鹿児島県)の島津氏の先祖を調べてみる・・
分からなくなったら、また質問してください。
ゲンボー先生2003.6.5
質問.どうやって山をきりひらいたか? Mao 2003.6.2
切通しのことですか?・・・・・切り通しを掘ったのは人です・・今のようにブルドーザーやパワーシャベルなど無かった時代は、工事はすべて人の手によっておこなわれました。もっとも木や石や土などを運ぶときには、人以外に馬や牛が使われました。馬は主に関東で・・牛は主に関西で・・ということは、鎌倉の切り通し工事では人が「すき」や「くわ」で掘り、場所によっては「馬」が土砂を運んだと考えられます。
切り通しに残る道具の跡・・・・ 「すき」や「くわ」がどのようなものだったか調べてみてください。
また、なぜ関東では馬なのでしょう・・・これも、君たちが学習していく上での良いヒントとなります。
ゲンボー先生
2003.6.2
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