玉川学園小学部4年生の勉強ページ(H17)

 

子供たちが,学習ページ「縄文人のくらし」のゲンボー先生に送ってきた質問とやり取りのページです.

目次

 

食べ物のこと 服のこと 家のこと 生活のこと 身体のこと 

道具のこと 病気や怪我のこと 狩や漁のこと 神様のこと その他の知りたいこと

 

食べ物のこと

縄文時代は、おかしは、何種類位あったのですか?        どんなご飯を食べていましたか?

縄文時代の人は、朝、昼、晩、と、食事をしていたのですか?  昔は牛の牛乳を飲んでいたのですか? 

ヒエは生で食べられますか?                 縄文クッキーの作り方を教えて下さい. 

縄文時代の、人は、肉や、魚だけで、生きていたんですか? 

むかしの、お米は、どんな色で、どんな形だったのですか?

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服のこと

縄文時代の人達は、みんな全く同じ服を着ていたんですか?   縄文人は、洋服をどのように、作ったのですか? 

縄文時代の人の、服の素材はなんですか?           カラムシはどこにはえていますか?

 


家のこと

縄文時代の家の作り方を教えてください。            昔の家の材料はたくさんあったのですか? 

家を作る時に使う「えだ」は、なんの木の「えだ」ですか?   雨や、台風がきたら、屋根をとりかえたりするんですか? 

なぜ、縄文時代は竪穴式住居だったのですか?         昔の人はどうゆう所に家を建てていたのですか? 

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生活の事

縄文時代の人達は、掃除は、しないんですか?         縄文人は、歯磨きは、していたのですか? 

髪の毛がのびたらどうするのですか?             のびた足の爪はどうしていたのですか? 

縄文時代に文字はあったのですか?               どうやって髪の毛を切っていたのですか?

縄文時代の人はどんなかみ 型があったのですか?        縄文人は苦しかったのですか?  

縄文人はどうやって遠くまで行っていたのですか?       縄文人たちは、子供達をどうやった育てたんですか?

今は電話があるけれど縄文時代の人はどうしていたのですか?  縄文時代の人達は、どうやって水を手に入れたのですか?

縄文人は、トイレはどうしていたんですか?          縄文人は、名字はあったのですか? 

ふくは、洗濯していましたか?

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身体のこと

縄文時代の人は身長は今と同じぐらいだったんですか?     縄文人達は、長生きでどれ位生きたのですか?

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道具のこと

縄文時代の人は、何時間くらいで土器を作れるんですか?    縄文人が使っていた家具は、どのように作られていたのですか?

縄文土器は、何個作りましたか? 

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病気やけがのこと

病気になってしまったらどうしていたのですか?        縄文時代で一番怖い病気は何ですか? 

縄文人は、骨が折れた時は、どうしていたのですか?      お医者さんは、いたのですか?

病院の事や薬の事を教えてください。 

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狩や漁のこと

罠の種類は、いくつあるんですか。 

トリカブトの根っこからどうやって毒をとったのですか? 

イノシシをつかまえる落とし穴は、ふかさはだいたいどのぐらいですか?

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神様のこと

いのししの土偶は何の神様なんですか?教えて下さい     縄文人は勾玉をお守りにしていたんですか? 

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その他の知りたいこと

何で縄文時代と言う名前になったのですか?

玉川学園小学部の和也です。

ゲンボー先生教えてください。なんで縄文時代という名前になったのですか

ゲンボー先生

和也君、メールをありがとう。

「縄文時代」の呼び名は、日本で初めて発掘(はっくつ=穴をほって昔の家のあとや土器や石器などの道具を見つけること)した、アメリカ人のモースという学者がつけました。それは出てきた土器に「縄(なわ)」をころがしてつけた「もよう」がたくさんついていたからです。

モースはそれを「コードマーク」(ひものもよう)と名前つけました。

それを日本の学者が「縄文」と日本語にしたのです。

それでその土器が使われていた時代を「縄文時代」とよび、その時代に作られた土器のことを「縄文土器」と呼ぶようになりました。

ゲンボー先生

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竹組の友佳です。聞きたい事があります。

縄文時代には、文字はあったのですか?教えて下さい。

ゲンボー先生

友佳ちゃん、メールをありがとう。

縄文時代には文字はなかった、というのが現在の説です。文字が日本に入ってきたのは弥生時代になってからだと言われています。

日本で発見された一番古い文字は、北九州で見つかった金印に彫(ほ)ってあった「漢委奴国王」(かんのわのなのこくおう)という文字でした。当時「漢」といわれた中国から日本の小さな国の王様に送られたものです。 (金印のページ)

その後、古墳時代になって文字は銅製の鏡や鉄製の刀に彫られました。多分このころには読み書きのできる人がいたと思われます。

北海道に残っているアイヌの人々には文字がありませんでした、アイヌの人々は縄文人の子孫と言われていますのでやはり文字はなかったというのが正しい説だと思われます。では、アイヌの人々はどうやって記録を残したのでしょう?・・・それは「ユーカラ」といって記憶力のいい人が次の人に「歌」や「言葉」で伝えていったのです。今残っているユーカラには「アイヌの祖先のこと」「神様のこと」「勇者の話」「恋人の話」など豊かで様々な物語があります。

ゲンボー先生

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病気になったときは、どうしたんですか 玉川学園小学部4年俊郎

ゲンボー先生

おいのり・・・・・薬草をのむ・・身体をさする・・ぐらいだね〜〜

でも、今だって風ぐらいなら「早く治らないかなあ・・」って思って、身体を温かくして寝ているぐらいでしょ・・(笑)かぜ薬なんて飲んでも飲まなくても「気休め」ていどだもんね・・・もっとも、インフルエンザとかもっとこわい病気の時は大変だったでしょうね・・強い人だけが生き残っていったんですね・・

ゲンボー先生

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またまた、玉川学園小学部4年松組 花観です。人々は、苦しくなかったのですか?苦しかったらどうしてそれをどうしてのりこえられたのですか?

