このページは玉川学園小学部の6年生が行う学習に,バーチャル先生のゲンボー先生をはじめとして,お父さんやお母さん,それに学校や年令をこえてみんなが参加する学習ページです.
学習の内容はこの下にアップされていきます.上手に利用して学習をしましょう.
切り通しにはなんでやぐらが沢山あるんですか?6年芙蓉組 保貴 2002.6.4
「やぐら」の中には五輪塔というまるっこい石を積み上げた供養塔があったはずです。切り通しは必ず人が通るところですから、祖先や親しい人の供養塔をそこに建てて、鎌倉の出入りのたびに死んだ人の霊ををなぐさめたのです。ゲンボー先生 2002.6.4(鎌倉より)
五輪の塔はなんで五輪の塔と言うんですか?6年芙蓉組 恵里
五輪塔は上から「空」「風」「火」「水」「地」の順番で,宇宙を表しています。これを作ってなくっなった人の霊を慰めているのです。ゲンボー先生 2002.6.4(鎌倉より)
鎌倉時代はどうやって砂鉄をあつめたのですか?6年 芙蓉組
信之
次のページに詳しく出ていますから,見てください.ゲンボー先生
たたら製鉄の里、奥出雲を訪ねる (砂鉄のとりかたが良く分かります)
「日立金属」(「たたら」のことが良く分かります)
稲村ケ崎の海にあった砂鉄は、何かの道具を作るために使われていたのですか。6年芙蓉組 惇 2002.6.4
砂鉄は「たたら」という日本独特の製鉄法によって「鋼」(はがね)という,良質の鉄に変身します.鋼は高い熱で熱して何度もたたいて,さらに丈夫な鉄になります.
この鉄は焼き入れといって,水や油に入れて急にさましたり,また熱したりと熱の加減で,バネのように元に戻る性質になったり,ものすごくかたくなったりします.
今でも良い刃物は,この二種類の鉄をうまく使って刃の部分をかたく,その周りの部分を元に戻るようにしてあります.
さて,鎌倉時代そんなに良く切れて,武士にとって必要な刃物ってなんでしょう?
だれか答えてください.ゲンボー先生 2002.6.4
たぶん日本刀だとおもいます。日本刀がないと戦えないし、敵が来てもむかえうてないからだと思います。小学部6年芙蓉 葵 2002.6.4
1.2.稲村ヶ崎にある海の砂浜の砂に砂鉄が含まれていました。武士にとってその砂鉄はどういうふうに使っていたのですか?6年芙蓉組 めりい・彩夏 2002.6.4
川口さん、島田さん、そして谷口君が、武士は鉄で何を作っていたのかということについて考えています。それに対して、鈴木君が「刀だ」という考えを述べてくれています。そうですよね。やっぱり武士は戦うために刀が必要です。戦う時には刀だけではなく、槍や、鎧、兜も必要ですから、鉄を使ってそういうものも作ったでしょう。それから大事なこと。下級の武士は、日頃は何をしていたのでしょう。そう、農業をしていたのですよね。そのために必要な道具も、鉄で作ったのでしょうね。
七里ヶ浜の砂鉄を集めてきた人が大勢いると思いますが、あれでなんとか実際に小さなナイフでも作ってみたいよね。玉川学園小学部 渡瀬 先生
砂鉄はどうやって武器や刀などにしたんですか?夏海
昔のたたら製法だと思います。芙蓉 葵 2002.6.14
たたら製法とはなんですか???芙蓉 真也 2002.6.14
たたら製法とはまず砂鉄を集めてそれを火で溶かし板にしますこの時、火力を上げるために空気を送ります。その時の送り方がたたら、と言う板を踏んでやるのでたたら製法と言います。芙蓉 葵 2002.6.14
「たたら」は今でも島根県を中心に伝統産業として残っています.刃物で有名な安来(やすぎ)にある「和鋼博物館」は「たたら」「刃物」の博物館としては日本最大のものです.先生も昨年いって奥さんのお土産に包丁を買いましたが「ものすごく良く切れるのでコワイ!」くらいでした.その「和鋼博物館」のことを中心にまとめた「日立金属」のページは分かりやすいので,これを参考にしてください.ゲンボー先生 2002.6.15
○の中に十の字の紋は,鹿児島藩(島津家)の家紋です.島津氏の祖先は頼朝の子供という言い伝えがあって.あのお墓を江戸時代に作り直した時に付けたものです.
手前の笹にリンドウの紋は「源氏の紋」です・・しかし頼朝さんの家系の紋ではありません.これも江戸時代の人が「多分そうじゃないか」といって付けたものです・・・
ゴメンなさいね・・こういうことを書くと「なあ〜〜んだ」と思っちゃうかもしれませんが,供養塔(直接のお墓ではなく,その人の偉業をたたえたり,霊をなぐさめる記念ひ)ということで考えればいいわけですね.
では本当のお墓はどこにあるの???と言うことになりますね.
本当のお墓は「法華堂」(ほっけどう)であると記録にあります.平安時代から鎌倉時代には位の高い人は墓石ではなく,お堂に葬られ(ほうむられ)ました.まだならっていないかもしれませんが,奥州(おうしゅう=東北地方のこと)藤原三代のお墓も中尊寺の金堂ですね.あれと同じような感じですね.しかし,肝心かなめの法華堂がどこにあったかはまだ分かっていません.最近の研究ではどうもこの供養塔のあったところらしいとのことです.(2002.12.12訂正)
ゲンボー先生2002.6.4
源頼朝の墓はなぜ質素で小さいのですか 萩組 朝 2002.6.4
芙蓉組の鈴木葵君の質問の返信に書いたとおり,みなさんがお墓だと思っているものは,江戸時代に作られた供養塔で,実際のお墓は階段下の白旗神社のあったところだと言われています.しかし,最近の調査で「どうも違う」らしいのです・・(2002.12.12訂正)
詳しいことは鈴木君への返事を読んでください.
ただ,鎌倉時代のお墓もとても質素です.ふつう武士が亡くなると五輪塔をたてました・・しかし,誰のお墓であるかなどの文字は書いてありません.質素を大切にしたという武士の心をあらわしていますね.
しかし,一般の庶民はその五輪塔すらありません.ほとんど穴に埋葬されてそれでおしまいです.先生のページに由比ヶ浜のお墓のことが出ていますから,参考にしてください.由比ヶ浜の墓地群 ゲンボー先生2002.6.4
分かったことなんですけど、どうして頼朝の墓は質素かというと、もともとは貴族に使われていたのだから、頼朝は武士になってもそんなに大きな墓は作れなかった。6年芙蓉組 響 2002.6.4
平安時代.武士は自分の領地を名目上(めいもくじょう=かたちの上だけで)貴族の持ち物にして,領地を守りました.
