玉川学園・玉川大学・協同 多賀歴史研究所 多賀譲治
目次 承久の乱・その原因 承久の乱・上皇の決起 素早い幕府の対応 大軍団,京都を制圧する 乱のその後 最後に 「みなさん,心を一つにして聞いてください.これは私の最後の言葉です.頼朝様が朝敵(木曽義仲や平氏のこと)をほろぼし関東に武士の政権を創ってから後,あなた方の官位は上がり収入もずいぶん増えました.平家に仕えていた時には裸足で京まで行っていたあなたたちでしたが,京都へ行って無理に働かされることもなく,幸福な生活をおくれるようになりました.それもこれもすべては頼朝様のお陰です.そしてその恩は山よりも高く海よりも深いのです.しかし,今その恩を忘れて天皇や上皇をだまし,私達を滅ぼそうとしている者があらわれました.名を惜しむ者は藤原秀康(ふじわらひでやす)・三浦胤義(みうらたねよし)(二人とも朝廷側についた有力武士)らを討ち取り,三代将軍の恩に報(むく)いてほしい.もしこの中に朝廷側につこうと言う者がいるのなら,まずこの私を殺し,鎌倉中を焼きつくしてから京都へ行きなさい」
これは吾妻鏡(あずまかがみ)や承久記(じょうきゅうき)に書かれている北条政子(ほうじょうまさこ=頼朝の奥さん)の言葉です.鎌倉の御所に集まったご家人(将軍と主従関係をむすんだ武士)たちはこの言葉を聞いて涙を流し,京都へのぼり朝廷の軍と戦う決意をしました.
政子は反乱の首謀者(しゅぼうしゃ=中心になって企てた人)が天皇をあやつっている後鳥羽上皇(ごとばじょうこう)であることを知っていましたが,その名を出すことは決してなく,あくまでも上皇の誘いに乗った藤原秀康・三浦胤義を撃ち破れといっています.その彼女の演説からわずか一月後に京都は20万の鎌倉方軍勢によって完全に制圧されてしまいました.この出来ごとを「承久の乱」とか「承久の変」といいます.そしてこの乱の後,世の中は大きくかわりました.このページでは承久の乱の原因と結果について学んでいきます.
鎌倉方(幕府)と朝廷側についた武士の色分け.この図は当時の武士の支配地と朝廷側支配地をほぼあらわしています.(空白部分はどちらにもつかなかった地域です)
荘園に地頭がやってきた
頼朝は全国に守護・地頭をおきました.このことは皆さんも知っていますね.しかし実際には近畿地方・北陸地方・中国地方・四国の瀬戸内側・九州の北部などでは,平氏が持っていた荘園以外に地頭を置くことはできませんでした.それでも荘園が寄進(きしん)されていく過程の中で,平氏に少しでも関わりのあった荘園には地頭が置かれていきました.配置された地頭の中には勝手に年貢をとって自分のものにしたり,土地を奪ったり,農民を自分の支配下におこうとする者もあらわれました.そうした荘園を持つ貴族や皇族も多くいたわけです.またこのころになると,荘園整理令によって数多くの荘園が摂関家から院に移っていきました.しかし実際にこれらの荘園を開拓し農地を作って管理しているのは豪族,つまり武士だったわけです.平家を撃ち破り力をつけた武士は.鎌倉将軍と主従関係をもち「ご家人」になると,いまさら名目上の領主である,貴族や院に年貢を払わないという者もあらわれました.
つまり,貴族や皇族にとって地頭を送ってくる鎌倉幕府は「目の上のたんこぶ」,邪魔者でしかなかったのです.