ゲンボー先生

花観ちゃん、またまたメールをありがとう。

苦しいって・・何が・・・?

縄文時代には戦争もないし、飢え死にした人もいません・・古い時代だから生活が苦しいと言うことはないと言うことです。それどころか山や海の恵みをたくさんえていたと言った方がただしいでしょうね。

人々の生活が苦しくなるのは国ができて年貢や税を取られたり、若者を戦争でとられたりする弥生時代の終わりごろから古墳時代になってからなのです。それ以後、ず〜〜〜〜〜〜〜っといっぱんの人の生活は苦しくなっていきました・・多くの日本人の生活が楽になってきたのは昭和40年の終わりごろから50年くらいのことなのです。

つづき

私が苦しそうだなと思ったのは、縄文人の声というホームページで

苦しそうで何かをもとめているような声だったからです。

ゲンボー先生

あはは・・あれね・・あれは「てきとう」に考えた声で、なんだかモゴモゴしていたでしょ・・(笑)縄文人の声は現代人と同じです。しかし、発音は少しちがいます。はひふへほ・・が、ぱぴぷぺぽ、だったりその他の音も少しちがっていたようです。それは縄文人のあごの形が現代人と少し異なるからです・・

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縄文時代の人達は、みんな全く同じ服を着ていたんですか?玉川学園小学部4年桂組 あゆ

ゲンボー先生

あゆちゃん、メールをありがとう。

縄文時代の人だって今と同じです・・「人とはちがったものを着たい」、「かっこいい服を着たい」という気持は今と同じようにありました。しかし、冬だったら「暖かい」、夏でしたら「涼しい」・・作業をする時には「動きやすい」・・狩りにでるときには「動きやすく、丈夫な」という着て便利な服を作って着ていました。

おしゃれは「そのつぎに大切なこと」だったのです。・・それでも「きれいな服」「人目を引く服」を着たい人はたくさんいたわけで、そうした人々がその時代の流行を作っていったのです・・しかし、それは今のように1年単位ではなく、数百年、場合によっては千年ぐらいのはばがありました・・・気の長い話しですね・・・

やがて、弥生時代をすぎ、古墳時代になると大和に朝廷ができて「税」をみんなからとるようになると、ふつうの人の生活は苦しくなり服も貧しくなりました・・記録を見る限り一般の農民は簡単な薄着を着ているにすぎません・・豊かさの基準は新しいとか古いとかではなくて、その時代の政治によってかわるということなのですね・・

そうしたことから考えると、王様や政府のいなかった「縄文時代」はみんなが平等で、食べるものもの豊かで「人間らしい」生活ができた「良い時代」だったと先生は思っています。テレビもないゲームもない時代ですが、子供はどろんこになってみんなと遊び、大人も仲良しと狩りや漁に出たり、ご飯をたべたりと「平和」で「楽しい」時代だったのだのですね・・・さあ、君はどう感じましたか・・?どう思いますか?感想や意見を聞かせてください・・

ゲンボー先生

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玉川学園小学部四年松組  窓

ゲンボー先生、質問です!縄文人は、髪がのびたらどうしていたんですか?(*。*)/

教えてください!

ゲンボー先生

窓さん、メールをありがとう。

髪の毛はたばねていたと思いますが、時々いらないと痛んだり、ふけつになります。そこで髪を切るわけですが、当時の人は「こくよう石」というガラスのような石をわったものをつかって髪を切ったのでと思われます。

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伸びた足の爪はどうしたのですか 玉川学園小学部4年 俊郎

ゲンボー先生

君俊郎、メールをありがとう。

切っていました。そのまま伸ばしておくと歩くときや走るときにあぶないからです。ただ、どうやって切ったかは分かりません・・・石器ではないと思います。ざらざらした石でこすったかもしれません。

ゲンボー先生

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トリカブトの根からどうやって猛毒をとったのですか?ぼくの予想では、根を切りきざんで、出た汁をぬるのだと思います。玉川学園小学部4年 梅組 昂洋

ゲンボー先生

昂洋君、メールをありがとう。

トリカブトは紫色のきれいな花をつける植物で、東京都や神奈川県でも高い山でときどき見ることができます。トリカブトの毒は「アルカロイド」といい、動物の神経(しんけい)をおかしくします。人がこの毒を食べたり矢にあたったりすると、酔っぱらったように身体がふらふらしたり、顔が赤くなります。やがて、下がまわらずに言葉がうまく話せなくなり、目も見えなくなり、よだれを垂らしたりするようになります。次にお腹がいたくなり呼吸が苦しくなります。そして心臓(しんぞう)の動きがおかしくなり、意識(いしき)がなくなり死んでしまいます。こわいですね・・

むかしアイヌの人々は熊(くま)やシカをとるために、毒矢を使いました。その時にまちがって人にあたったり、自分のからだにさしてしまうことがあったようで、死ぬ人もいたそうです。

縄文時代の作り方は記録がないので分かりませんが、アイヌ人が明治時代ごろまで使っていたのでその作り方を説明します。アイヌの人々は縄文人と関係が深いと言われているので、縄文人の作り方も同じようではなかったかと思われます。

