三カ月以上も続く厳しい冬を乗り切るため、虫達はいろいろな工夫を凝らす。最も一般的には蛹となって身動きしないまま春を待つ。多くの蝶や蛾がこの方法をとっている。秋に孵化したアゲハやモンシロチョウの幼虫は、日増しに堅くまずそうになってゆく葉を、けなげにも一生懸命食べて越冬蛹になる。虫と永年つきあっていて、青虫から蛹へ、蛹から成虫へと容姿を変える変態ほど不思議なものはない。途中経過を知りたくて子供の頃よく蝶の蛹を分解したものだった。しかし蛹の中から出てくるものは水のようなものばかり。蝶の形に繋がるような手がかりはかけらも出てこない。残るのはからっぽになった蛹の殻と、壊さなければ蝶になっていたのにという後悔ばかりである。姿形ばかりか食べ物や行動様式までも変えるには、一旦水に戻すしかないのであろう。
変態をメタモルフォシス(metamorphosis)という。ギリシャ語が語源の「変化」を表すmetaと形態を意味するmorphosisを繋いだものである。メタには自然を超える超という意味もある。理屈が遠く及ばない魔法の力で変身する、そんなイメージが変態にはぴったりである。モルフォシスの方はギリシャ神話に出てくる眠りの神モルフェウスに関係があるのだろうか。この神は眠っている人にいろいろな幻影をもたらすという。
人もメタモルフォシスを望んではいないだろうか。「生まれ変わったら何々になりたい」そんなつぶやきをよく耳にする。生まれ変わらないまでも、今の自分とは全く別人になりたいという変身願望は誰の胸にもあるだろう。しかし空想や夢の世界以外ではそう易々と変身できるはずもない。空想の世界では「ヘンシーン!」と唱えた瞬間、仮面ライダーにもウルトラマンにもなれてしまう。夢の中はさらに自由奔放である。心象無限、つまり心で織りなす夢には制約がない。個人個人の欲求や経験を自在に織りなす。しかし夢も蛹の中身と同じ。壊して中身を見ようとしても何の手ごたえもない。
夢を現実に変えてしまった奴がいる。擬態する昆虫達である。羽の形や裏側の模様を枯れ葉そっくりに変えてしまったコノハチョウ。体全体を枯れ枝とそっくりにしてしまったナナフシ。このように周囲に溶け込んで身をまもる術、つまり忍者の術を隠蔽的擬態と呼ぶ。東南アジアに住むコノハムシは葉の虫食い状態まで真似てみごとと言う他はない。この擬態はmimesisと呼ばれている。この術にはジッと動かないことが肝心で、動くとたちまち化けの皮が剥がれる。
これとは対照的に自己顕示的擬態もある。つまり誇示的擬態(mimicry)である。蝶や蛾の最大の天敵は追いかける人間ではなく、それを食べ物と見る鳥である。ミミクリーの達人であるアマゾンの蝶や蛾は、鳥にとって有毒の蝶の模様そっくりに変装し鳥の目を欺く。変装のモデルとなっている有毒な蝶は、ドクチョウやマダラチョウの仲間である。これらモデルの蝶達は、幼虫時代の食草として鳥に有害な物質を含む植物を選んでいる。幼虫時代に体内に蓄積された有毒物質は成虫になってもある程度保存され、それを食べた鳥はひどい消化不良をおこす。その苦しみを味わった鳥は同じ模様の虫を二度と食べようとはしない。そんなわけで、自分には毒が微塵も含まれていなくても色彩や斑紋をドクチョウそっくりに装っていれば、逃げ隠れせず堂々と振る舞っても鳥の攻撃を受けることはない。日本にも猛毒をもつアシナガバチそっくりに擬態するスカシバという蛾が棲んでいる。
五年前ペルーアマゾンに蝶を追いかけた時、一頭のドクチョウ模様の蝶が特徴のある優雅な飛び方で飛んできた。すかさずネットを振ったが目算を誤ったらしい。振り向くと、なんとくだんの蝶がさっきとはうってかわってシロチョウの飛び方で逃げていくではないか。慌てると変装もどこへやら、本性もあらわにスタコラサと逃げてゆく。「人も誰かに擬態する」という友人の言葉を思い出し、はっとした瞬間である。