東国からの荘園の寄進が止まってしまった
東国の荘園はそのむかし,摂関家(藤原氏などの有力な貴族)あるいは大きな寺社(東大寺や伊勢神宮など)に寄進されてきました.前に述べたように荘園の実際の持ち主は豪族ですが,年貢を少しでもやすくしたり,境界争い,それに役人からの嫌がらせ(金を出せとか,勝手に領内の人間を使ってしまうなど)から自分の領地をまもる工夫をしました.自らは荘園の管理人と言う地位になって,名目上の持ち主を力のある摂関家や寺社にしていたわけです.こうした荘園のことを学問上「寄進地系荘園」(きしんちけいしょうえん)と呼びます.しかし,東国に武士の政権ができ新しく自分達をまもってくれる将軍と主従関係を結んだ今,新しく自分の領地を院や大寺社に寄進するものなどあらわれるはずがありません.つまり京都にいる貴族や院や大寺社は東国からの荘園寄進がパタっと無くなってしまったというわけです.(荘園のことをくわしく知りたい人のページ)
承久の乱直前の荘園の年貢と寄進先をあらわした図です
後鳥羽上皇があらわれた
後鳥羽上皇はスポーツ万能,楽器もできて双六などのゲームにも強い,しかも競馬,流鏑馬(やぶさめ)など武士さながら武芸にはげみ,その上当時一番の教養だった和歌を作ることにも優れていました.有名な「新古今和歌集」はこの人が作ったようなものだと言われています.つまり,歴代天皇の中でもピカイチの天皇から上皇になった人です.上皇となれば朝廷からは退きますが,実際には院にはいり天皇に大きな影響力を与えていました.こうした政治を院政とよびます.院政は平安時代の終わり頃から行われるようになり,天皇を頂点とする朝廷よりも力があったために荘園の多くが院に寄進されるようになりました.つまり後鳥羽上皇は日本一の荘園の持ち主でもあったわけです.ところが幕府ができてしまったばっかりに,荘園に配置された地頭が年貢を払わなくなったり,東国からの荘園寄進もなくなってしまったのです.上皇は優れた人でもありましたがそれだけにワンマンでした.「日本で一番偉いのは俺だ.なのに鎌倉(幕府)はなんだ.北条氏はなんだ!」と思うのは当然のことでした.
承久3年(1221年)5月14日後鳥羽上皇は「流鏑馬ぞろい」(やぶさめそろい)と称して集めた諸国の武士1700人あまりに対して,北條義時(ほうじょうよしとき=鎌倉幕府の執権)を討てという命令を出しました.この時何も知らされていなかった武士は一瞬とまどいましたが,その多くが上皇につくと約束しました.同時に幕府と親しかった貴族,西園寺公経・実氏(さいおんじきんつね・さねうじ)親子を捕らえ,京都にいたご家人中ただ一人上皇の命令をこばんだ京都守護の伊賀光季(いがみつすえ)の館をおそう命令を出しました.伊賀光季の館は翌15日に襲われ,光季親子は勇敢に戦いますが昼過ぎに討たれて死にました.
武士の政権を甘く見た上皇たち
頼朝が死に頼家と実朝が暗殺されたのを知った上皇は,幕府内部で有力ご家人同士が争うだろうと判断しました.特に北条氏と三浦氏の実権争いはかねてより上皇も知っており,京都にいた三浦胤義(みうらたねよし=三浦義村の弟)から,「上皇が北条氏にかわって兄に関東を治めろ言えば,ウハウハいって北条氏をやっつけることでしょう」という言葉を心地よく聞いていました.「そうだろう,ひとたびこの俺が宣旨(せんじ=命令)を出せば,日本中の武士が集まってくるに違いない」・・・・そう思い込んでしまったのです.ワンマンだったために周囲には冷静に情勢を判断できる人や,上皇を諌める(いさめる)人がいなかったのです.これは現代にもいえることですね・・・・※三浦義村は相模最大のご家人で北条氏とは仲が悪かった
「のんき」だった朝廷軍・「素早く」対応した鎌倉(幕府)軍
ひとたび宣旨が下されれば日本中の武士が朝廷側につくだろうと思っていた上皇やその側近(そっきん=位の高い家来)たちの期待とは裏腹に,実際の動きは上皇たちの考えとはまったく逆の方向に動いていきました.
今も昔も情報が大切
上皇方は5月15日に宣旨を発し,三浦義村をはじめとする全国の有力豪族には「恩賞は思いのままにとらせる」という密書を送りました.ところが,親幕派の伊賀光季と西園寺公経からの急使もまた鎌倉に急を知らせていたのです.・・・ここから鎌倉方(幕府)の大逆転が始まったと言ってよいでしょう.
光季の使いは15日午後8時早々に京都を出発しました.ところが宣旨を持った使い(押松丸という名前だった)は日付の変わった16日午前4時まで京都にいたのです.その差約8時間・・・公経の使いが何時に出発したかは不明ですが,密書中に光季の死が報じてあることから,光季の使者の後に出ていることは確かなところです.また「朝廷の使いも本日到着の予定」と述べているので,押松丸の後から出発した可能性もあります.そして鎌倉に着いた順は次のとおりでした.
1着「光季の使い」19日午後12時頃.
2着「西園寺家の使い」同日午後2時頃.
3着「上皇方の使者(押松丸)」同日午後5時頃.
