弘安の役その後


このページの目次

使者を斬る(元の怒り)  日本のそなえ(防塁)

弘安の役  元軍またも嵐にあう  日本軍が勝った理由  元寇の後  苦しくなった御家人の生活

御家人の不満  最後に  文永の役にもどる


使者を斬る(元の怒り)

文永の役の翌年,建治1年4月15日杜世忠(と・せいちゅう)を正使(せいし=使いの代表)とした元の使い一行が再び日本にやってきました.彼らは戦いのあった博多をさけて長門の室津(現在の山口県豊浦町)に上陸しました.これは使者たちが,うらみのある博多の人々に狙われるのをおそれたからと考えられています.元の使い5名はとにかく天皇や将軍にあって国書を渡す使命がありました.文永の役は「蒙古の恐ろしさを知らせる」のが第一の目的でしたが、今回は,「今度はもっとたくさん軍隊を送るよ・・言うことを聞くなら今のうちだよ」というつもりでやってきたのです.

しかし,杜世忠一行を待ち受けていたのは厳しい処遇でした,大宰府に移りさらに鎌倉に送られた一行は「龍ノ口」(たつのくち=当時刑場だったところ)で全員処刑され,見せしめとして首はさらされました.その時,杜世忠は34歳でした.杜世忠の辞世(じせい=死ぬまぎわに作る詩のこと)は次のようなものです.

国を出るときに妻や子は「いつになったら帰ってきますか」と私にたずねた.
出世のことなど考えずに無事で帰って欲しいと・・・

幕府は断固とした態度を示しました。しかし、それは外交使節を斬ってしまうと言う当時としても異常な出来事でした。戦争・外交ルールの無視というわけですが、幕府はそれを知りながらあえて使節を処刑したわけです・・

そこには若き執権「北条時宗」の断固たる決意があったからです。時宗は尊敬する蘭渓道隆(らんけいどうりゅう=日本に禅宗を伝えた宋のお坊さん)から、「宋が蒙古を軽く見てだらだらと交渉している間に侵略されてしまった」ことを聞いていました。また蘭渓道隆の後継者(こうけいしゃ=あとをつぐ人)である無学祖元(むがくそげん)からは「莫煩悩」(まくぼんのう=あれこれ考えずに正しいと思うことをやりとおしなさいと言う意味)と唱えられ、交渉の道を絶って徹底的に戦う決意を示したのです。

ついで,幕府は弘安2年(1279年)6月に,周福(しゅう・ふく)を正使とする一行を,今度は博多で全員斬りすててしまいました.この段階で元は,前に送った杜世忠たちが処刑されていたことを知らなかったのです・・・・周福たちは哀れでした・・2ヶ月後の8月に,杜世忠を送った水夫らが高麗へ戻って全員が殺されたことを告げました.周福たちは2ヶ月の差で処刑されることになったのです.

このことを聞いた元の軍人達はみな怒り「すぐにも日本をうつべし」と口々に叫びました.フビライは宋の名将,范文虎(はん ぶんこ)に意見を求めました.周福らを送ったのは范文虎だったからです.このあいだにも,日本遠征の準備はちゃくちゃくと進められていました.

目次に戻る

日本のそなえ(防塁)

鎌倉幕府は第2回目の侵略にそなえて九州全土と安芸(あき=今の広島県)の御家人に対して「異国征伐」(いこくせいばつ)の準備を命じ,征伐に加われない御家人には博多に集まり「防塁」(ぼうるい)を築くことを命じました.これが今日博多湾に残る「蒙古防塁」(もうこぼうるい)とか「石塁」(せきるい)よ呼ばれるものです.

防塁を造る役目は要害石築地役(ようがいいしついじやく)とよばれ,やがて御家人・非御家人にかかわらず全ての領主に割り当てられました.

 

博多市内に残る防塁(左)  今津浜に残る防塁(右)

防塁は高さ約2メートル,底辺の厚さは約3メートル.海側が切り立ち陸側にはなだらかな斜面をつけ,敵に襲われにくく,守りやすい形に作られていました.御家人らに割り当てられた分担は,持っている領地の水田約10アールにつき約3センチ,約1ヘクタールにつき約30センチと決められていました.防塁をよ〜く見ると石の種類が変わっているところがあります.それが各御家人たちのそれぞれの分担を表していると思われます.

 

左右の石のちがいが分かりますか?(左) 防塁のほとんどは砂浜の下に埋もれています.(右)

蒙古襲来絵詞(もうこしゅうらいえことば)に描かれた防塁です.季長一行が防塁前を進む場面ですが,よく見るとそれぞれの御家人の守備位置が決められていますね.季長達もこれから自分たちの持ち場に行くのでしょう.

目次に戻る

弘安の役(弘安4年・1281年)

元軍は東路軍(とうろぐん)「兵4万人・軍船900艘」と江南軍(こうなんぐん)「兵10万人・軍船3500艘」の二手に分かれて日本に攻めてきました.※1279年に宋は元との戦争に負け支配されていました.ですから江南軍の兵の大部分は宋の人たちだったのです.下の地図には書き表せませんでしたが,江南軍は寧波(にんぽー)という中国の港から出発しています.現在の上海の近くにあった港町です.

