濃尾平野(のうびへいや)は西部と東部では気候(きこう)や風土(ふうど)が大きくことなり農業のありかたやその歴史がとてもちがっています.今回勉強した輪中(わじゅう)は木曽三川(きそさんせん)とよばれる木曾川・長良川・揖斐川(きそがわ・ながらがわ・いびがわ)の下流地いきで,古くから洪水(こうずい)とのたたかいで耕地(こうち=田畑のこと)をひろげてきました.
この地域には「輪中」と呼ばれる特異(とくい=とくべつかわった)な地域が点在(てんざい=あちこちにあること)しています.輪中とは読んで字のごとく輪の中のことです.輪とは何でしょう?またその中というのはどういうことなのでしょうか?みんなで勉強してみましょう.
これが輪中の断面図(だんめんず)です.川の高さのほうが堤防(ていぼう)の中より高くなっています.このような川を「天井川」(てんじょうがわ)とよびます.天井川はひとたび洪水がおきると家や耕地などが壊滅的(かいめつてき=すべてこわれてしまうようなこと)な打撃(だげき=ダメージのこと)を受けやすく,しかも輪中の地形はお盆(ぼん)のようなものなので長い期間水につかってしまい,さらに被害(ひがい)が大きくなります,昭和34年9月26日にこの地方をおそった伊勢湾台風(いせわんたいふう)は5098人の死者,行方不明者を出すなど,この地域に大きな被害(ひがい)をあたえました.このように,この地域では古くから水による数々の災害(さいがい)がおきていました.
図の中の水屋(みずや)とよばれる建物は,洪水がおきたときに避難(ひなん=にげること)する小屋のことで,中には寝具(しんぐ=ふとんなど)や食糧(しょくりょう=米やみそなど)が備蓄(びちく=ためておくこと)されていました.
現在では,堤防も頑丈(がんじょう)に作られ,こうした大災害(だいさいがい)はおきていませんが,どうしてこのようなところに人が住み生活をするようになったのでしょうか?
三つの大きな川が作っていた無数の中州は人が住むようになった鎌倉時代にまず,中州の周りに堤防をつくることから始まりました.それがちょうど輪の中にあるようだったので「輪中」とよばれるようになったのです.しかし,堤防ができると今度は河床(かわどこ=川の底)があがり,しばしば洪水がおこるようになりました.木曽川は春の雪解けのころから増水し始めます.揖斐川や長良川はそれほど長い川ではありませんが,上流に大雨がふるとたちまち増水する川です.特に長良川は上流の飛騨山地(ひださんち=岐阜県の山々)の水を一気に下流に流すために「暴れ川」(あばれがわ)とよばれていました.
江戸幕府はこの三つの川に堤防を作り洪水をふせごうと考えて,薩摩藩(さつまはん=今のかごしまけん)に命じて工事を行いました.ところが洪水から守られるのは徳川御三家(とくがわごさんけ)の領地である東側の尾張(おわり)側だけで,西側の美濃(みの)側はかえって洪水が多くなりました.なぜなら幕府は木曽川西岸の堤防の高さを,東岸より低く作ることを命じたからなのです.つまり幕府は自分たちの領地(りょうち)を守るために洪水が美濃にいくように作らせたのです.東側の堤防を「御囲堤」(おかこいづつみ)と呼ぶのは,徳川様をお囲いし守っている堤防(ていぼう)だからです.
三つの川の流れを分けて完全に洪水をふせぐことは,輪中に住む人みんなの悲願でした.さあここから先は,輪中に住んでいる人に聞くのが一番です.岐阜県海津町立西江小学校の「輪中のくらし」へリンクしています.
木曽三川と呼ばれる「木曾川」「長良川」「揖斐川」の分流はこの地域に住む人々の悲願(ひがん=つよねがい)でした.
現在の護岸工事(ごがんこうじ=堤防の工事)のおおもとになったのが,オランダ人の技師(ぎし)ケレップの指導による工事で明治35年(1902年)に完成しました.
この工事によって鎌倉時代の昔より沢山の島に分かれていた輪中が,互いにくっつきあって今の形になりました.今では更に丈夫な堤防が作られてそこが輪中であることがわからないほどになっています.下の絵を見てください.左の図は1897年頃でどこが木曾川でどこが長良川や揖斐川かわかりませんね.右は護岸工事終了後の1905年頃の輪中地域の図です.三つの川が分かれています.
左の図の頃までは少しの増水(ぞうすい=水かさがで増すこと)で洪水がおきていたといわれています.この地域の人々は豊かな水と肥えた土をもとに古くから米作りや野菜作りにはげんできましたが,豊かな水が恐ろしい災害のもとにもなっていたのです.水とたたかううことがこの地域の米作りの歴史だったのです.
1897年頃 1905年頃 制作・著作 玉川学園 多賀譲治