そして貴族の屋敷を警備したり,京都で警察のようなしごとをしていました.この時代の武士は完全に貴族に頭が上がらなかったのです.
頼朝が死んだ後,承久の乱という朝廷と幕府が戦う大きな戦争がありました.このとき,頼朝の奥さんだった北条政子さんが,不安がっている関東中の武士を集めて「生活も良くなり,貴族の言いなりにならなくてもいいようになったのは頼朝様のおかげではないか!!!」と演説したのは有名な話です.
これを聞いた武士が感激して「幕府を守るために命を投げ出すぞ!」と,すごい勢いで京都をせめたのが勝因でした.
このことからも分かるように,鎌倉に武士の政権ができてからは,貴族の言いなりにはならなくなった武士の姿を見ることができます.
貴族のようにきらびやかで豊かな生活をしてこなかった武士は,貴族に立ち向かうような力を持っても,質実剛健(しつじつごうけん=勇敢であるという中身を大切にして,見ばえは質素ということ)を生きていく上でのモットーにしたのです.ゲンボー先生 2002.6.4
なぜ位の高い人は墓石では無く、お堂に葬られたのですか。藤組 裕康 2002.3.5
この時代の人は,人は死ぬと極楽か地獄へいくと考えていました.良い行いをしたものは極楽へ・・・そうでないものは地獄へ・・という仏教の教えが元になっています.
そこで,位の高い人はお寺を作ったり,お経を写したり,自らがお坊さんになったりしたのです.
死んでも,極楽へ行けるようにお堂を建ててそこに葬ってもらおうとしたのです.これが流行したのが平安時代の後半からのことです.
一般人は墓石はありません.武士ですと五輪塔,そして位の高い人はお堂というようになっていました.
さて,そこで質問・・頼朝のず〜っと昔のご先祖様は誰でしょう? 分かる人! ゲンボー先生 2002.6.5
たぶん都できゅうくつな暮らしをするより、自由な暮らしをして自分の富をたくわえて勢力を大きくする為に武士になったと思います。芙蓉組 信之 2002.6.10
でも天皇のほうが富もあるし、安全なんじゃないですか.芙蓉 葵 2002.6.10
けれど、安全なだけどきゅうくつ天皇の暮らしに比べ、比較的自由な武士の生活なら土地を開墾して自分の土地にして富を蓄えられると思います。芙蓉組 信之 2002.6.10
ゲンボウ先生!これは、源義家や八幡様に関係ありますか?少しヒントください!美海 2002.6.10
ではヒント.天皇の子供といっても跡を継いで天皇に即位するのは一人だけです.それ以外の皇子達は奥さんの家柄によって良い生活ができるかそうでないかが決まってしまいました.美海さんの書いているように「八幡太郎義家」(はちまんたろうよしいえ)本名は源義家=みなもとのよしいえ=頼朝のご先祖様)の立場はもちろんすごいヒントです.ゲンボー先生 2002.6.11
清和天皇ですか?美海 2002.6.9
ピンポ〜ン・・!!あったり〜〜〜頼朝さんの家系は「清和源氏」(せいわげんじ)といい,始まりは清和天皇(平安時代)の子供でした.同じように平清盛の家系は桓武天皇(かんむてんのう)の子供から始まっていますので「桓武平氏」といいます.
では,もっと聞いちゃいましょう.(誰が答えてもいいのですよ)
問題:なんで天皇の子孫が武士になったのでしょうか?(ギブアップの場合は先生が教えましょう・・へへへ・・)ゲンボー先生2002.6.10
ん〜くやしいけどわからない!!!おしえてください!石橋 2002.6.26
君が広い土地を持つ農民だとしましょう.そう一つの町くらいの広さ・・・大農民だね.君はその地域で一番豊かな農民ということになります.つまり豪族です.君の持っている土地の中には他にも農家があって,君の下につかえています.その人たちは君に守られている農民です.となりの領地には別の豪族がいるのですが,君の土地との境目がよくわかりません.
そんなこともあって,となりの豪族とは時々「いさかい」があります.だから武器を持って自分の領地や農民を守るようになりました.農民が武士になるということがこれでわかりますね.
しかし一番困るのは国司や国司の家来たちです.彼らは高い地位を利用して君やとなりの豪族から,余分に税金を取ったり自分が守っている農民をかってに土木工事や,自分たちの畑で使います.たまに,「ここは自分たちの土地だ!」などどいって領地を奪う役人もいます.
つまり,君たちは豪族といっても国の役人の前ではけっこう弱い立場だったのです.そこで,一族や仲良しどうしの豪族が手を結びました.でも,そのなかの誰が一番トップになって,みんなをまとめたらいいのでしょう???
困りますね.・・・そこで目をつけたのが都から国司としてやってきたけど,地方の生活の方が良いためにそこに残った貴族や皇族の子孫でした.都の貴族といっても豊かな貴族もいれば,貧しい貴族もいました.特に位の低い貴族は地方の役人になることを望みました.なぜなら京都でま貧しい暮らしをしているよりも,地方に行けば良い暮らしができるからなのです.位が低いといっても地方へでれば高い位だからです.
そうした貴族たちに混じって天皇の子供たちもいました.天皇の子供といってもたくさんいて,次の天皇になれるのはその中のわずか一人か二人です.それも母方の家の力が強くなくてはとても天皇などにはなれませんでした.
京都にいて高級な役人になるという道もありますが,それだってそんなにたくさんの人がなれるわけではないのです.
ところが,地方に行って帰ってきた人たちの話を聞くと,とても良い生活を送ることができたとのこと・・そこで,京都にいても良い生活が望めない貴族や皇族が「私も・私も・・」と地方の役人になりたがるようになったのです.
(芥川龍之介という人の書いた「芋粥」(いもがゆ)という短い小説にそのようなことが書いてあるのを読んだ人もいると思います.あの世界です・・)
桓武天皇は平安京を作った人ですがたくさん奥さんがいて,たくさん子供がいました.この子供は天皇の子ですから皇族です.平安京の「平」という文字を名前にしました.これが桓武平氏(清盛など)のはじまりです.
村上天皇や清和天皇の子供たちは「源」を名乗りました.これが源氏の始まりです.
彼らの多くは地方へ行って役人になりました.役人といっても国司ですから今の県知事クラスですね.関東地方にも平氏や源氏がやってきました.彼らの多くは国司の任期(4年)がすぎてもそのままその土地に残りました. なかでも桓武平氏の一族が多かったのです.(後に頼朝に味方した豪族の大部分が平氏だったことがこれでわかりますか?)