トリカブトには葉っぱや花にも毒がありますが、一番強い毒は根っこにあります。先生も見たことがあるけど「丸っこい玉」のような根がついています。これを「附子」(ふし)といいます。アイヌ語では「スルク」といいます。附子はおもに春と秋にとられて、そのまま天井(てんじょう)からぶらさげて乾燥(かんそう=かわかすこと)させます。乾燥された附子は大きくて平らな石の上でくだかれて、それにツバや水やクモやその他の虫などをまぜて「どろどろ」にします。クモを入れるのは人間にあたったときに「きき目」が弱まると信じられていたからですが、しかし、これはただの言いつたえでじっさいには毒の強さとは関係ありません。毒はさらに乾燥させて丸い小さな玉にされました。附子には毒の強いものと弱いものがあって、 強い毒ほどきき目がおそく、弱い毒は早くきいたそうです。それでアイヌの人たちはそれをうまく使い分け、一本の矢に両方をうまくぬりこみました。ふつうの「矢じり」は石や鉄で作られましたが(縄文時代は石だよ・・)毒矢は木や竹で作られていました。木や竹で作った長い矢じりの真ん中に「ミゾ」をほって、そこに丸い形になったきき目のちがう毒をいくつかうめこみます。その時に、とれないように松ヤニでかためたとも記録にあります。(写真がトリカブトです,きれいですね・・)

熊にささると、ふつうは2時間くらいで死んだそうです・・・ささったところの肉は手のひらほどに切り取られてすてました。これを食べると人間も毒にやられてしまうからです。縄文人もおそらく同じようにして毒矢を作って熊やシカをとっていたのでしょうね・・・生活の知恵ですね・・・

ゲンボー先生

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玉川学園小学部4年 竜樹

質問 罠の種類は、いくつあるんですか。(H17.9.15)

ゲンボー先生

竜樹くん,メールをありがとう。

木やヒモで作った罠は残っていませんから、実際にどのようなものがあったかは分かりません。しかし、そのような材料で作ったものがあったことだけは間違いがないでしょうね・・・土をほったものでただ一つ分かっているのが「落とし穴」です。

他にどんな罠があるか龍樹くんも調べてみてください。

ゲンボー先生

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玉川学園4年圭

縄文時代の人はどんなかみ 型があったのですか。髪の色は何色でしたか。金髪はいましたか。(H17.9.15)

ゲンボー先生

圭ちゃん、メールをありがとう.土偶という土の人形のかみがたを調べると、

・お団子型に頭の上で丸めているもの

・上と横の髪をゆったもの

・ちょんまげのような髪型

・おかっぱ頭

など、 いろんな種類があったことが分かっています。

女の人はきれいなクシを頭にさしていたんですよ・・・

そうそう、髪の毛の色ですが私たちと同じ黒です。

ゲンボー先生

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玉川学園小学部4年 淑子 

家を作る時に使う「えだ」は、なんの木の「えだ」ですか?(H17.9.15)

ゲンボー先生

淑子ちゃん、メールをありがとう。

それが分からないんだ?柱はクリの木が多かったと思います。クリの木は加工しやすくしかもくさりにくいからです。実際に残っている柱を調べてみるとほとんどがクリの木です。

屋根の材料は多分「茅(かや)」でしょう。ススキの葉っぱですね・・茅もくさりにくい植物です。いなかにいくと時々古い農家を見ることができますが、そのほとんどが屋根に茅をつかっています。

チカモリ遺跡(石川県)から見つかったたくさんの木.大きい柱の一番下の部分が残っていたものです.ほとんご栗の木です. 

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こんにちわ!!!4年の茉実で〜す。

縄文時代の人は、何時間くらいで土器を作れるんですか?教えてください。お願いします!!!!!!!!!!!!(H17.9.15)

ゲンボー先生

茉美ちゃん、メールをありがとう。

土器の大きさにもよります、30センチぐらいのものならもようまで入れて1時間くらいで作れると思います。しかし、乾かす時間は今と同じですね。1メートルくらいの大きなものでしたら、丸1日くらいはかかったかもしれませんね。

君は、どのくらいの時間で作れそうですか?

ゲンボー先生

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玉川学園小学部4年の友佳です。

縄文時代は、おかしは、何種類位あったのですか?教えて下さい。(H17.9.15)

ゲンボー先生

友佳ちゃん、メールをありがとう。

お菓子が日本に入ってきたのは飛鳥時代や奈良時代といわれています。それは縄文時代よりず〜〜〜〜っとあとの時代です。それまでは果物や果物をほしたものがお菓子だったのです。

干し柿や、干しぶどう、サルナシなどですね・・(サルナシ=野生のキウイ、日本の野山にもはえている、熟すととても甘い)

ゲンボー先生

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玉川学園小学部4年の安美です。

縄文時代の人は、朝、昼、晩、と、食事をしていたのですか?またそれは、どんな食事だったんですか??(H17.9.15)

ゲンボー先生

安美ちゃん、メールをありがとう。

さあ、縄文人が一日何回ごはんを食べていたかは「なぞ」です・・・・日本では鎌倉時代ごろまでは一日2食がふつうでした。これは文字として記録に残っている時代だけのことなので、それ以前に何回食べていたかは分からないのです。

パプアニューギニア(南方民族)やイヌイット(北方民族)の生活を見ていると「食べられるときに食べる」生活です。恐らく縄文人もそれに近かったかもしれません・・・

食べていたものは,肉や魚,それに野菜やイモ,あわやヒエなどの雑穀(ざっこく=お米以外のこく物)ですが,お米も少しあったようです.料理の方法は「煮る」「焼く」「蒸す」「薫製にする」(くんせい=煙りであぶって保存する方法),そして「なま」で食べる・・・など,いろいろな方法がありました.

縄文人と深いつながりのある北海道のアイヌ民族の食べ物に「オハウ」というお肉や野菜をたっぷり入れた鍋があります.ギョウジャニンニクやサケ,それに鹿や熊などの肉が使われているそうです.オハウは主食で,副食にヒエのお粥(かゆ)やアワのお粥がつきます.ヒエのお粥はピヤパサヨ,アワのお粥はムンチロサユといいます.アイヌの人々も一日に2食だったそうです.これなど縄文人の生活を考えていく上でおおきなヒントになりますね・・・

ゲンボー先生

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玉川学園小学部4年 由羽

昔の家の材料はたくさんあったのですか???(H17.9.15)

ゲンボー先生

由羽ちゃん、メールをありがとう

あったあった・・・たくさんありました。大きな木がいっぱいはえていたからね・・しかも全部「ただ」・・!縄文人は必要な大きさの木を森から切り出してつかっていたのです。

 

 チカモリ遺跡(石川県)で発見されたウッド−サークル(大きな木を円形にたてたおまじないの場所・・多分)と残っていた巨木.左は現代に復元したコンクリート製.右は本物・・・切り出すときにロープを結ぶために彫ったみぞのあとと穴が残っている.中には藤のつるがまきついたままのも見つかった.このほうほうは鎌倉時代以後もつづきました.

