これらの虫の中で古来より日本に住み着いていた虫は本の虫であろう。近頃本屋さんを覗くと、書棚に並んでいる本の種類の多さに圧倒される。どうしてこんなに多いのか?それは多分こんな理由であろう。ひと昔前までは、本を著す人種が限られていた。小説家や評論家、それに一握りの科学者ぐらいのものであったろう。ところが今日では誰もが本を書く。だから、あらかじめこれと決めて本屋さんに入らないと、グルグルと書棚を回ったあげく、疲れだけをぶらさげて出てくるはめになる。それにもかかわらず本屋さんは盛況であるし、満員電車の中でも本を読んでいる人を多く見かける。ひところ日本人の活字離れが話題になっていたが、どうも活字離れが進んでいるとは思えない。バブルがはじけて、日本人の気持ちが精神性重視に戻ってきたのだろうか。
日本人は昔から虫に風情を感じ、生活の潤いのひとつとして暮らしてきたようである。特に、秋の虫の声の物悲しさや寿命の短さに哀れを感じ、自分の生活もいつも順調とは限らないことを慰めてきたようである。そのせいか、ある人の研究によると虫の声が日本人の脳では、音楽と同じような扱いを受けているという。ところが西洋人の脳では、虫の声はノイズとして扱われているというのである。
日本語には、虫が入った熟語がいくつかある。その使われ方を分類すると、三つぐらいに分けられそうだ。一つは何かに没頭する様子を表す「何とかの虫」がそれである。もう一つは嫌われ者としての虫という意味を含む言葉で、虫ずが走る、虫が好かない、などがそれである。三つめは心の隙間に巣喰う虫。例えば、弱虫、泣き虫、金喰い虫などなど。このような表現は虫に対する日本独自の文化を反映するもので、外国語には翻訳できない。
昆虫採集が夏休みの宿題として公認されていた僕の子供時代、虫採りはたいがいの子供達が経験する国民的行事だった。しかし、中学生ともなると興味の対象が広がるためか、たいがいの人は虫離れしていく。そのふるいにかけられ、中学、高校、更には社会人になってもまだ虫への執念が続いている人種がいる。それが虫の虫(通称虫屋)である。
虫屋は、なぜかほとんど男性である。この世界では女性は大珍品、ゆえに虫屋の集まりでは大いにもてる。文献上最も古い記録によると、平安時代に一人発生している。提中納言物語に登場する「虫めずる姫君」こと、按察使の大納言の姫君である。花や蝶をめでる普通の姫君とは違って、この姫は「かはむし」つまり毛虫が大好きで、虫篭に入れて大切そうに育て、蝶になっていく過程を観察することを楽しみに暮らしている。人並みの化粧もせず、ひとが忌み嫌う毛虫などを手のひらにのせてかわいがったりして、女の子らしくないと両親はやきもきするのだが、意思のはっきりした素顔が美しい知的な女性として描かれている。いろいろな虫の絶滅が危惧されている中で、この種だけは、嬉しいことに今日少しずつ増加傾向を示しているようだ。
さて、昆虫少年から虫の虫に脱皮するには、いくつか関門がある。第一関門は言わずと知れた受験戦争である。それを乗り切って次に出会うのは就職。それを無事突破しても、そこでやれやれと油断してはいけない。その後に待ち受けているのが難攻不落の第三関門、すなわち結婚である。フィアンセに「私と虫とどちらが大事」と迫られ、あえなく降参した人も多いと聞く。もともと比較にならないものを比べているのだから、まともに答えられるはずはない。もじもじしていると 「やっぱり虫が大事なのね」と言われてしまう。
「そんなにたくさんの虫を集めて何の役に立つんですか」しばしばそう聞かれる。これは難問である。でも答がないわけではない。虫を集めると第一に心がやさしくなる。そんなにたくさん虫を殺して、何がやさしいかと言われそうだが、虫の虫は虫の生活をよく知っているので、どういう環境なら虫が生き延びられるかを考えている。いちばんいけないのが、知らずに虫の住み家を根こそぎ奪う乱開発と、一種類の木しか植えない植林である。特に杉の植林地では一年中昼なお暗く、下草も育たない。だから緑には見えても生き物にとっては砂漠と何ら変わらない。おまけに花粉症という公害まで撒き散らす。
虫集めを推奨する第二の理由は、好奇心と探究心を養うことである。昆虫は地球上で最も繁栄している生物で、種類数は三千万を下らない。その姿形や生態は千差万別で、好奇心をそそることこの上ない。しかも子供でもじかに手にして自然の不思議さに触れることができる。そうするうちに生命に対する畏敬の念や、自分がいったい何物なのかと問う姿勢も自然に芽生える。
名前を言えば誰しも顔が思い浮かぶ各界の名士。そんな道を極めた人たちの中に虫の虫が多い。虫集めを通して探究心や物事に対する洞察力が養われたと言っては言い過ぎであろうか。ヒト科の生物は、食べ物があれば生きていける訳ではない。「人はパンのみに生きるにあらず」まさにその通りで、追い求める夢が食べ物に負けず劣らず大切なのである。没頭すれば寝食を忘れることは、その証であろう。