これに君たち豪族が目をつけたのです.「この人たちと親戚になればいいじゃないか・・・」そう思ったのです.そしてその皇族の子孫を自分たちグループのトップにしたのです.
今の社会では血筋とか家柄はさほど問題にはなりませんが,昔はとても大切なことだったのです.こうして皇族や貴族の子孫が武士の棟梁(とうりょう=親分)になっていきました.
頼朝が朝廷の位をもらったのも,貴族みたいな服装をしていたのも実は皇族の子孫だったからなのです.きょくたんな言い方をすれば頼朝は武士であり皇族でもあったのです.もちろん実力があったから高い位ももらえたのですが・・・
それだけではなく,三浦氏も北条氏も千葉氏も有力なご家人はすべて平氏ですから,彼らも皇族の子孫ということになってしまいます.
面白いねえ・・実際の生活では農民の親分だったり,漁師の親分なのに・・・
頼朝が鎌倉に幕府を作るときにはこうした武士がたくさん協力しました.彼らの協力がなければ自分の兵隊持っていない頼朝が将軍になれるわけがないのです.でも,それはなぜでしょう?????ここいらあたりが,一番大切なんだなあ・・とゲンボー先生は思っています.
ゲンボー先生2002.6.26
源 頼朝の部下はいったい何人ぐらいいたのですか そしてその人々の墓はどこにあるんですか.芙蓉組 葵 2002.6.10
さあ,いったいどのくらいでしょう.数はあとから先生が教えますが,誰か有名な御家人(ごけにん=将軍の家来)の名前を教えてあげてください.ゲンボー先生 2002.6.11
その有名な御家人って、足立遠山・長谷部信連・和田義盛・大江広元・三善康信とかじゃないですか?私はそうじゃないかな〜?と思いますが、皆さんはどう思いますか? 藤組 真悠 2002.6.13
真悠さんありがとう.まだまだいっぱいいるぞ〜・・・大切なのはそれらの御家人がどこの人かということなのです.それが分かれば君たちのテーマ「頼朝はなぜ鎌倉に幕府を開いたのか」の最も大切な部分が分かると思います.ですから真悠さんのようにこのことについて考えることがとても重要なのです.ゲンボー先生 2002.6.14
建長寺では、武士が座禅をして精神を鍛えたといわれる道場がありました。『座禅』は、どうやって行われたのですか?(ただひたすら、静かに座っているだけなのですか?どのくらいの時間、行われたのでしょうか?)Anna
2002.6.5
深呼吸したりして気持ちを落ち着かせるのでは・・・?芙蓉 美海 2002.6.5
それと、武士が数人で同じところで座禅を組んでいたのでしょうか?疑問がたくさんです!Anna 2002.6.5
真剣をなんどもくぐり抜けるために心を鍛える訓練として座禅をつかったと思われます。座禅は、もともと印度の技です。ちょうど鎌倉期にはそういう技を中国から伝えられた時期でしたから、いつから武士等が座禅をするようになったかがわかることはとても興味深いことだと思います。Takamasa 小学部すみれ組 父兄2002.6.7
座禅の方法は建長寺へおたずねされるとよいかと思われます。
http://www.kamakuratoday.com/search/exper.html 字の通り、<座って、禅をする>のですが、なぜ座ることと禅とがくっついたのか不思議です。スリランカでは歩いても禅をするとい場所があります。
ちなみに座禅を始めたのは達磨(だるま)さんだそうです。Takamasa 小学部すみれ組 父兄2002.6.7
鎌倉時代の武士はいつ敵に殺されるか分かりません.またひとたび戦ともなれば女や子供も殺さなければならないこともありました.いくら敵とはいえ,自分がその立場になったときのことを考えればとてもつらいことです.
源平の合戦の時,平家の若い武将「平敦盛」(たいらのあつもり.16歳)を涙ながらに討ち取り,後に出家(しゅっけ=お坊さんになって仏門にはいること)した熊谷直実(くまがいなおざね)の話はあまりにも有名です.人は何のために生きるのか?なぜ人を殺さなければならないのか?ということを深く考える武士も多くいました.
仏教の教えはこうした人たちの心をとらえたのです.鎌倉時代は,新しい仏教がたくさんうまれた時代でした.それまでも天台宗(てんだいしゅう)や真言宗(しんごんしゅう)といった宗派はありましたが,どちらかといえば位の高い人だけに広まっていたものです.
「南無阿弥陀仏」(なむあみだぶつ)とだけ唱えれば極楽に行けるとといた「法然」(ほうねん)や「親鸞」(しんらん)は「浄土宗」(じょうどしゅう)「浄土真宗」(じょうどしんしゅう)をひらきました.
踊りながら「南無阿弥陀仏」を唱えれば極楽に行ける(仏様にたすけてもらえる)と,といた時宗(じしゅう)の一遍上人(いっぺんしょうにん)もいました.
同じように「南無妙法蓮華経」(なむみょうほうれんげきょう)とお経の題目だけを唱えれば極楽に行けるとといた日蓮さんの,日蓮宗もあります. この人達の教えは分かりやすかったので,たちまち庶民に広まりました.
原さんが説明してくださっているように,禅宗は道元(どうげん)というお坊さんが中国から伝えた「曹洞宗」(そうとうしゅう)と,栄西(えいさい)というお坊さんが伝えた「臨済宗」とがあります.
どちらも座禅を組んで人の生きる道に悟り(さとり)を開くためのものです.
悟りって説明するにはとてもむずかしいことですね・・・う〜ん,なんて言えばいいだろう・・・
「いつ死んでも悔いの残らない生き方を見つけること」かなあ・・「この広い宇宙の,しかも,はてしない時間の中で,ぽっと生まれた自分の存在がわかった」・・ということかなあ・・
とにかく座禅は厳しく自分を問うものですから,こうした気風が武士の生き方にマッチしたのですね.特に北条氏が「臨済宗」を守ったため,関東の武士の間に臨済宗が広まりました.