当時の東海道は整備されたとは言え,京都と鎌倉間は徒歩で約16日,場合によっては数十日を要しました.大きな川に満足な橋は架かっていません.その上,雨が降ればぬかるみ状態が数日も続きました.各駅には伝馬が用意されていますが,早馬でも7日はかかるのが普通で,至急の場合でも5日間かかりました.3日半で京から鎌倉まで走りきった3名の急使は,休みはおろか,眠らずに駆けたに違いありません.押松丸も光季の使いとの差を4時間ほど縮めています.可哀想に葛西谷辺りをうろついていた押松丸は,捕らえられて宣旨を取り上げられてしまいました.というわけで幕府はわずか5時間の差で先手を打ち,御家人の掌握に成功したのです.もしこれが逆だったら歴史はもっと違う展開になっていたことでしょう.
鎌倉時代の東海道.京都と鎌倉を結ぶ幹線として発達しました.それまでは信濃を通る東山道がメインの道路でした.使者はここを3日半で駆け抜けたのです 「友を食らう」と評された三浦義村でさえ密書を持って幕府に駆けつけてきました.御所の庭に集まった御家人のほとんどは,「何が何だか良く分からない」状態です.京都方と戦うかもしれないといううわさ話もあったかもしれません.動揺(どうよう)や不安もあったでしょう. そこへ政子達が現れて先の演説になったというわけです.
幕府首脳は,その日のうちに上皇軍と戦う作戦を立案し,軍団編成の大まかなプランも整えました.急使が来てからの幕府の動きはまことに素早く当を得たものでした.宣旨さえ出せば関東の武士はことごとく院・朝廷になびくだろうという思い違いをしていた上皇方とは大きな差です.押松丸の出発が遅れたのも上皇方の緊張感の無さを表しています.こうして敵の先手をうまくかわした幕府は乱に勝利しました.だが,その裏に急使たちの一刻一秒を争うレースがあった事も忘れてはなりません.今も昔も,正確に,早く情報を得ることが大切であることをしっかりと物語る出来ごとでした.
鎌倉軍の進軍経路.鎌倉軍は19日に政子が演説してからわずか3日後に準備を終えて軍を京都にすすめた.
幕府はおよそ20万の大軍を京都に向けました.当時の京都への道は中山道:東海道:北陸道がありましたが,移動する軍団の規模(きぼ)から分かるように,この時期すでに東海道がメインであったことが分かりますね.東海道を西上する主力軍団の司令官は後に武士の法律「御成敗式目」(ごせいばいしきもく)を作り名執権とよばれる北条泰時でした.この素早さとは逆に朝廷(上皇)方の動きは鈍いものでした.幕府軍が大挙して京都を目指していることを知った朝廷(上皇)軍は慌(あわ)てて木曽川に防衛ラインを敷(し)こうとしましたが,彼等がつくかつかないかうちに,幕府軍の攻撃が始まりました.5日に始まった戦いはわずか1日で決着がつき,朝廷軍は総崩(くず)れとなり敗走しました.
このことを知った京都では貴族から民衆までが幕府軍の攻撃を恐れ西へ東へ逃げまどいました.上皇は自ら武装し軍団を指揮して京都宇治川に防衛ラインを敷きますが,6月14日ついに濁流(濁流=にごった急流)を突破した幕府軍がなだれ込み,ついに幕府の大軍は京都に侵入しました.
承久記ではこのときのことを次のように書き記しました。
「板東方(ばんどうがた=東国=鎌倉方のこと)の兵ども,深草・伏見・岡屋・久我・醍醐(だいご)・日野・吉田・東山・北山・東寺・四塚に馳(は)せ散り馳せ散り,あるいは1,2万騎,あるいは4,5千騎,旗の足をひるがえして乱入す.大臣,北の政所(きたのまんどころ=摂政の妻),女房,局(つぼね),若い女房,遊女にいたるまで,声をたて,をめき叫び,立ちまよう.天地開びゃくより王城洛中のかかる事いかで有らじ.かの保元のむかし,また平家の都を落ちしも,是ほどにはなかりけり.名をも惜しみ,家を思う重代の者共は,ここかしこの大将にさしつかわされて,あるいは討たれ,あるいはからめとらる.(中略)戦したるすべも知らぬ者どもが,あるいは勅命(ちょくめい=天皇の命令)にかりだされ,あるいは見物のためにい出くる輩(やから)ども,板東の兵に追い詰められたる有り様は,ただ鷹の前の小鳥のごとし.射殺し,切り殺し,首をとること若干なり.板東の兵,首一つづつとらぬものこそなかりけれ」
乱後の処置はまことにきびしいものでした.