 

5月21日に高麗軍(こうらいぐん)の一部が対馬に上陸,6月6日に博多の志賀島(しかのしま)に上陸しました.しかしこの時,主力の江南軍はまだ現れていません.

 

弘安の役が前回とちがうところは.海岸線に防塁が築かれていたこと.そして関東からも御家人が到着していたことなどです.日本の武士は夜になると敵船に乗りこんで火をつけたり,敵兵の首を取るなどゲリラ戦を行ったと伝えられています.竹崎季長もすね当てをかぶと代わりに,小舟に乗り込んで元の船に攻め込んだと記録にあります.※ゲリラ戦=小グループがそれぞれ敵に攻撃すること

14万の元軍に対する日本軍は全部で6万5千人くらいと言われています。

主力の江南軍と東路軍が合流するのは6月の末になってからで、この間日本の武士は勇敢に元軍と戦ったと伝えられています。合流した元軍は6月27日に肥前(ひぜん=今の長崎県・佐賀県)の鷹島(たかしま)に集結しいよいよ上陸を開始しようと準備を進めました・・・・・そこに大嵐がやってきたのです。

目次に戻る

元軍,嵐にあう

7月30日(1281年08月15日)夜、台風が北九州をおそいました.港をうめつくしていた4千艘(そう)の船は暴風雨にあって,ほぼ全滅という状態です.高麗史(こうらいし=高麗の歴史書)では生き残りの兵19379名と伝え,士官や将官などの上級軍人の死亡率は70〜80%.一般兵士の死亡率は80〜90%というむざんな状態でした.

嵐の去った翌2日は,船の残骸(ざんがい)と無数の死体が海をうめつくしました.「八幡愚童訓」(はちまんぐどうくん)はこのときの様子を「死人多く重なりて,島を作るに相似たり」と書き,「高麗史」もまた「大風にあい江南軍皆溺死(できし=おぼれ死ぬこと)す.屍(しかばね=死体)は潮汐にしたがって浦に入り,浦これがためにふさがり,踏み行くを得たり」と書きました.つまり海を埋め尽くす死体の上を歩くことができたとというわけです.

すっかり戦意を無くした范文虎らは残った船で宋へ引き上げてしまいました.鷹島には置き去りにされた兵が多数残りました.

これを見た日本軍はたちまち生き残りの元軍兵士におそいかかりました.その戦闘は7月7日まで続き,降参(こうさん)して捕虜(ほりょ)となった数千の兵士はそれぞれの御家人の生け捕り分を記録した後,皆ことごとく首をはねられてしまいました.文永の役で活躍した竹崎季長もこのとき残敵狩りに加わり,多くの首をはねて名をあげたようです.・・・今でも博多周辺には元軍兵士の首を埋めたと言われる,蒙古塚とか首塚と呼ばれる場所が残っています.

            

                 蒙古塚の一つ

日本軍が勝った理由

1.博多地方の海岸線に防塁を築き、敵の上陸をはばんでいた。現在土に埋まっている防塁は姿を現すと2メートル以上の高さがあり、海岸側から馬で突破することは困難でしたが、それに比べ陸側(日本軍側)からはスロープになっており、射撃や馬で飛び越えていくことが容易でした。

2.元軍の戦法は文永の役の時に分かっており、前回に比べて御家人の統率がきいていました。すでに文永の役の時から一騎打ちが通じないことを悟った日本の武士達は集団で行動するようになっていました。弘安の役ではそれが徹底していたと思われます。

3.夜になると軍船を個々におそうゲリラ戦が展開され、これが効果を上げていました。日本の武士達は海上に浮かんでいる船を襲うことが恩賞の対象と見ていたので積極的に攻撃を加えました。

4.元軍は東路軍・江南軍の二軍に分かれていたため、互いの連絡が悪かった。このため両軍が同一の行動をするまでにずい分と時間がかかりました。そのあいだ兵士らの多くは船に乗りっぱなしで疲労していた。特に先についた東路軍は日本軍の執拗(しつよう=あきらめずに何度も繰り返すこと)な攻撃と食糧不足、それに水の補給がたたず疫病が広がり、3千人が死んだと記録されています。つまり、東路軍は江南軍と合流する前にすでに疲れ果て戦意をかなり失っていたと考えられるのです。

5.元軍と言ってもその多くは宋や高麗の兵であり、そもそも多くの兵は「士気」が低かった。しかも、将軍同士の不和や意思の疎通に問題があり機敏な行動がとれなかった。2ヶ月以上も海上にいたのがそのあらわれ。