ゲンボー先生

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玉川学園小学部4年 愛理
病気をなおす時どうやってなおすんですかまたお医者さんは、いたのですか?? (H17.9.14)

愛理ちゃん。こんにちは・・

病院もお医者さんもいません・・病気はおまじないや薬草で治しました。薬草とはいっても今のお薬のように良く効くわけではないので、大きな病気にかかったときには自分の力で治すしかありませんでした。ですから体力のない子供の死ぬりつが高かったといわれています。

ゲンボー先生

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玉川学園小学部の花観です。
ふくは、洗濯していましたか?
(H17.9.14)

ゲンボー先生

花観ちゃん、またまたこんにちは・・
汚れたら川で洗っていたと思います。からむしから作った麻布は丈夫ですから、石にたたきつけて洗ったのでしょう。もしかしたら足でふんでいたかもしれません・・・洗剤は・・・?ですが、あったとしたらサイカチという植物の実でしょうね・・大きな豆なのですが、この実をたたいて水に入れるとアワが出てきて洗剤になるのです。日本でも昭和30年代ごろまで使われていたといわれています。
自然に優しいというので、最近ではエコ洗剤として見直されているものです。

ゲンボー先生

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玉川学園小学部4年 綾
イノシシをつかまえる落とし穴は、ふかさはだいたいどのぐらいですか?(H17.9.14)

ゲンボー先生

綾ちゃん、メールをありがとう。
そうだねえ、だいたい1.5メートルから2メートルぐらいかなあ・・綾ちゃんが落ちたら出られない深さです・・縄文人はイノシシをつかまえて食べましたが、子供のイノシシはつかまえて育てていたかもしれないといわれています。

落とし穴

ゲンボー先生

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玉川学園小学部4年 成富です。
昔は牛の牛乳を飲んでいたのですか?
飲んでいたら、カルシウムは、およそ何%位
含んでいたのですか?今の、牛乳のカルシウムと、
比べたら、およそ何%多かったのですか(少なかったのですか)?
(H17.9.14)

ゲンボー先生

成富さん、メールをありがとう。

牛が日本に入ってくるのは奈良時代になってからですから、縄文時代にはいませんでした。ですから牛乳もないということになります。山羊(やぎ)もいないし・・動物のお乳を飲むという風習はなかったと思うのが自然ですね・・・

ゲンボー先生

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玉川学園小学部4年大久保
縄文土器は、何個作りましたか?(H17.9.14) 

ゲンボー先生

大久保さん
人によってちがうでしょうね・・・土器を見てみると、うまい人と下手な人がいます・・・(笑)今と同じで、縄文人も得意なものと苦手があったのでしょうね・・・(笑)
土器の数ですがバラバラになっているのでよく分からないのですが、だいたい一軒に15〜6個ぐらいかなあ・・・でもね、こわれた土器はどんどん捨てるので、実際にいくつ作られたかはよく分かりません。

ゲンボー先生

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玉川学園小学部4年 小川
縄文人は、名字はあったのですか?教えてください。
(H17.9.14)

ゲンボー先生

小川さん
メールをありがとう。
名前はありましたが、名字はなかったと思います。名字をつける風習が日本に入ってくるのはず〜っとあとの飛鳥時代よりあとと考えられています。
縄文人にはどんな名前があったのでしょうね・・文字がなかったので分からないけど、あれこれ考えてみるのも楽しいですね。

ゲンボー先生

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玉川学園小学部の薫子です。(この間歯磨きの事で質問しました!)(H17.9.14)
質問です。
縄文人達は、長生きでどれ位生きたのですか?
また、短くてどれ位生きたのですか?
私の予想は、 長生きで90歳、短くて30歳だと思います。
教えてください!!!!

ゲンボー先生

薫子ちゃん。元気ですか?
長生きは70歳ぐらいです。早死には生まれてすぐ・・病院も薬も無い時代ですから、大きな病気にかかると死ぬことが多かったのです。縄文人の平均的な寿命は40歳までいきません。30歳くらいまで生きられればふつうに近かったと思います。

ゲンボー先生

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玉川学園小学部俊郎!!!☆

縄文人は、トイレはどうしていたんですか(H17.9.14)

ゲンボー先生

俊郎君。メールをありがとう。
いいところに気がつきました・・・(笑)

げんざいのところ、「ここがトイレだ!」というものは見つかっていません。多分、どこかに穴を掘るか、川に流すか、そこいらへんにしたのでしょう・・・(笑)でも、そこいらへん、というのがじつは見つかっています。鳥浜貝塚というところからは貝殻や食べかすをすてたところから、人間のウンチも見つかっているからです。
「糞石」(ふんせき)といって石ころみたいに固くなっていますが、切って顕微鏡(けんびきょう)で見ると、縄文人が食べたものが分かるのです。今となっては貴重なウンチですね・・・(笑)

ゲンボー先生  

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玉川学園小学部 の 歩です。
縄文人は、洋服をどのように、作ったのですか?
(H17.9.14)

ゲンボー先生

歩ちゃん。メールをありがとう。
服は動物の皮やサケの皮でも作りましたが、多いのは「からむし」という植物から作った布をつかったと考えられています。
からむしの皮をはいで、水できれいに洗ってから、糸によります。この糸で布をおったのです。色つきの糸も見つかっていますから、刺しゅうや、色の付いた服もあったことでしょう。