と同時に禅の教えは,冷静沈着(れいせいちんちゃく=どんなことがあっても落ち着いて判断し行動すること)ということを大切にしていたので,戦になったときに有利に戦えるということでも武士に受け入れられたのです.ゲンボー先生 2002.6.7
この7つの切り通しは江戸時代の名所案内にのっていたものです.それは江戸時代にもこれらの切り通しが使われていたからなのです.実際にはこの7つに選ばれていない「釈迦堂切り通し」以外に,いくつかの切り通しが鎌倉時代にはあったと言われています.ゲンボー先生 2002.6.7
化粧坂の土はむかし海だったところにできたものです。砂のところや粘土のところなどが層になっているために、柔らかいところと堅いところがあるのです。それで長い間にでこぼこになったのです。鎌倉時代には、いつも整備されていましたから。でこぼこではありませんでした。ゲンボー先生2002.6.4(鎌倉より)
釈迦堂切り通しを掘るのにはどのような道具を使ったんですか?
おしえてください.欅組 玲於奈 2002.6.5
そうですよね.先生もあそこへ行くたびに「すごいなあ!」と思います.ブルドーザーもパワーシャベルも無い時代にいったいどうやって掘ったのでしょう?
これについては,ヒントになるらしい写真を撮ってきたので,それを送りますから見てください.それでみなさんで考えてみてください.ふふふ・・ゲンボー先生 2002.6.5
あくまで予想ですけど槍かなんかでどんどん掘ってっていったんじゃないでしょうか そうだったら相当な日数が、かかります。芙蓉組 葵 2002.6.10
私も鈴木君も言っていたように、槍とかでどんどん掘っていったんだと思います。なぜかというと、壁(側面)に何かを刺したような後がたくさん有ったからです。でもそうだとしたら、とても大変だったと思います。藤組 真悠 2002.6.14
これの答えは「昨年の学習」にでています.また実物を見たい人は,「草戸千軒遺跡のページ」の「発見された遺物」に出ています.ゲンボー先生 2002.6.15
天園ハイキングコースで首なし地蔵と大きいじぞうがあったなかなかこわかった。また釈迦堂切り通しの大きな穴はどうやってつくられたのか疑問におもった。そして切り通しのなかには祠がありその中にはなにかが祭ってあった。藤組A班 2002.6.4
わはは・・首なし地蔵は地震や何かのはずみで倒れたときにおれちゃったものです.首の部分が弱いからそうなるのですね・・
釈迦堂切り通しの中にあった穴を「やぐら」といい,なかにある石を積み上げたものを「五輪塔」(ごりんとう)と言います.五輪塔に似ているけど一番上に「とんがりコーン」みたいのが,屋根型の石の上にたっているのを,「 宝篋印塔」(ほうきょういんとう)といい,どちらも死んだ人や祖先の供養(くよう)のために作られたものです.
墓地に作られたものには実際に骨壺が納められたものもありますが,切り通しにあるものはお墓として作られたものではないようです.ゲンボー先生 2002.6.4
1.化粧坂の名前の由来は二通りの説があります.
イ.戦でとった敵の首を鎌倉に入る前に化粧したため.(首実検といって自分の手柄を示すために将軍や侍所の長官,恩賞奉行といった人たちに,敵の首を見せたのです.手柄に応じて領地がもらえましたから武士にとってはとても大切なことでした)
ロ.切り通しは人通りの多いところで,近くの道ばたにはお店もありました.その中にはお酒を出すところもあり,お酒をついでくれる「きれいなおねえさん」もいたようです.そのお姉さん達がお化粧をしていたのでその名前が付いたという説です.
ですから化粧坂に死体や首を並べていたわけではありません.
もっとも1333年に鎌倉が新田義貞軍に攻められたときには,化粧坂でも激戦がくりひろげられて,多くの戦死者が出たと言われています.
その時の死体は近くに穴を掘って埋めたと記録に残っています.いくつくらいあったかは分かりません.
2.質素倹約(しっそけんやく)「質素」と「倹約」という文字の合体語ですね.これは辞書を使って自分で調べてごらんなさい.武士の生活上のモットーですが.これが崩れたことが幕府めつ亡の一つの原因にもなる大切な事がらです.ゲンボー先生 2002.6.7
化粧坂などの坂の砂がとてもさらさらしていて、海岸のような感じでした。なんでなんですか?6年芙蓉組 沙織 2002.6.5
そのとおり・・・何百万年も前に海の底だったところが盛り上がって鎌倉の山ができました.化粧坂はちょうどその部分をけずって切り通しができているから海の砂の部分が出ているのです.
鎌倉の町を取り囲む山の崖(がけ)を見ましたか?そのときの感じを聞かせてください.ゲンボー先生 2002.6.7
あの崖では、敵もせめられないと思いました…!!見た時は土砂崩れがあった時のようなくずれかたでした。芙蓉組 沙織 2002.6.7
切り通しや化坂坂などは、前から鎌倉にあったのですか?それとも源頼朝が作ったのですか?奈々・友希 2002.6.5
切り通しは 頼朝さんが来てから作られたものもありますが,大部分はそれ以前からありました.奈良時代の終わり頃にすでに「鎌倉郡」の名前が書物に書かれていますから,人の行き来があったことが分かっています.
また,平安時代には地方を治める役所「郡衙」(ぐんが)がありました.このことからも鎌倉がこの地方の中心地であったことがわかりますね.なぜ鎌倉が中心地になったかと言えば,外敵から守りやすい地形だからです.
このことこそ,今君たちが勉強していることと関係があるのです.
頼朝のご先祖様はこの鎌倉を自分たちの領地として,住んでいたのです.
さて,ここで切り通しと街道の関係を説明しましょう.それぞれの切り通しは鎌倉と重要な地域を結ぶ道路の出入り口でした.
・朝比奈切り通し
金沢から横浜方面へ抜ける重要路.
・名越し切り通し
逗子から三浦半島に抜ける重要路.
・巨福呂切り通し
建長寺から戸塚方面に抜ける交通路.
・亀ヶ谷切り通し
山ノ内と扇ヶ谷を結ぶ交通路
・化粧坂切り通し
鎌倉と関東の中心地を結ぶ重要路「鎌倉街道上道」の起点.町田を通ります.
・大仏坂切り通し
長谷から藤沢に抜ける交通路
・極楽寺切り通し
腰越から江ノ島.小田原をとおり京都に行く最重要路.
鎌倉時代にはそれぞれの切り通しには木戸が作られていて,役人が人の出入りをチェックしていました.
しかし,ここは人の出入りも多いのでお店ができたり,市が開かれたりと,とても賑わったところでもあるのです.今は人の気配すらしない静かな切り通しも,800年前には一日中人の声や馬のいななき,荷車の音がひびいていたのです.
ゲンボー先生 2002.6.8
滑川って自然にできたものなんでしょうか。それともだれかが人工的に水をひいたのか・・・・ そうだとしたら、いったいいつの人達が?Anna
2002.6.5
滑川の名前は,上流の十二所(じゅうにそう)というところで,河床がなめるようなつるつるしたところを,なめるように流れているからです.