6.そして、なんといってもこれ!「嵐が元軍の船をおそった」。2013年に鷹島沖海底から発見された元の軍船は激しい南風によって沈没したことをあらわすように、複数の碇(いかり)が北にを向いていました。台風は反時計回りに回転しながら進むため、左側を通過すると強い南風が吹くのです。碇の向きはこの時の台風が鷹島の西側を通過したことを物語っており、このコースを通る台風の統計から風速40〜50メートルの風が元軍をおそったと推測されるのです。これは木が根こそぎ倒れ家が倒壊し、人が吹っ飛ぶほどの力です。
こうしたことから考えると、補給計画のなかった元軍はたとえ博多を占領しても、それは日本のほんの一角に過ぎません。最終的には地の利と数で勝り、戦闘力のある日本の武士団によって殲滅(せんめつ=完璧に打ち破ること)されたことでしょう。後世「神風」と呼ばれる台風は、それを強烈な自然の力によって早めた出来事と言えるのです。

目次に戻る

元寇の後

幕府は「元はまだ攻めてくる」と考え,その準備を進めました.

1.九州の御家人を中心に「異国征伐」(いこくせいばつ=敵国に攻撃を加える.この場合高麗を指す)を命じた.しかし,前回と同じように実行はされませんでした.

2.九州の御家人に異国警固番役(いこくけいごばんやく)を命じ,定期的に海岸線の防備をさせました.

3.石築地役(いしついじやく)を続け防塁を作り続けました.

4.いざというときには,幕府の御家人以外の者にも命令する権限をもちました.

※2・3・4は幕府が滅亡するまで続き,御家人の経済を圧迫したと言われています.

 

苦しくなった御家人の生活

あてにしていた恩賞はなかなかもらえず,戦の後も防衛のための出費が続く御家人の生活は次第に苦しくなっていきました.幕府は特に苦しかった九州の御家人を救うために,「借金で手放した領地であっても20年をこえないものは,もとの持ち主に返さなければならない」という法律を出しました.この法律を「徳政令」(とくせいれい)といいます.

苦しくなって土地を売ってしまった御家人は少なくなかったので,多くの御家人が徳政令のおかげで一時的に助かりました.「一時的」にと書いたのは,根本的に生活が豊かになったわけではないからです.「一時しのぎ」という意味なのです.御家人が次に土地を売ろうとしても誰も買ってはくれなかったし,お金を貸してくれる人もいませんでした.また返せという法律が出るかもしれないからです.御家人にお金を出す人などいなかったのです・・・

元寇は恩賞の無かった(少なかった)戦いでした.一方,国内では大きな戦争がなかったために,各御家人の子ども達に与える領地が不足してきました.そこで御家人の多くは自分の領地を分割(ぶんかつ=分ける)して子ども達に分け与えたのです.そうなると一つの御家人の収入が減ってしまいますね.こうしたことからも御家人の生活はますます苦しくなっていったのです.

 

上の図のように,戦で新しい土地を得ることのできなかった多くの御家人は子ども達に領地を分けて与えました.このことを「分割相続」(ぶんかつそうぞく)といいます.「惣領分」(そうりょうぶん)とは家をつぐ人の分,「庶子分」(しょしぶん)とは,それ以外の子どもの分です.今も「惣領分」「庶子分」という地名は日本の各地に残っていますが,それらはこうしたことがあったことの証拠,と言うわけです.

証拠の一つ!・・神奈川県平塚市土屋「庶子分」バス停

目次に戻る

御家人の不満

弘安の役の恩賞は5年間というながい時間をかけておこなわれました.しかもその内容は貧弱で「分割相続」で領地はへり,元寇で出費のかさんだ御家人は幕府政治に次第に不満を持つようになりました.これが幕府滅亡の最大の原因です.

 

最後に

元寇は「外国が攻めてくる」という日本にとって初めての経験でした.島国だった日本は独特の発展をとげていましたが,なかでもこの時期の中心的存在だった武士の社会は,「ご恩と奉公」という将軍との主従関係でなりたっていました.その基本は「働くみかえりに,何らかの利益がある」でした.竹崎季長がわずかな家来とともに大軍に突っ込んでいったのも,熊本から鎌倉まで長い旅をしたのも,すべて「恩賞という見返り」を求めていたからです.季長にしてみれば元との戦闘も,幕府との談判も武士にとっての「いくさ」にかわりはなかったのです.

ところが,多くの御家人にとって「元寇」は大きな出費だけで,何の利益にもなりませんでした.それどころか,ただでさえ苦しくなっていた御家人の生活が加速的に苦しくなっていきました.御家人の生活苦は「分割相続」や「元寇」だけが原因ではありませんが,幕府は「借金の棒引き」に代表されるような「その場しのぎ」の政策しかとれませんでした.その一方「北条氏」だけは力をつけたため,多くの御家人から反発を受けるようになりました.結果的にそれが幕府滅亡の大きな原因になったのです.

鎌倉幕府は外国からの侵略はうまく防ぐことができましたが,根本となる御家人の生活を守ることはできなかったのです.


最初のページ(文永の役)に戻る

「鎌倉時代の勉強をしよう」に行く

製作・著作 玉川大学・玉川学園・協同 多賀歴史研究所 多賀譲治