後鳥羽上皇−隠岐の島に配流/上皇の持っていた荘園はすべて没収
順徳上皇−佐渡が島に配流
土御門上皇−土佐に配流
貴族で上皇方についた6人−実朝の妻の兄「坊門忠信」一人が流罪となり,他は処刑(死刑)
上皇方についた武士−ほとんどが処刑(死刑).領地はすべて没収
六波羅探題が朝廷の動きを監視しました
朝廷では討幕派に捕らえられていた西園寺公経が復帰し,新しく後鳥羽上皇の兄である行助法親王(ぎょうじょほうしんのう)の子を天皇(後堀河天皇)とし,父である行助法親王は天皇になったことはないのに「後高倉院」として異例の院政を行いました.以後は西園寺公経を中心とした幕府よりの朝廷になっていきました.さらに,幕府軍の総指揮官だった北条泰時と「おじ」の時房は京都にとどまり,朝廷を監視したり近畿地方のご家人の統括をするための六波羅探題(ろくはらたんだい)を作りました.以後,六波羅探題は幕府の出先機関として,朝廷と近畿地方の幕府に対する反逆を抑える,重要な役割を果たしました.(幕府の組織図はこちら)
新補地頭が配置されました.
乱の後,幕府から近畿地方の国々に調査のための役人が派遣(はけん)されました.彼等は上皇方についた武士を徹底的に調べました.その上で彼等の領地をすべて没収したのです.その数は3千ケ所と言われています.これによって,これまで幕府側が手を出せなかった西国の荘園にも新たに地頭を配することができたのです.地頭の多くは東国から派遣された武士です.こうした地頭のことを学問上「新補地頭」(しんぽじとう)とよびます.この後,彼等の多くはじわじわと荘園を侵略し,やがて荘園の半分を自分達のものにしていきました.
上皇が鎌倉を討てという命令を出したと知った5月19日の二日後,一足先にわずか18騎の手勢を従え進発した東海道軍の総大将北条泰時は途中で引き返し,父の義時に天皇自らが出陣してきた時はどうすればよいかと尋(たず)ねました.そのとき義時は「よくぞ尋ねた,その時は弓を折って降参しろ.そうでなければ千人が一人になっても戦え」と言いました.ところが泰時が執権の時に(承久の乱以後)新しい天皇が即位するにあたって,部下の安達義景(あだちよしかげ)が「もし後鳥羽上皇とともに戦った順徳天皇の皇子が即位してしまったらどうしましょうか」と尋ねたとき,泰時は「よく気がついた,何も考えることはない,その時は皇位から降ろしたまわれ」と言ったそうです.どちらも似たような話ですが乱の前とあととでは大きな差があります.これは幕府の力が強まったことを如実(にょじつ=はっきりと)にあらわすエピソードです.以後,幕府(北条氏)は朝廷をうまく利用しながら政治を行っていきました.そしてそれは,その後の武士政権の基本的なスタイルになりました.
東国の武士は長い間,祖先が拓(ひら)き自らが体をはって守り抜いてきた大切な領地を,国司をはじめ強力な豪族からまもるために,やむをえず縁もゆかりもない京都の権門勢家(けんもんせいか=貴族や大寺社などの有力者)に寄進してきました.言い換(か)えれば,東国の武士たちは200年の長きにわたって京都に搾取(さくしゅ=うばわれること)され続けていた存在と言えるでしょう.日本に,もし革命と呼ばれるようなものがあったとしたら,それはまさに頼朝の旗揚げとこの承久の乱といっても過言ではないでしょう.源平争乱の後,義経がかってに朝廷から官位をもらったということで頼朝は激怒します.それは常に京都の公家や寺社にへつらい,朝廷に支配され続けていた武士が,長い間の束縛(そくばく)から解放され「武士の,武士による,武士のための政治」を目指している頼朝や,頼朝を担(かつ)ぎ上げた東国の武士たちの思いを踏(ふ)みにじるものであったからです.頼朝の旗揚げは平家打倒という看板をあげながらも実は「武士の事は武士がおこなう」という「東国武士による京都からの自治権の獲得運動(かくとくうんどう)」でした.それにくらべて今回の承久の乱はあきらかに朝廷に対する反抗で,頼朝や彼等の父が築き上げた武士の政権,武士の利益を守り抜く戦いであったのです.上皇の誘いに乗らず鎌倉方が一致団結できたのはまさにその点にあります.承久の乱は,いわば京都に支配されていた東国の独立運動と言ってもよいのです.
頼朝が武士政権のレールを曵(し)いたとすれば,承久の乱はいよいよレールの上を列車が動き始めた状態です.このときはすでに源氏は絶えて幕府は北条氏を中心とするご家人の集団指導体制へと移行していました.
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