しかし,下流に行くにしたがって胡桃川(くるみがわ),滑川,座禅川,夷堂川(えびすどうがわ),炭売川(すみうりがわ),閻魔川(えんまがわ)と名前が変わっていきます.
川は自然にできたものですが,海へ出るところだけは人が広げたり深く掘ってありました.以前そこを発掘したところ,ひとかかえもある大きな丸太が数本等間隔で並んでいました.
それは大きな船をつないでおく木だったのです.
そこで問題
1.滑川の名前はどうしてかわっていくのでしょうか?
2.大きな船ってどこから来るのでしょう?
(ちょっと難しいかな・・・)ゲンボー先生 2002.6.7
1.はたぶん川の近くにあるものに関係するものが川の名前になったとおもいます。
2.はたぶん食べ物や着るものなどの生活に必要な物を日本のいろいろなところから輸送していたと思います。
芙蓉組 信之 2002.6.10
1番はよくわかりませんが、大きな船はその時代、作るにはとても大変だったと思います。だから他の国などから輸入していたのではないでしょうか。(私のよそうですが。)
欅組 美沙 2002.6.10
その時代、輸入(貿易など)はあったのでしょうか?
今と違って、もっと船ももろい(?)というか、つくりが単純な物であったのではないかと思います(木でつくられてるのはないかと私は思いました。)Anna
船はどうやって造ったのですか?柳組 健 2002.6.14
だれか,健君の質問に答えてください.船と言っても海と川では形や大きさがちがうと思うのですが・・・ゲンボー先生 2002.6.15
1の答えは信之くんが書いているとおりです.滑川は短い川ですが,近くには様々な建物やお店などがあったと考えられています.
2.ヒントの地図です.鎌倉の由比ヶ浜遺跡からは,中国製の「青磁」(せいじ)や「白磁」(はくじ)といった焼き物が多数発見されました.また,諸国の珍しい特産品もたくさん鎌倉に運ばれていました.下で説明している「切り通しと街道」の地図もあわせてみてください.
滑川で灰を運んでいたそうですが、灰や、は、何に使いますか?誰か教えてください!!!
それと、 滑川で生活用品を運ぶことは、分かっていましたがその中でも陶器(皿、コップなど)や衣類も運んでいることがわかりました。芙蓉 たくみ 2002.6.18
この当時皿は何でできていたんですか?芙蓉組 真也 2002.6.19
陶器や磁器ですね.コップはありませんでしたが壺や皿や鉢はありました.もうすこしくわしく書くと庶民は「常滑」(とこなめ)とか「古瀬戸」(こせと)と呼ばれる陶器です.金持ちは常滑や古瀬戸は日用品で使いましたが,ちょっと高級な「青磁」(せいじ)や「白磁」を持っていました.
興味がある人はそれぞれがどんな焼き物なのか調べてみてください.先生のページにも少しのっています.「中世の町を歩く」です.
そうそう陶器と磁器の違いですが,わかりますか?誰か答えてください.ゲンボー先生 2002.6.19
土の質や、焼く温度の違いだと思います。芙蓉組 信之 2002.6.19
ゲンボウ先生のホームページの写真を見てみると、壷や皿は、粘土でも出来ているんでは、ないんですか???芙蓉 たくみ 2002.6.19
陶器と磁器の違い
国語辞典で調べたところ、
陶器=陶土という粘土を原料として作り、あまり高くない温度で焼いた焼きもの。吸水性がある。
磁器=陶石という石を原料にして作り、高温で焼いた焼きもの。吸水性がない。
とわかりました。
つまり、原料が土と石で違うのと、焼くときの温度、吸水性があるかないかの違いがあるようです。
あと、これは余談ですが、頼朝の写真を見ると、変な薄い棒みたいなものを持っていますよね。あれはいったい何なんでしょう?(聖徳太子や徳川家康も持っているし、天皇陛下や皇太子様もお持ちになった事があるみたいです。誰か、教えてください!藤組 大 2002.6.19
スゴイ!すごい! 辞書を使って調べるなんて「やる」ではないか・・・!
そう,土器と陶器と磁器は,同じ粘土といっても違うんだよね.焼く温度だって違うよ,土器より陶器,陶器より磁器とどんどん高温になっていきます.これは技術の進歩の歴史を表しています.
君たちの家にも「土器」と「陶器」と「磁器」がそれぞれあると思います.このさい,どれがどれなのか,おうちの人に聞いてみるのもよいと思いますよ.大学生だって知っている人は少ないよ・・
さて,それでは質問.この中で当時の日本では作ることができなかったのはどれでしょう?
1600年頃に陶石(磁器のもととなる石)が発見されたと聞いたことがあるので、鎌倉時代に作ることができなかったのは「磁器」じゃないでしょうか。美海 2002.6.23
美海さん.よく調べました.ピンポ〜ン!あたりです.日本で磁器が作られるようになったのは江戸時代のはじめ頃です.・・・ということは,それまでの磁器はすべて中国や朝鮮からの輸入品ということになります.焼き物ですから長い旅の間に割れたり欠けたりしたものも数多くありました.由比ヶ浜の近くにある和賀江島(わかえじま)では今でもそうした磁器の破片が落ちています.
そうしたことから,磁器はとても高価なものだったのです.もちろん一般庶民が手にすることはできませんでした.
さて,輸入のことでもう一つ.磁器や陶器以外に「どんなもの」を輸入していたでしょうか?また,日本からは何を輸出していたでしょうか?わかる人答えてください.ゲンボー先生 2002.6.24
頼朝さんや聖徳太子が持っているヘンな薄い棒のこと.
あれは「笏」(しゃく)というものです.長さは36センチ,幅は6センチと決められています.皇族や貴族が着る束帯(そくたい)という服(頼朝さんが着ているあれ・・)を着ているときに右手に持つものです.
もともとは唐(とう=中国)の役人が持っていたものを真似たものですから,飛鳥・奈良の時代に日本にきたものですね. ほんらいの「笏」の字の発音は「こつ」ですが,骨と同じになってしまうのを嫌って,長さがほぼ1勺(1勺=約33センチ)ということから「しゃく」とよぶようになりました. 木の種類は「いちい」「ひいらぎ」「さかき」「さくら」「すぎ」などです.
古い時期には裏側に紙をはって儀式の次第や(プログラム)や,あいさつの文章などを書いておいたもので,いわばメモみたいなものでした.それがしだいに形式化していったのです.
またまた,質問 頼朝さんは武士なのにどうして束帯を着て笏を持っているの?
