宿題は、夏休みの初めにとっくに済ましているのに、セミ採りの方が親には目立ち過ぎたのだろう。ある時、父に「セミ採りばかりしていて!おまえもセミのように鳴いていろ」と叱られ、大きな松の木に一日中縛られていたことがあった。夕方になって、僕がおにいちゃんと呼んでいた近所の大学生が父の目を盗んで縛っていた縄を解いてくれた。その時おにいちゃんは僕を慰めるためミンミンゼミのオスを一頭持ってきてくれたのを今でも覚えている。ミンミンゼミは捕まえている間大声で鳴きわめき、こっそりと持ってくることなどできない相談だから、父は見て見ぬふりをしてくれたのだろう。そのおにいちゃんを確かハルオちゃんと呼んでいたことを思い出したが、今では消息を訪ねるすべもない。
六年生の時、夏休み作品展覧会にセミの標本を出品した。アブラゼミ、ミンミンゼミはもちろんのこと、ヒグラシ、ニイニイゼミ、ツクツクボウシ、それにエゾゼミと、仙台市内に住むセミのほとんどをその抜け殻も含めて網羅していたので、先生が標本箱に銀色の短冊を貼りつけてくださった。その隣には金色の短冊を貼ってある箱が並べてあった。遠くから見てもその箱は一段と目立っていた。中に紫色の幻光を放つ手の平ほどもあるオオムラサキのオスが二頭並んでいたのである。世の中にこんなにも美しいチョウがいることをその時初めて知った。還暦に近づいた今になってもチョウ熱が冷めないのは、あの時の羨ましさが心の底にずっと潜んでいるからだろう。
教育博物館での展示会を引き受けたことをきっかけに身近な昆虫にターゲットを当てたとき、昆虫採集にのめり込んだ原点になっているセミに対する関心が再燃した。横浜の自宅には幸いセミがたくさん発生し、その中でも特にミンミンゼミが多い。小学生の頃あんなに必死になって追いかけたセミが、今では素手でも採れるほど庭に住みついており、ミーンミンミンミーという大きくて主張の強い声に毎朝起こされる。
馴染みのセミ達の他に、クマゼミが隣家の桜の木で毎年八月にほんの少数発生する。玉川学園でも何年かに一度発生するらしくその声を聞いたことがある。東京横浜付近がこのセミの北限になっているのである。この他に高尾山まで足を伸ばせば秋にはチッチッチと澄んだ高い声で鳴く小指の先ほどの小さなチッチゼミや、狭山湖周辺にはムゼイムゼイと声高に合唱する税務署泣かせのハルゼミが五月頃発生する。
日本のセミの鳴き方は世界一バラエティーがあるように思える。東南アジアに出かけた時もアマゾンに出かけた時もセミはたくさん住んでいるのに森は静かで、たまに小さな声でチイチイあるいはシャーシャーとセミらしい声が聞こえるだけだった。セミの鳴き方は声でまねたり文字にしたりするのは簡単ではないし、表現の仕方も人によって違う。ニイニイゼミはチーと聞こえ、クマゼミはシュワシュワシュワと聞こえる。アブラゼミの鳴き方は表現が難しい。僕にはジリジリジリヒャラヒャラと聞こえるが図鑑などにはジィーと鳴くと書いてある。最も変わっているのがツクツクボウシである。ツーブツブツブツという前奏に始まり、ホウシンツクツクホウシンツクツク、ヒッツクツクツク、オヒヨオシオヒヨオシツー。これがツクツクボウシのソナタ形式の歌である。黄昏時にカナカナカナとわびしげに鳴くヒグラシは昔から日本人に親しまれているセミである。ヒグラシという名ではあるが、夜明けの頃もよく鳴くし、薄暗い森では日中に合唱しているのをよく耳にする。
ミーンミンミンミーというミンミンゼミの鳴き真似には誰も異存がないだろう。しかし注意深く聞くと二通りの鳴き方があることに気付く。はじめにアクセントがあるこの鳴き方は、自分の存在を知らせている鳴き方である。その鳴き声に聞きほれてメスがそばに飛んできて近くにとまると、とたんに鳴き方を変える。しり上がりにミンミンー、ミンミンー。これが求愛の鳴き方である。アブラゼミも鳴き方を変え、求愛の歌はギッチラコギッチラコと聞こえる。この二種類が存在歌と求愛歌を極端に変える種類である。