ゲンボー先生

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玉川学園小学部 美沙希
縄文時代の人達は、どうやって水を手に入れたのですか?
(H17.9.14)

ゲンボー先生

美沙希ちゃん、メールをありがとう。
水はね、川や池からくんできました。水はなくてはならないものですが、日本の場合はちょっと低いところに行くときれいな水が流れている川がたくさんありました。ですから井戸を掘る必要もなかったようです。昔の人が住んだ村のあとなどは、近くに川がある南向きの高台から多く見つかっています。

ゲンボー先生

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私は玉川学園小学部4年の夕雅です。
昔の人はどうゆう所に家を建てていたのですか?
(H17.9.14)

ゲンボー先生

縄文時代の村を見ていると、近くに川がある南向きの高台、という感じです。水も必要だし、見晴らしも必要だったから出す。
で、こういうところは今の人にとっても良いところですね・・それで、新しく住宅街を作るときなどに縄文時代の家がたくさん発見されるのです・・・

ゲンボー先生

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玉川学園小学部の理紗です。
今は電話があるけれど縄文時代の人はどうしていたのですか?
(H17.9.14)

ゲンボー先生

理沙ちゃん、メールをありがとう。
そうだね、遠くの人と連絡をするには太鼓(たいこ)とか、のろし(けむりを出す)しかなかったと思います。しかし、どちらもそのしょうこが無いのです。もっとも、そんなに急ぐ必要もないから伝えたいことがあったら、ゆっくり歩いて行って話したと思います。

ゲンボー先生

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玉川学園小学部4年花観です。
骨が折れた時のたいしょ法はわかりましたが、病院の事や薬の事を教えてください。
(H17.9.14)

ゲンボー先生

花観ちゃん,メールをありがとう。病院も今のようなお薬もありません。病気はおまじないや薬草でなおしたのです。
縄文人はどの薬草が何に効くということはよく知っていましたが、今のように良く効く薬はありません。ですから、こわい病気にかかると自分の力でなおす以外になかったのです。ですから多くの子供達が死にました。無事に大人になれるのは今の人の半分以下だったと思います。

ゲンボー先生

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玉川学園小学部4年 実紗です。
家の作り方を教えてください。縄文時代の事、とても勉強になりました。
ありがとうございました。
(H17.9.14)

ゲンボー先生

実紗ちゃん、メールをありがとう。

縄文時代の家は竪穴住居(たてあなじゅうきょ)といいます。大きな柱は4本から6本ぐらいで、あとは小さな柱が10本ぐらいで作られていました。柱と梁(はり=屋根に近い、横のはしら)は穴をあけて組んだと思われます。実物がまだ出ていないのですが、他の木製品(もくせいひん=木で作ったもの)をみると、石器で溝を掘ったり、穴をあけているので、柱もそのようにしたと思います。

縄文時代中期の家の作り方

1.地面に半径2〜3メートルの円をかく
2.その部分を深さ50センチぐらいにほる
3.大きな柱穴を4〜6あける
4.柱を入れる
5.横の梁と組み合わせ、縄でしばって強くする
6.梁の回りに細い木を10本程度たてか
けて縄でしばる
7.その細い木に屋根を作る
8.屋根は茅の葉っぱを乾燥させたものを使う
9.家の真ん中に火をたく「炉」(ろ)を作る
10.土のかべを板で補強(ほきょう)する
11.出入り口に戸を作る

 

 

左 柱と横の棒(家の中も梁もこうなっていたと思われます)   右 住居の入り口

 

ゲンボー先生

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玉川学園小学部4年 正之です。
縄文人はクッキーを食べているのは知っていますが、作り方がわからないので教え
てください。
(H17.9.14)

ゲンボー先生

正之君、メールをありがとう。

縄文クッキーと呼ばれているものの中には水銀という毒が入っていたりするものもあり、じっさいに食べられていたかものかどうかはよく分からないのです。ところが、多くのところで縄文時代のクッキーだから作ってみようということで、レシピまでできてしまいました。特にあやしいのが木の実に動物の骨髄(こつずい=骨の中にある柔らかい部分)や肉が入っていたなどと書いてあるやつで、これは現代の人が考え出したものです。
いちばん、たしかなのはシイの実やトチの実、それにクルミなどの植物を混ぜたものでしょうね・・それも、もしかしたらおまじないや神様への供物(くもつ=かんしゃをして神にあげるもの)かもしれないのです。そういうつもりで作るのならいいと思いますが、それを縄文人がいつも食べていたと思っちゃいけないよ・・

縄文人の主食はサトイモやエビイモ、それにヒエやアワなどの雑穀(ざっこく)というのが、一番新しい説です。

クッキーと言われている炭化物(たんかぶつ=燃えて炭になったもの)

クッキーの作り方は簡単です

・平べったい大きな石
・手に持てるぐらいの丸っこい石
・シイの実(記念グラウンドのまわりにいっぱいあるよ)
・クルミ

を用意して、大きな石の上で木の実を丸っこい石でひいて粉にします。
それに水を少し混ぜて、焼き上げます。

でもね・・・それより、サトイモ・エビイモ・ヒエ・アワなんかを食べた方がず〜〜っといいと思います。

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玉川学園小学部4年 宇都宮
縄文人たちは、子供達をどうやった育てたんですか?!(H17.9.14)   

ゲンボー先生

宇都宮君
メールをありがとう。

あはは・・言い質問だね・・学校が無かったことだけは確かです。
でも、狩りの方法や、石器や土器の作り方、毒のある植物の見分け方、火のおこし方、木の切り方、ウルシの取り方、ウルシの塗り方、病気になったときのおまじないの方法。薬草の見分け方、それに他の部落の人にあったときのおじぎとか、目上の人へのれいぎ・・・などなど・・・生きていく上でのた〜〜〜〜〜くさんの知識を大人が子供に教えていたことはまちがいがありません。・・・(面白そうだね・・・笑)
親子で教えることもあったし、別の大人が子供達を集めて教えたこともあったと思われます。遺跡をほると、ときどきものすごく大きな建物が発見されることがあります。これなどは、青年の集まる家ではないかと言われています。そこでも、大人になるための様々な知恵や技術が教えられたことでしょうね・・
青森県の三内丸山遺跡から発見された大きな建物を復元(ふくげん=元のとおりに作り直すこと)した写真を送ります。