これすご〜く大切な問題です.わかったらえらい! ゲンボー先生2002.6.20
鎌倉は、3方を山にかこまれもう一方を海にかこまれていて、攻められにくく守りやすい地形とかんがえられます。しかし、海から攻められたという事があり、守りやすい地形が逆にあだとなってしまったというようにも考えられるとおもうのですが、どうなのでしょう?芙蓉組 芽依 2002.6.5
長所は短所になるという良い例です.昔から攻めにくいお城というのがありますが,そうしたお城は山の上とか川やほりに囲まれているために「兵糧責め」(ひょうろうぜめ)といって周りを囲んで食糧の補給を止めてしまえば,かなりきびしい状況になってしまいます.事実,そうして守りきられたお城はきわめて少ないのが事実です.
教科書では,「周りが山に囲まれ,一方が海のために頼朝は鎌倉に幕府を開いた」と書いてありますが,うのみにしないで他にも条件がないかを考えることが大切ですね.ゲンボー先生 2002.6.7
ここでいう幕府というのは、実際に頼朝が政治を行った館のことですよね。その当時、どんな建物だったのでしょうね。もっと後の時代になれば城の様子が頭にうかぶのですが。
それから、森君のように、自分はこう思うけれども、皆さんはどう思いますか、とか、ゲンボー先生、どうでしょうか、というメッセージの発信の仕方がいいですね。ただ「○○は××なんですか?」というのではなく、自分はこう考えているんだけど、ということが大切だと思います。 玉川学園小学部 渡瀬 先生
建築物は主にヒノキや杉が使われました.鎌倉の周辺にも木がありましたからそれを使ったと思いますが,町が大きくなり建物が増えるととてもそれだけでは間に合いませんでした.それで,大きな川のある上流で木を切り,それを「いかだ」にくんで海まで運び,更に船にくくりつけて鎌倉まで運びました.
そこで問題.鎌倉にはそうして集められた木をせんもんに売買するところがありました.それはどこでしょう?地図に答えがのっています.
ところで,建物をつくるときには「木」だけではたりませんよ・・だれか,他に何が必要か教えてください.
ゲンボー先生 2002.6.7
建築物の道具は木のほかに鉄の道具で掘って作ったのではないか?欅 葉月&彩実 2002.6.14
木のほかに、建物を作るときに必要な物は、釘とかだと思います。でも、鎌倉時代には、釘はあったのでしょうか?誰か教えて下さい!!藤組 真悠 2002.6.14
葉月&彩実さん真悠さん,次のページを見てください.先生が昨年行った広島県の草戸千軒遺跡のページです.ここに君たちの知りたいことが全部出ています.
ゲンボー先生 2002.6.15
馬は「牧」とよばれる牧場で飼育されていました.この近くだと横浜市青葉区にある「石川の牧」や八王子市の「由比の牧」が知られています.
こうした牧は関東地方に多く,当時の関東地方は馬の産地でもあったことが分かっています.ここで育てられた馬は町に連れていって売買されました.買うのは主に武士です.
牧場主も農民と同じで力のあるものは「武士」として自分の領地を守っていました.頼朝に味方した武士の中にはこうした牧場主も多くいたのです.
では,当時の馬はどんな馬だったのでしょう.テレビや映画に出てくる馬はサラブレッドとかアラブという外国の馬ですが,鎌倉時代の馬はちょっとちがいます.写真もありますからゲンボー先生のページを見てください.
http://www.tamagawa.ac.jp/sisetu/kyouken/kamakura/
「鎌倉時代の武士と生活」を開いて,絵の中の「牧」や「うまや」をクリックしてみてください.
ゲンボー先生 2002.6.7
なんで関東の馬はじょうぶだったんですか?夏海 2002.6.10
誰か考えてあげてください.ゲンボー先生 2002.6.11
僕は、武士達が馬に乗って戦ったからではないかと考えました。藤組 雄太 2002.6.25
平安時代から鎌倉時代の関東地方は開拓地だったのです.広い原野がどこまでも広がり大きな川がうねっていました.しかし,時代とともに道もしだいに増えて,西から人や新しい技術も入ってきました.人々はまず河の近くの低地に田んぼを作りました.さらに水路をつくり川からはなれたところにも田んぼを作っていきました,ゆるやかな斜面には畑も作りました.こうして人々は原野を開拓していきました.
やがて,貴族の力が強まるとその貴族の力を利用して自分の土地を守ろうとする人があらわれました.こうした土地のことを「荘園」(しょうえん)といいます.貴族ではなく力のある神社にたよったところを「御厨」(みくりや)といいます.そうすることによって,地方の役人に余分に税を取られたり,勝手に家来を使われたりすることがなくなるからです.
中には広い土地を利用して牧場を作り馬を育てる人もいました.こうした土地を「牧」(まき)といいます.関東地方にはいくつも牧がありました.馬は武士にとって最も大切なものの一つです.
戦の時に敵と戦うときに思い通りに動かない馬だったらどうなりますか?逃げるときに足が遅い馬だったらどうです?そういう馬に乗っていると命がなくなるのです.つまり首をはねられてしまうのです.
君たちだったらどうします?・・・・そうですね・・・多少高くても良い馬を買いたいでしょ?
だから,馬を育てるというという商売はかなり良い収入になったのです.こうした牧も名目上は貴族や大きな寺,神社の持ち物になっていました.
ところで当時の馬は今の馬とはちょっと違います.ホームページの写真にもあるように,「ずんぐり」しています.
今の競走馬は 足が長くてすらっとしたサラブレッドですが,それは整備された競馬場を走るからそれでいいので,でこぼこ道やアップダウンの多い日本の土地では役に立ちません.
日本で活躍する馬は,胴長,短足・・力があってどんなところでも走っていける頑丈な馬です.有名な「ひよどり越えの逆落とし」も今の馬なら,たちどころに足の骨が折れていたことでしょう・・・
※「ひよどり越え」=平家の守る一ノ谷(今の神戸の近く)に,山の上から攻めようとした義経が,鹿ががけを降りるのを見て,ひきいる軍勢に「鹿も四つ足なら馬も四つ足.鹿が降りられて馬がおりられぬ訳がない!」とつっこんでいった話.
この戦いで平家の四分の一が死んだと言われています.
牧ではそうした馬を育て,訓練をしました.育てた馬は「頭が良くて」「丈夫で」「足が速い」ものが高く売れますが,そうした馬は有力な貴族や武士に売られました.普通の馬は市場で売られたり,武士の館へ連れて行ってそこで売られました.馬を買った人は自分の牧で訓練し飼い慣らしました.(※写真の絵は「竹崎季長」が元の兵と戦っている様子・・馬がやられています.)
