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会話の「文法」 (By Satomi Kuroshima)

2020年10月13日

ビクトリア・ピークからみた香港市内

私は学会発表や研究会などで海外に出張することが多いのですが,先日も学会で香港に行ってきました.空港から市内のホテルまで同僚たちとタクシーで移動することにしたのですが,タクシーの運転手さんは若い男性でした.乗るとすぐに,”Do you have ajess?”と聞かれ,私たちは一瞬困惑しました.”ajess”と言っているように聞こえるものの,それが何のことかわからなかったのです.しばらく,こちらが”Excuse me?” “I’m sorry?”と聞き返し,相手がひたすら”ajess”と答えるというやりとりが繰り返されました.運転手さんが明らかに辟易した様子を見せた時,ようやく’address’のことを言っているのだということに気づき,ホテルの住所を伝えて無事に出発することが出来ました.タクシーに乗った直後という文脈と,”ajess”に近い発音の語彙を頭のなかで検索した結果といえるでしょうか.みなさんも海外などでこのような経験をしたことはないでしょうか.

上記のような経験は,しばしば,英語でのコミュニケーション(まさにEnglish as a Lingua Francaですね)における「失敗談」として語られることが多いと思うのですが,このようなやりとりを振り返って思うのは,「失敗」と思われるやりとりでも,「成功」している側面があるということです.それは何でしょうか.「相手の言っていることがわからない」というこちらの状況を,十分伝えることが出来ているということです.この一見当たり前のことのように思える事態はなぜ可能なのかを次に考えてみたいと思います.

私たちは普段「何気なく」人と会話をしています.上記のように,ELFコミュニケーションではなくても,相手の発言が聞き取れなかったり,理解できなかったりすると,多くの場合,「聞き返し」をします.この「聞き返し」をとおして,いったん,それまでの会話を止めて,コミュニケーション上の問題を解消し,きちんと相手の発言を理解した上で,また元の会話に戻っていくのです.現に,その問題が解消されたからといって,元々話していた会話も終えられることはないでしょう.

次の会話の断片は,日本人(JS1)と台湾人(FS1)の英語を介したやりとりです.彼らは,私たちの研究プロジェクトに参加協力する形で,初対面でオンライン会話システムを利用して日常的なことについて話をしています.FS1が,寿司が好きだと述べた後,「握り(寿司)」という言い方を持ちだしています.

会話断片「握り寿司」

01 FS1:  uh, how to call, nigiri?
02    ((沈黙))
03 JS1:  eh- ((頭をかしげながら))
04 FS1:  nigiri?
05    ((沈黙))
06 JS1:  nigiri.
07 FS1:  in Ja- Japan, nigiri? ((握り寿司をつかむジェスチャー))
08 JS1:  ah,
09 JS1:  rice ball? ((おにぎりを握るジェスチャー))
10 FS1:  yeah, yeah. rice ball
11 JS1:  I like too.

FS1が1行目で”nigiri”という表現を持ちだしたのに対して,JS1は直ぐに反応出来ませんでした.4行目でFS1がもう一度繰り返したのは,聞き取れなかった可能性を考慮したのでしょう.しかしそれでもJS1 は繰り返す以上の反応が出来ていません(6行目).7行目ではFS1 は「握り」という言葉で何を表現しようとしているのかをジェスチャーを使って表そうとしています.結局,JS1は,「握り(寿司)」ではなく「おにぎり」として理解したことを表示しましたが,それでも,この”nigiri”という語についての「問題」が解消されたとき,JS1 は”I like too”(僕も好きです)という適切な反応をしています.

私は,会話の研究を長年行っていますが,日本語でも英語でも,このような会話を進める上での「問題」が起こった時の対処の仕方は非常に類似しています.ある発話に「問題」があると,直ぐに次の反応をせずに沈黙になったり,聞き返しをしたりする,いわば会話の「やり方」は共通しているのです.このような共通したやり方を持っているからこそ,互いにとって母語ではない英語を介した会話をしていても,何かしら会話上の問題があったことは互いに理解可能だし,だからこそ,それを解決しようと努力することもできるといえます.もしこのような会話の仕方がまったく異なる言語の話者同士のやり取りだったら,こうはいかないでしょう.

それぞれの言語に共通な会話の仕方は,実際,どの範囲までなのかはまだまだ解明が必要です.しかし,多くの言語で会話の研究が進められていて,会話のやり方,すなわち,会話の「文法」には,概ね共通点がかなりあることが分かってきています.みなさんも,英語を使って,他の国の人と会話をする時に,ちょっとだけ注意してみてください.きっと日本語で話す時と同じような会話の仕方をしていることに気づくのではないかと思います.これをふまえると,英語で会話する時に必要なやり方を私たちはすでに分かっていることになります.あとはどういう表現を用いるのかだけです.そう考えると,英語を話すハードルも少し低く感じられませんか.