三内丸山遺跡の大型住居

ゲンボー先生

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玉川学園小学部4年 麻由 

ゲンボー先生!また、しつもんしたいことがあります。
むかしの、お米は、どんな色で、どんな形だったのですか?
そして一番日常的につかわれていたお米はどんな色でどんな形だったのですか?
教えてください!
(H17.9.14)

ゲンボー先生 

麻由ちゃん。メールをありがとう。

お米があったことは分かっていますが、どんなお米かはよく分からないのです。ただ、今の人が食べているジャポニカという丸っこいお米であることだけは確かです。
色はね〜〜〜赤や紫や緑や黒など・・様々です。一番多いのは白だと思うけどね・・・こうしたお米は最近売られているのでさがしてみてください、ちょっと大きなスーパーとかデパートにあると思います。

日常的には食べられていなかったと考えられています。それは今のように水田が無くたくさんお米を作ることがむずかしかったからです。おこめがたくさん作られるようになったのは弥生時代という、縄文時代の次の時代です。

縄文時の主食はサトイモやエビイモ、もしかしたらヒエやアワなどの雑穀(ざっこく)と言われています。

菜畑(なばたけ)遺跡(縄文時代晩期)から見つかった炭化米

ゲンボー先生

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玉川学園小学部 大祐

縄文時代で一番怖い病気は何ですか。(H17.9.14)

ゲンボー先生

大祐君、メールをありがとう

この時代にはお医者さんもいないし、良く効く薬もありません。病気になった人は野草や木の皮をすったものや、にたものを飲んでいました。また、お祈りも大切なこととして行われました。ですから体力の弱い子供がたくさん死んだのです。
こわい病気としては(死亡りつじゅん)・・・(多分あっただろうと思われる病気です)

天然痘(てんねんとう)・チフス・コレラ・インフルエンザ・・はしか、などでしょうね。・・・他にも知られていない病気があったかもしれませんね・・・

今に生まれて良かったね・・・

ゲンボー先生

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玉川学園小学部4年 茜紀子
質問です!!!!! 昔の人(縄文人)は勾玉をお守りにしていたんですか??
また、素材は何ですか???(H17.9.14)

ゲンボー先生

茜紀子ちゃん

メールをありがとう。2回目の質問だね・・・勉強が進んでいるみたいでいいですね、がんばってください。
縄文人が首からぶら下げていたのは普通「玉」とか「原始勾玉」(げんしまがたま)といいます。勾玉といったらそれはもっと後の古墳時代(こふんじだい)のものをさします。
玉の原料は「ヒスイ」が一番です。ヒスイは白や緑の半透明の石で、日本では富山県と新潟県のさかいをながれる「姫川」だけでしかとれません。
ヒスイの玉は日本中から出ていますから、縄文時代にも人や物の行き来があったということですね。

緑の玉はやがて古墳時代に勾玉になって、王様の首飾りになりましたが、縄文時代の玉は村長やお祈りをする人をはじめ、普通の人もつけていたようです。玉川学園でも清水台と言うところからきれいな玉が発見されています。

ゲンボー先生

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玉川学園小学部 真菜 

縄文人が使っていた家具は、どのように作られていたのですか?(H17.9.14)

ゲンボー先生

真菜ちゃん。メールをありがとう。
家具といっても引き出しやテーブルなどはありませんでした。竹や木をうすくはいで作ったカゴのようなものが家具といえば家具になるかなあ・・
でも、縄文人は木の性質をよく知っていて、おわんにする木、農具や「おの」の柄(え)にする木、家の材料になる木、などは区別して使っていました。
かんなもノコギリもありませんでしたが、木のわれる方向を知っていて、うまく板も作っています。

板(石川県チカモリ遺跡)

ゲンボー先生

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玉川学園小学部の知行です
縄文時代の、人は、肉や、魚だけで、生きていたんですか。(H17.9.14)

ゲンボー先生

知行君
メールをありがとう。
貝塚からは動物やお魚の骨しか出てこないので、魚やけものばかりを食べていたように思いがちですが、実際には植物の方が多く食べられていました。原っぱからは山野草・森からは木の実・・それ以外にアブラナ・エゴマ・ヒョウタン・ゴボウなどの畑で作られていた作物の種も見つかっています。
縄文時の主食はサトイモやヒエ・アワなどの雑穀です。

ゲンボー先生

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玉川学園小学部 4年茜紀子

なぜ、縄文時代は竪穴式住居だったのですか?(H17.9.14)

ゲンボー先生

茜紀子ちゃん。メールをありがとう。

むずかしいしつもんだなあ・・・・(笑)

それ以前の住居はテントみたいなものでした。縄文時代のはじめころになると土を浅くほってその上に屋根をつけました。このやり方は朝鮮半島や中国の北の方からやってきたと思われます。その時代の住居は円形かだ円のかたちをしています。やく1万年〜8千年前のことです。

やがて、7千年前くらいになると地球全体があたたかくなって、日本にも南方の文化が入ってきました。このときにイモやヒョウタンやゴボウやヒエやアワなどを畑で作る農耕(のうこう=作物を田畑で作ること)も入ってきたと考えられています。農耕が行われるようになると、長くそこに住み着くようになりました。そうなると住居もずいぶんがんじょうに作られるようになったのです。このころの住居は四角が多いです。場所によっては土を50センチ〜70センチぐらいほって作った住居もあります。こうした住居の土の部分には板で壁も作られていました。床も「しきもの」がしいてあったのですよ。