2002.6.26 ゲンボー先生
頼朝は武士だと思う!!!芙蓉 真也 2002.6.12
頼朝は武士の中でも一番偉い、征夷大将軍ですよね。(だいたい、この征夷大将軍というのはどういう位なのでしょう?)そしてその征夷大将軍(将軍)に直接使えた御家人、それから御家人に使えていた武士達とでは、それぞれやっぱり同じ武士でも身分が違うよね。普段は農業をやっていて、いざという時には戦いに参加したというのは、どのレベルの武士なのでしょうか。渡瀬先生 2002.6.12
渡瀬先生が書いているように一言で武士といっても「いろんなレベル」の武士がいました.武士は元々農業や漁業や牧畜などをやっていた人たちが「自分たちを守るため」に武装したのが始まりですね.一番多かった農業でお話しすれば,土地を沢山もった豊かな農民もいれば,ふつうの農民もいます.また土地を持たずに小作人として土地持ちの農地を借りて農業をする貧しい人たちもいました.
豊かな農民は村をまとめて戦の時は主人として兵をまとめます.この人達を「豪族」(ごうぞく)といいます.豪族ほどの力はないけれど自分の土地を持っている農民は豪族の家来として戦いに参加しました.この人達を「郎党」(ろうとう)といいます.いずれも日常は農業をしていますが,いざというときには武士になりました.ここまでが馬に乗って戦う人たちです.
土地を持たない小作人達は「下人」(げにん)とよばれ,これらの人々にしたがって身の回りや馬の世話,それに主人を守る役を持っていました.下人と同じような立場でその家の使用人は「所従」(しょじゅう)とよばれ,戦の時には下人と同じような働きをしました.彼らは馬に乗ることは許されず,歩いたり走ったりしました.
さて,豪族達は親せき同士,本家を中心に互いに結束していました.本家の主人,つまり一族のトップを「棟梁」(とうりょう)といいました.戦のときには棟梁を中心にそれぞれが郎党を引き連れて一族がまとまったのです.もちろんその下に下人や所従がいるというわけですね.
で・・頼朝さんの立場ですが,これらの棟梁をまとめた更にその上の棟梁ということになります.こうした人のことを「武家の棟梁」といいますが,当時の人は頼朝さんのことを「鎌倉殿」(かまくらどの)と呼んでいました.頼朝さんは主に関東の武士をまとめた武士の棟梁ということになります.
ところで,頼朝さんの家来になった豪族を「御家人」(ごけにん)と呼びました.以後,頼朝さんが亡くなったあとも将軍のことを「鎌倉殿」,将軍の家来になった豪族を「御家人」と呼ぶ習わしになりました.ゲンボー先生 2002.6.13
参考のページ 「武士と荘園のページ」
「普段は農業をやっていて、いざという時には戦いに参加したというのは、どのレベルの武士なのでしょうか」という渡瀬先生の質問に対しての考え.
かなりの下級武士だと思います!武士にもかなり身分の違いがあるんですね、芙蓉 安菜 2002.6.18
いえいえ,それがちがうのです.戦国時代には確かにそうなりましたが鎌倉時代は「馬」にのる身分の人が戦ったのです.
互いに名乗りながら1対1で戦います,では下級の武士はそのあいだ何をしていたかというと,周りで「そら,そこだ!」「がんばれ!」などと応援していたのです.信じられないでしょうがこれは事実です.
平安時代から鎌倉時代の武士は自分の領地をかけて戦いました.戦に勝って敵の首を取ればその首の主の地位によって恩賞が決まったのです.戦いの前に名乗りを上げるのは武士らしく勇ましく戦うという意味もありましたが,相手の身分を互いに知っておくと言うこともあるのです.
将軍と御家人の関係は「ご恩」と「奉公」で成り立っていると言われますが,奉公とは役所で働くことと戦に参加することです.武士は敵の首を将軍に見せてそれによって新しい領地をもらいました.これが「ご恩」なのです.
鎌倉時代の「よろい」が「ど派手」なのも「大声で名のる」のも目立つからです.これは味方にも活躍をみてもらいたからなのです.敵と味方に目立って自分をアピールしたのですね.江戸時代のサラリーマンてきな武士とはかなりちがいますね.
今の戦争の常識からは考えにくいことですが,これが平安時代〜鎌倉時代の武士の戦い方でした.
時代が新しくなって,戦国時代に大軍団で戦うようになると「槍」をもつ下級の武士が戦いの中心になります.やがて鉄砲が入ってくると武士の戦は鉄砲中心になります.高級な武士は自ら戦うことよりも指揮官としての役割が強くなっていきました.
それとともに「よろい」も目立たないようになり,鉄砲の弾が貫通しないように鉄製の頑丈なものに変わっていきました.
社会の仕組みによって戦争の仕方も変わるし,武器やよろいの形も変わってくると言う話ですね.
ゲンボー先生 2002.6.20
源義経の幼少時代に鞍馬山で義経を襲った伝説がありました。※他に烏天狗のことがわかる人は、教えてください。 たくみ 2002.6.17
君たちが行ったのは建長寺の中の「半僧坊」(はんぞうぼう)というところです.階段脇の斜面に大きな天狗像とたくさんの烏天狗がいたでしょう?自分や友達に似たのがなかったですか?(笑)
さて半僧坊にまつられている大権現は建長寺でも最も奥まった高台にあって,建長寺を守っています,その大権現様のお供が実は天狗なのです.さらに,その天狗の家来が烏天狗というわけです.
つまり,あそこにいた天狗さんや烏天狗達は建長寺を守っているというわけですね.
