わが家のそばには、待っていさえすれば必ずアゲハに出会える場所がある。家族からは「お父さんのお立ち台」との異名をもらう市民の森の入り口階段がそれである。アゲハチョウの仲間には一定のコースを巡回飛行する習性があり、その道筋を蝶道と呼んでいる。お立ち台はまさにその蝶道なのである。四月のよく晴れた休日には、麦わら帽子、三角缶、特製ネットなど七つ道具に身をかため、お立ち台に弁慶よろしく半日立ちんぼうしてアゲハを待つ。そんな我が姿を想像するだけで気がひけ、散策の人が通りかかる度にネットを振る手が萎縮する。
蝶道に沿って飛ぶのはすべてオスである。捕らえた蝶に目印を付けて放すと、同じ蝶がほぼ三十分後にさっきと同じ方向から飛んでくる。これでオスの行動半径がだいたいわかる。メスは吸蜜や産卵の時以外はめったに飛ばず、どこかに潜んでいる。子孫を確実に残すための本能であろう。危険を顧みず巡回するのがオスの蝶の宿命なのである。
アゲハの幼虫はミカン、カラタチ、サンショウなど、人家にもよく植えてある柑橘類植物の葉を食べて育つので、都会でもしばしば見かける。晩秋に蛹になった蝶はそのまま越冬し、四月に羽化する。それを春型と呼ぶ。春型は小柄で淡いクリーム色が目立ち、春の香りを漂わせている。同じアゲハでも、六月以降に羽化するものは二倍も大きく、まるで日焼けでもしたかのように黒い紋が広がる。
ゴールデンウィークともなると、羽全体が黒いアゲハチョウが蝶道に仲間入りする。わが家や玉川学園付近でふだん見かける黒いアゲハチョウは、クロアゲハとカラスアゲハの二種類である。クロアゲハは名前の通り漆黒であるが、カラスアゲハは黒い地に金緑色の鱗粉を密に散りばめている。クロアゲハとカラスアゲハでは飛び方が違うので、慣れれば遠くからでも見分けがつく。
思えば、少年のころのある日、当時教師をしていた父が「教室に飛び込んできた」といって一頭のカラスアゲハを持ってきてくれた。それは宝石のように光り輝いていた。その時の嬉しさと驚きが、それまでは蝶などには目もくれずセミばかり追いかけていた僕が蝶熱にとりつかれたそもそものきっかけのように思える。
話はそれたが、このほかの黒いアゲハチョウでは、後ろ羽に大きなクリーム色の紋をもつモンキアゲハにたまに出会う。この蝶はもともと南方系であるが、黒潮が届く千葉県あたりまで分布を伸ばしてきている。昨年(一九九八年)初めてジャコウアゲハが我が家の庭に住み着いた。それにオナガアゲハが玉川大学の学生食堂に飛び込んでくるというハプニングもあった。この二種は、ともに長い尾をたなびかせてヒラヒラと優雅に飛ぶ黒いアゲハチョウで、主に山間部に棲んでおり、都会ではめったにお目にかからない。
これらのアゲハチョウの中でも最も馴染み深いアゲハは、日本から東南アジアにかけて広く分布しているが、どの地方の蝶もそっくりで専門家にも区別が付け難い。蝶の羽の模様は目に見える遺伝子と言ってもいいだろう。塩原化石湖の地層に発見された三万年前のアゲハの化石も現在のアゲハとそっくりらしいので、アゲハは遺伝的に安定な種、つまり進化の終点にある種ではないかと思われる。
クロアゲハも遺伝的に比較的安定なようである。これに対してカラスアゲハでは個体間の色調や斑紋の差(個体差)が目立つ。どうやら羽の模様を決める遺伝子が変化している最中であるらしい。とはいえ、個体差は地域ごとに一定の特徴の範囲に収まる。青森から鹿児島まで千キロもあるが、ほぼ地続きであるため、その中に住んでいるカラスアゲハには集団としての差はない。ところが、伊豆諸島、トカラ列島、奄美大島、沖縄、西表島などの島に住んでいるカラスアゲハは、それぞれ独特の色合いをしている。隔離された島で世代を繰り返すうち、遺伝子の微小な変化が積み重なって、各島ごとに独特な姿になったのであろう。ではいつ頃彼らはそれらの島々に住みついたのだろうか。
日本列島の中核ができたのは、今から約四千万年前の、新生代第三紀の中頃といわれる。ちょうどその頃、伊豆半島や伊豆の島々を乗せてフィリピン沖から北上してきた南海トラフが日本の中核に衝突した。琉球列島はその頃まだ海の底であった。千五百万年前には琉球列島付近は全体に陸地となり、中国とも地続きになった。その後、地殻変動や交互にやってくる温暖期と氷河期の海面の上下に伴い、琉球列島は日本本土や中国と離れたり地続きになったりを繰り返した。そして百万年前に奄美大島、沖縄、石垣島などが海で分離され、二万年前の最終氷河期であるウルム氷期にも、これらの島々は地続きにならずに現在に至っているらしい。琉球列島のカラスアゲハは、少なくとも二百万年以上前、中国や琉球列島や日本南部が地続きだった時代に住みつき、百万年前に琉球列島の島々が海で隔てられた時にそれぞれの島に隔離されたのであろう。伊豆諸島がもしも四千万年もの長い間、海没することも本土と地続きになることもなかったとすれば、そこに住むカラスアゲハは、フィリピン方面に住んでいたものの末裔かもしれない。
身近なアゲハチョウひとつ見ても、生物の進化の不思議や、地球の歴史までが思いめぐらされるのである。