やがて5千年前ぐらいになると、今度はまた円形になりました。このころの住居ははじめの頃とはちがって穴もしっかり掘ってあるし、屋根はもっと頑丈になりました。このように一口に竪穴住居といってもその時代によって形も作り方もちがっていたのです。竪穴住居にした一番の理由は、たぶん「かべ」を作ることだったと思います。かべがないと雨や風が入ってきてしまうからです。しかし、かんなや、ノコギリの無かった時代ですから「板」を作ることはとても大変でした。それで土のかべをつくるために穴を掘ったのでしょう。今の家のようなかべを作るのにはたくさんの板が必要なんだね・・・・

ところで、ひとつ大きな「なぞ」があります。・・・それは。四角だった家が円形になったということです。君の家は円いですか???そんなことないよね・・(笑)

今の家はほとんどが四角です。ですからこれが全部円になるというのはとても大変なことなのです・・・世の中が大きな変化をする以外には考えられないのですが、どうもそのようなことはなかったようなのです・・・????

茜紀子ちゃんだったらどう思いますか?

ゲンボー先生

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玉川学園小学部4年 瑞季(H17.9.11)

いのししの土偶は何の神様なんですか?教えて下さい!!!!!

ゲンボー先生

瑞季ちゃん、メールをありがとう。

イノシシや鹿はとてもおいしくて、縄文人のこうぶつでした。貝塚というゴミ捨て場からはたくさんの動物の骨が発見されていますが、イノシシと鹿はかならずと言っていいほどあります。鹿の角は「釣り針」や「もり」や「アクセサリー」に加工されました。鹿は縄文人にとって肉だけではなく、角や毛皮など、とても大切な動物だったのです。

ところが鹿の土偶はあんまり作られず、イノシシの土偶のほうが多く作られました。これはナゾです・・・・

新しい説には、もしかしたらイノシシは人間が飼(か)っていたかもしれない。だから、しっかり育つように土偶を作っておいのりしたんだ・・というものもあります。イノシシにはするどい牙(きば)があって、とるときにあぶないのですが、子供は「うり坊」といって、人間にもつかまえやすいのです。それでうり坊をつかまえて飼育(しいく=えさをあげて育てること)をしたんじゃないか・・というものです。実際にイノシシの骨を調べてみると歯やあごの形から、「どうもかわれていたみたい・・」という骨も発見されています。

これから、発掘(はっくつ=あなをほって、昔の人が住んでいた家のあとなどを調べること)がすすめば、どんどん新しいことが分かってくると思います。

ゲンボー先生

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玉川学園小学部4年  優太郎(H17.9.10)

縄文人は、骨が折れた時は、どうしていたのですか???

ゲンボー先生

優太郎君

メールをありがとう。面白い質問だね・・いいところに気がついたね・・・

縄文人も骨を折りました。現代人よりも骨が太くて頑丈なのですが、狩りに出たり高い木に登ったりしたので、事故も多かったのです。貝塚という多くの貝がらを捨てたところなどから縄文人のお墓が見つかることが多くて、中に、骨が折れた人の骨も見つかっています。

多くの場合は「添え木」(そえぎ)をしてなおしたと思いますが、足の骨などが折れた場合、ちゃんとつく前に再び折ったり、つきかたが悪かったりすると「偽関節」(ぎかんせつ)といって折れた骨と骨とがうまくつかず、たがいの骨が軟骨(なんこつ=柔らかい骨)でついてしまう場合があります。今なら手術でなおるのですが、縄文時代にはそうした技術はありません。

ある人はそのために何度も同じところから足が折れたあとが残っていました・・・痛かったでしょうね・・・かわいそうに・・・

しかし、縄文人はたがいに助け合っていましたから、そういうときには他の人が狩りにいったり、その人を支えていたりしたことと思います。もしかしたらずーっと添え木をしていたかもしれませんね・・・

そうそう、骨折の時にはニワトコという木の枝や葉っぱを焼いたものをねって骨折や打ち身の部分にぬってなおしました。この治療方法はヨーロッパにもあるのですよ・・青森県の三内丸山遺跡からはニワトコの実のしぼりかすが見つかっています。これはたぶんお酒を造ったあとだと思いますが、縄文人がニワトコを知っていたしょうこです。ニワトコはお酒になったり、骨折の薬になったわけで、縄文人はどの木や草がなにに役に立つかと言うことをよくしっていました。

ゲンボー先生より

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玉川学園小学部4年 朱里

縄文時代の食べ物にヒエという食べ物がありますよね。その食べ物は、生のまま食べられるのでしょうか?(H17.9.8)

ゲンボー先生

朱里ちゃん

メールをありがとう

ヒエはお米などのような「こくもつ」の一種で、むかしは大切な食物でした。生では食べられなくて、お米のように炊いて食べました。今でもいなかに行くと「ひえもち」など、ヒエの入ったおもちやご飯を見ることができます。

最近ではヘルシーだというので「古代米」などといって赤いお米などにまぜて売っているものもあります。先生もときどき食べます。

ゲンボー先生

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玉川学園小学部4年ひさむらです.縄文時代の人は身長は今と同じぐらいだったんですか?(H17.9.8)

ゲンボー先生

久村君,メールをありがとう。縄文人は今よりずーっと小さかったのです。

男性で155センチ

女性は148センチ

です。

現代人は

男性で171センチ

女性で159センチ

です。でも、食生活など今と同じにすれば現代人と同じくらいの大きさになっただろうと言われています。

ゲンボー先生

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玉川学園小学部四年 麻由 ゲンボー先生,質問があります!縄文時代の人の、服の素材はなんですか?おしえてくださーい!(H17.9.8)

ゲンボー先生

麻由ちゃん

メールをありがとう。縄文時代の服は

1.「からむし」という植物から作った「麻布」(あさぬの)で色の付いた糸も発見されていますから、刺しゅう(ししゅう)や染めもの(そめもの)もあったと考えられています。そうした布をぬう細い針(鹿の角せい)も発見されています。