しかし,「半僧坊」自体は明治時代になってからできたもので,鎌倉時代には無かったのですよ.ゲンボー先生 2002.6.18
将軍はいました.ただし武士の将軍ではなく「天皇の子供」とか,貴族の将軍でした.・・・・??????なんででしょう?不思議だなあ・・・!!!!!ゲンボー先生 2002.6.20
ってゆーことは、将軍ってかざりものだったんですか?あゆみ 2002.6.21
そうかなあ・・・・だんだん近づいてきた・・・じゃあ,誰が実権をにぎっていたのでしょう?ゲンボー先生 2002.6.21
実権を握っていたのは北条泰時(北条氏)と言う人では、ないでしょうか? 芙蓉 ゆき 2002.6.21
さあ,ここからは本当に複雑でややこしいよ・・・でも,決して君たちに分からないことではありません.時間がある人.興味のある人は「どうやって北条氏が実権をにぎっるようになったか」そのできごとを調べてみてください.そしてわかったことをここに書いてください.ゲンボー先生 2002.6.24
社会の時間に渡瀬先生もおっしゃっていましたが、「幕府を開いたからといってその時点で全ての武士達が幕府の味方になるかというと実はそうではない」。必ず不満を持つ武士達がいるはずです。
後醍醐天皇もおそらくその一人で、鎌倉幕府が気に入らなかったために、幕府に不満を持つ武士を集め、幕府を倒して政権を取り戻そうと企てたのだと思います。藤組 大 2002.6.21
1221年に幕府を滅ぼす命令だしました
承久の乱・・・このことをしった政子は、鎌倉に御家人を集めて頼朝いらいの御家人と団結を説き大軍を京都へ送った。朝廷の軍は敗れて語と後鳥羽上皇は隠岐島(島根県)へ流された。これを承久の乱という。芙蓉組 真也2002.6.21
ちょっと時期が混乱しているようです.君たちがやりとりしているのは後鳥羽上皇の「承久の乱」ですか?それとも後醍醐天皇の「建武の親政」ですか?それによって,なぜおきたかの中身が違うからです?ゲンボー先生 2002.6.22
後醍醐天皇が幕府を倒そうと思ったのは、幕府が鎌倉に開かれた時点から100年以上がたってからのことです。後醍醐天皇に従った武士達は、なぜ幕府に不満をもったのでしょうね。そのきっかけになった出来事は何だったのでしょうか。玉川学園小学部 渡瀬先生 2002.6.22
多分,それは「元寇」で戦った武士が褒美をもらえず,徳政令をだしたけど逆に不満がつのってしまったんじゃないかと思います。はじめ2002.6.22
僕も同感です!「元寇」の戦に日本は勝ったものの、この頃の幕府は確か財政が厳しく、勝ってもあまり褒美をもらえなかったようです。だから、幕府に不満を持っていたのではないでしょうか?藤組 大 2002.6.22
僕もそう思います。それとあと、この間渡瀬先生がおっしゃっていたんですけど、今までお金を貸していた方も、「徳政令」によって借金が帳消しになってしまったためにもう貸さなくなりました。そうなると農民が困って、だんだん幕府に不満を抱いていったそうです。芙蓉 やすたか 2002.6.22
私は、荏子田小学校の6年生、香純です。 質問は、というと「元軍」と戦った武士の不満を、教えてもらいたいのです.2002.6.22
「幕府の財政が厳しい」というのは,ちょっとちがいます.頼朝さんの頃からず〜〜〜っと,幕府が持っている褒美を与えたのではなく,将軍がご恩として敵から奪った土地を分配していたのです.それに,このころの幕府で中心的な存在だった北条氏は広い領地を持ち,もっとも豊かに栄えた時代だったのです.ご家人の生活はどうして苦しくなったのか,もう少し原因を整理して考えた方がいいと思います.
その上で北条氏との差を考えれば答えが出てきます.ゲンボー先生 2002.6.22
徳政令のようなおかしな法律がなぜ出たのか?このことが大切なポイントだと先生は思います.ゲンボー先生 2002.6.22
大君、やすたか君、
幕府が滅びる原因について、考えが深まってきましたね。ゲンボー先生のおっしゃていることとつながると思いますが、なぜ、元冦のあと、幕府は財政がきびしかったの?なんで、御家人たちに褒美をたくさん与えられなかったのですか。そのあたりを考えてみて下さい。 玉川学園小学部 渡瀬先生 2002.6.23
父から聞いた話ですが、本当に政治を動かす実権を持っていたのは、幕府ができる前は、天皇だったのに、北条氏が幕府の実権を握っていたときは、北条氏の上には、政治を動かす力のない、「将軍」がいて、さらにその上には将軍よりも政治を動かす力のない天皇がいたことになるんです。
だから、本当ならばあまり力を持たない「執権」の北条氏が一番力を持っていたということは力関係(?)がまったく逆の状態だったんだとおもいます。
ということは、絶対何よりも力を持っているはずの天皇が、武士に勝手に政治を動かされておもしろいわけないはずです。天皇はもちろん政治の実権を取り戻したいんだから、元との戦で力の弱くなった幕府を「これ幸い」と攻めてくるのは、はっきり言わなくても幕府(力を持っている北条氏)がじゃまだったからだと思います!!
でも本当に複雑です・・・。あゆみ 2002.6.23
さあ,ここからは本当に複雑でややこしいよ・・・でも,決して君たちに分からないことではありません.時間がある人.興味のある人は「どうやって北条氏が実権をにぎっるようになったか」そのできごとを調べてみてください.そしてわかったことをここに書いてください.このページを見ている人もどんどん意見をください.学校はどこでも良いのですよ・
ゲンボー先生 2002.6.24
徳政令は、北条氏が考え出したものなのですか?それとも、他のだれかが考え出したものなのですか?教えて下さい。2002.7.2 藤 ゆき
幕府が借金などに困っている人を助けてあげようと思って徳政令を出したのではないですか?2002.7.2 Nana★Imai
そのとおりです.その時幕府の中心だったのが北条氏です.北条氏はこの時たいへん大きな力を持っていて,代々本家をつぐ人が支配していた領地の広さは平清盛以上でした.(※代々本家をつぐ人を「得宗」とくそう.と呼びました)貧しくなった御家人とは全く反対ですね.2002.7.2ゲンボー先生
川崎市、新城小学校の、優です!
今度私も,鎌倉見学に行きます。そのための,下調べで分からないことがあったので、インターネットで調べていたら,このページへたどりつきました。
ちょうど,分からないところが書いていたので,すごく助かりました。また,分からないところがあったら,ひらいてみたいです。 2002.6.17
新城小学校の優さん、
メールをありがとう。優さんも6年生ですか。鎌倉のことでわからないことがあったら、是非、疑問をアップして下さいね。玉川学園の子たちもその問題について一緒に考えますね。優さんも、玉川の子どもたちの疑問についていろいろ考えてみて下さい。違う学校の子どもたち同志が社会科の学習のことを一緒に考えられるなんて、素晴らしいよね。
玉川学園小学部 6年社会科指導担当 渡瀬恵一
大学生4年の相庭と申します。教育実習先の小学校にてちょうど源平の戦いについて実践授業をおこなった時に子供から出た質問です。2002.6.21
なぜ源平合戦の通り道は海の近くに集中しているのですか?
「鎌倉時代の勉強をしよう」のページ(日本中から質問がきています・調べページにも使ってください)