2.「動物の毛皮」は寒い冬や「長くつ」にしていたと思われます。「かり」で山にはいるときなどはお尻のところに毛皮をつけておくと、座ったり、いそいで下るときなどにべんりです。

ゲンボー先生

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私は、玉川学園小学部の結衣です。

縄文時代の時の家の「わら」の家は、雨や、台風がきたら、とりかえたりするんですか?(H17.9.8)

ゲンボー先生

結衣ちゃん

メールをありがとう。

あれはね「わら」じゃなくて「かや」という植物で作ったものです。かやは「すすき」ともいいます。わらよりもず〜〜っと長持ちします。

一度、作ったら10年ぐらいはかるくもつのです。雨や台風ぐらいではこわれません・・古くなってくさったら取りかえます。

ゲンボー先生

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玉川学園小学部4年 万由子 

日本人は男も女も髪を切りますがはさみのない時代(縄文時代)の人達はどうやっていたんですか?それとも、髪は男の人でも切っていなかったんですか?教えてください。(H17.9.8)

ゲンボー先生

万由子ちゃん

メールをありがとう。

もちろん切っていましたよ。髪の毛の手入れはちゃんとしていました。そのしょうこにきれいなクシもたくさん見つかっています。

髪を切るのは「こくよう石」というガラスようなするどい石です。これはカミソリのように良く切れます。先生ももっていますから、きかいがあったらどれくらい切れるか見せてあげましょう。担任の先生に聞いてみてください。

ゲンボー先生

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玉川学園小学部4年薫子です。

縄文人は、歯磨きは、していたのですか?また、歯磨きをしていたとしたら、何で歯を磨いていたのですか?歯ブラシで磨いていたとしたら、歯ブラシは、土で作っていたのですか?それとも木で作っていたのですか?教えてください!!(H17.9.8)

宜しくお願い致します。

ゲンボー先生

薫子ちゃん

メールをありがとう。

う〜〜〜〜〜ん。むずかしいなあ・・・歯ブラシと思われるものはまだ見つかっていません。ですが、人の骨はたくさん見つかっていて、そのほとんどは「虫歯」がありません。ということはいつもキレイにしていたからですね・・・甘いものも少なかったし・・・

もし、歯ブラシがあったとしたら、それは柳のようなしなやかな木の枝の先をたたいてやわらかくしたものだと思います。このような歯ブラシは奈良時代から江戸時代まで使われていましたから、たぶん、それよりも前から使われていたと考えられています。

ゲンボー先生

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玉川学園小学部4年愛理

縄文時代の人達は、掃除は、しないんですか?(H17.9.8)

ゲンボー先生

愛理ちゃん。メールをありがとう

もちろんしました・・・竪穴住居(たてあなじゅうきょ)はせまいので、いつもキレイに整理したり掃除をしていないと、ふけつになったり、じゃまになります。ふけつにしておくと病気になりやすくなるためきれいにしていました。愛理ちゃんのお部屋はきれいかな・・・(笑)

ゲンボー先生

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4年の健人です。                          

縄文時代の人はどんなごはんを食べていたんですか。(H17.9.8)  

ゲンボー先生

健人君

メールをありがとう

山でとれるもの

動物:鹿・いのしし・うさぎ・たぬき・さる・きじ・はと・などなど

植物:栗・とちの実・しいの実・くるみ・はしばみ・さるなし・またたび・うるい・などなど

その他:ハチミツ・はちの子・川虫・などなど

川でとれるもの

魚:コイ・フナ・サケ・ウグイ・ナマズ・ウナギ・などなど

カニ・エビ:もくずがに・手長エビ・さわがに

その他:カエル・タニシ・しじみ・などなど

海でとれるもの

魚:まぐろ・はまち・ぶり・ひらめ・あじ・しまあじ・あら・さめ・いるか・くじら・などなど

貝:かき・あかがい・はまぐり・あさり・さるぼう・みるがい・ほらがい・ばかがい・などなど

海草類

畑で作られているもの

サトイモ・長芋・エビイモ・あわ・ひえ・コメ・ごぼう・アブラナ・エゴマ・ひょうたん・などなど

どれも、貝塚や遺跡から発見されたものです。けっこう、うまいもの食べていたんだなあ・・・(笑)うらやましい・・・

先生のページにも写真が出ているので見てください。食べ物のページ

ゲンボー先生

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玉川学園小学部4年 由羽

こんにちは!縄文時代の人は遠くまでは何で出かけて行ったんですか???(H17.9.8)

ゲンボー先生

由羽ちゃん

メールをありがとう。縄文時代の人はどんな遠くにも歩いていったのです。縄文時代の道はいまのように「ほそう」されていません。馬もいません、荷車もありません・・・つまり、歩くよりなかった・・でもね、一日に40キロぐらいは歩けたんだよ。このきょりは江戸時代の人も同じです。

今でもなれれば40キロぐらいは歩けます。

縄文人は遠くの村と「ぶつぶつこうかん」をしていました。町田から長野県の「こくよう石」や新潟県の「ひすい」がでるのはそのためです。

ゲンボー先生

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玉川学園小学部四年 真菜 

私の質問は、カラムシがどこでとれるかです。写真から見ると森や林に多いそうですが・・・・!教えてください。(H17.9.8)

ゲンボー先生

真菜ちゃん

メールをありがとう。日当たりのよい道ばたにあります.学園だと奈良池のほとりにはえています。そろそろかれてしまう季節なのではやく行ったほうがイイかもしれないよ・・でも、一人で行っちゃだめ!・・・必ず先生と行ってください。先生のつごうがわるかったら、ゲンボー先生が連れて行ってあげましょう。その時は担任の先生からお電話をくれるように言ってください。お友達も連れてきてね・・・

ゲンボー先生

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